第75話 超一房、38歳の往生





 京に入るために近江路は避けられない街道でございます。

 このとき一遍上人さまが目指されたのは、京への再度の挑戦でございました。


 天台宗叡山の支配下にある江州では名が知られ始めていたとはいえ、一介の旅の僧が門徒を連れて都に乗りこみ、畏れ多くも「踊念仏」で念仏賦算しようというのでございます。絶大な権力を誇る延暦寺や園城寺の反発は必至でございましょう。


 なれど、


 ――京の衆生に、いまこそ念仏賦算を。


 という一遍上人さまのご決意は堅く、時衆とご相談のうえ、1年後ついに入洛を果たされるのでございます……が、わたくしの命はすでに消えかけておりました。


      *


 弘安6年(1283)11月21日。

 逢坂山おおさかやまの東の関にある関寺せきでら(現大津市)。

 そこがわたくしの終焉の地となりました。


 銀杏の落葉が秋の日に金色に煌めいておりました。


「超一房、いや綾乃。わしより先に逝ってはならぬ。さあ、共に京へ入ろうぞ」

「かかさま、かかさま。わたくしを置いて逝かないで!」


「綾乃さま。菜々さまのためにも、しっかりなさってくださいませ」

「われらがお慕いする教母さま。どうかもう一度お目を……」


 懐かしいみなさまのお声が、しだいに遠のいてまいります。

 

      *

 

 暗い、暗うございます。

 浄土の光はまだ見えませぬ。


 二河白道を渡れば、黄金に光り輝く西土に至るのでございましょうか。

 もう少し、もう少しでございます。

 このまま渡らせてくださいませ。


 息が、息が、苦しゅうございます。

 どうか弥陀のお助けをどうか……。

 

 ああ、少し楽になりました。

 もはや浄土が近いのでございましょう。

 もう一歩、二歩、この足を踏み出せば……。


 美しい花ばなが見えてまいりました。

 あんなにたくさん、浄土の風に吹かれております。

 なんと麗しいこと……。

 

 生老病死。

 恩愛離苦。

 

 見るべきものは、ことごとくを見てまいりました。

 思えば、わたくしほど幸せな女がおりましょうか。


 ご生地から一歩も出ることなく生涯を終わる方がほとんどでございましょうが、わが夫・一遍上人さまのおかげで、わたくしは各地を経巡ることができました。


 どの国でも人びとの温かな情けを受け、多くを見、多くを聞き、多くを知って、人として、女として、尼として、まことに充実した38年間でございました。

 

 ああ、いい匂い。

 甘くて酸っぱい。

 かかさまの匂い。

 

 上人さま。

 そんな悲しい目でご覧にならないで……。

 わたくしはどこへも参りはいたしません。

 ずっとあなたさまに連れ添っております。

 

 千都さま。

 本当はどう思っておられたのですか? 二番目の妻として現われたわたくしを。

 いまさらお心を隠しあそばしますな。女人であれば、当然のことでございます。

 

 聖戒さま。

 年頃の少年は、歳上の女に憬れやすいものにございます。

 たまたまそういう時期であっただけのことにございます。

 

 実有さま。

 そんなところから、じっとわたくしをご覧になってはなりませぬ。

 あなたさまの執着が怖かった、いえ、本当はわたくし自身が……。

 

 そして、だれよりも超二房、いえ菜々。

 そなたはわたくしの命そのものでした。

 母としての喜びを与えてくれたそなたの幸せを、永久に祈っていますよ。

 

      *

 

 ああ、足が跳ねまする、手がくねりまする。

 念仏房さまの鉦鼓が激しく鳴って、超二房が楽しそうに踊っております。

 才槌頭の上人さまも、大井さまの縁先で巧みに音頭をとっておられます。


 念仏称名と踊りがひとつになり、透き通った佐久の空へ昇ってゆきます。

 さあ、みなさま、もっと激しくもっと華やかに、それそれそれそれ……。


      *

 

 一遍上人さま、最後のお願いでございます。

 わたくしが往生いたしましたら、菜々は伊予へ帰してやってくださいませ。


 市阿弥陀仏さまに先立たれたあと、あの娘は深い悲しみに堪えてまいりました。

 もう十分でございましょう。どうかふつうの娘にもどしてやってくださいませ。


 千都さまが節子さまと同じように慈しんでくださいます。

 わたくしの遺言、どうかきっとお聞き届けくださいませ。

 

      *


 一遍上人さまをはじめ、時衆の全僧尼の念仏称名に送られ、わたくしは胸の上で合掌して静かに往生いたしました。それを悲しんでくださったのか、同日の夕方、了一房と前仏房のふたりの尼が、12月に入ってから今一房が往生いたしました。

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