第60話 若い尼の誘惑





 長いあいだの念願だった祖父のご供養を果たされた上人さまは、しばらくは周辺で念仏賦算の行を積まれたあと、時衆と共に、一路、南へときびすを返されました。


 けれども、深い雪、苛烈な寒気にさらされる陸奥の冬の旅は困難を極めます。

 頭巾を目深に法衣の襟元を掻き合わせても、手足の感覚が失せてまいります。


 凍った道の歩きにくさに、ついに裸足になってしまった者もおりましたし、高熱を発したり、腹痛を訴える者も出てまいりましたが、頼りとなるのは笈籠に入れてあるわずかな干薬草のみ。まさに死と隣り合わせの真冬の遊行でございました。



 無念なことには、またしてもみんなの胸に邪念が生じてまいるのでございます。

 きびしいとわかっている季節にわざわざ北方の陸奥へ出向き、あえてこのような苛烈な目に遭わねばらないのは、ひとえに上人さまの我執のゆえではないか……。


 自らの意思で選んだ道であることを、都合よく忘れてしまうのでございます。

 正直に申せば、このわたくしの胸にも、恨みつらみが競りあがって来て……。

 まことに情ない限りでございます。


      *

 

 ところで。


 帰依者の増加に従い、時衆に尼僧が増えて来たことはうれしい事実ではございましたが、そのうちにそうとばかりも言っていられない事態が生じてまいりました。


 一部の女子はことのほかに、力を持つ異性に対する憧憬が強いのでしょうか。

 若い尼のなかに個人的に一遍上人さまを恋慕する者が出て来たのでございます。


 たしかに上人さまは、集団の絶対的な権力者であられました。

 二番手の他阿弥陀仏さまでさえ、その足もとにも及びません。


 そんな強者、さらに申せば独裁者であられる一遍上人さまへの尊敬の念が別種の情愛へと変容していく過程を、わたくしはつぶさに目撃せねばなりませんでした。


 昼も夜も、四六時中、行動を共にしておりますので、同行者の心のありようは、目の動かし方、手の差し出し方ひとつで、痛いほど鮮明に読み取れてしまいます。


 若い尼たちが寄せる教祖さまへの思慕は、集団にとって、ある程度は必要であることをわたくしも認識しているつもりではございましたが、わたくしの立場を承知していながら、目の前で露骨な媚態を見せつけられますと平静ではいられません。

 

 季節もよくなったある日の休憩の折り、手拭いで汗を拭おうと、渓流のせせらぎの音をたどってまいりますと、ひそやかな女の囁き声が聞こえてまいりました。


 若い尼のひとりが上人さまの腕に縋り、しきりになにか訴えております。

 上人さまは無言でしたが、かといって腕を振り払おうともなさいません。


 わたくしの全身から、血液が音を立てて引いてまいりました。

 鳥肌が立って、ぞくぞくする身体を無理やり引き返しました。


「おや、超一房さま、どうなさいました? お顔の色が……」

 目敏く見つけた念仏房さまが駆け寄って来られましたが、

「いいえ、大丈夫、ちょっと目まいがしただけですから」

 弱みを見せたくないわたくしは、ついと顔を背けました。


 これはわたくし自身で自覚している欠点なのですが、心に深い傷を負ったとき、弱さをだれにも見られたくなくて、堅い殻に閉じこもってしまうのでございます。


 先ほどの光景を忘れたくて頭陀袋の整理をしておりますと、超二房がやって来て「かかさま、わたくしの袈裟、おかしくないかしら」と訊くのでございます。着古して傷んでおりましたのを見兼ね、篤志家がご供養くださったものでございます。


「いいえ、ちっとも。よくお似合いですよ。でも、もう少しこうなさったら……」わたくしは手を伸ばして、娘の真新しい袈裟を直してやりました。それを機に気分が替わったのでしょうか、わたくしはやっと自分を取りもどすことができました。

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