神崎ひかげVSマンドラゴラ・フォックス
狐
“酩酊卿”、動く
「……呑むために、持ってきたのに」
“神崎ひなた”はセーラー服に忍ばせたスキットルを取り出し、物憂げに眺める。つるりとしたアルミの表面が自らの姿を映し、彼女は静かに顔を顰めた。この後“約束”があるのに、こんなに血に染まった表情ではあの子に顔向けできない、と。
廃ビル、壁材の剥がれた広い部屋の隅。廊下を照らすマズルフラッシュを横目に、彼女は息を潜めて自らの傷を確認する。右肩に銃創。左脚が折れ、お気に入りの眼鏡にはヒビが入っている。考えうる限り最悪の状態だ。せっかく持ってきた酒を、傷を癒すために使わねばならないなんて。
彼女は右肩にスキットル内のウィスキーを振りかけると、声を出さないようにセーラー服の襟を噛んだ。傷口が染みるが、治すためには仕方がない。これは消毒ではなく、れっきとした治癒行為なのだ。
肩の傷が塞がっていく。“酩酊卿”と呼ばれる彼女の能力、
「消毒してやる……。この傷は、絶対倍にして返してやるから……ッ!」
彼女は血中アルコールを消費して虚空から武器を生成。向かってくる敵の群れを一望打尽にすべく、用意を始める。
* * *
「そう遠くには行ってない筈だ。探せ! あのお嬢さんを捕らえて、僕たちの時代を作るんだ!」
この街を統べる経済団体の一員である若き実業家、稲荷は武装した私兵を引き連れ、神崎ひなたを追い詰める算段だった。理由は他でもない。フリーランスの正義の味方、神崎ひなたの存在が邪魔なのだ。
稲荷に付き従う私兵は皆、頭部に小さな子葉が植えられている。これにより、彼は私兵を手足のように扱えるのだ。彼の持つ
「いいか、殺すなよ? あのお嬢さんは傀儡としての利用価値が大きい。種を植えれば、何よりも優秀な兵器の出来上がりだ! あの
ショットガンやサブマシンガン、マグナム等で武装する私兵の自我を操りながら、稲荷は彼女がいるはずの部屋へ足を踏み入れた。
——無数の銃声。銃声銃声銃声銃声銃声。防弾メットを装着した私兵の首をも無慈悲に蹂躙するのは、床面から頭を出したガトリングの砲塔である。広範囲に撒き散らされる貫通弾の渦は、質量で私兵のケプラーコートをボロ布へ変える!
「……小癪なァ!」
稲荷は肉壁にした前衛兵の頭部から勢いよく子葉を引き抜くと、スタングレネードめいて投擲する! 絶叫を放つ赤児めいた根は、通過するだけで天井の蛍光灯や窓ガラスを破砕した。
鼓膜を破壊されてその場に崩れ落ちる私兵たちを眺めながら、稲荷は不敵に笑った。
「僕は慣れたが、常人は聞くだけで発狂は免れない。せめて楽しげに踊ってくれよ、お嬢さん!」
硝煙が晴れ、部屋の全容が明らかになる。スイスチーズめいて風穴の空いた壁面に、痙攣して床に倒れる私兵の群れ。血と死の匂いが充満する地獄の最中、“彼女”はそれでも立っていた。
「あはは、あはははははは……」
「ハッ、恐怖で狂った? まぁ、じきにその恐怖も取り除かれるだろうさ。安心していいんだよ、水やりはきちんとするから……!」
「あははは、嫌だよ。あたし、怖いのは苦手なんだ」
立っていたはずの彼女が、静かに揺れた。同時に蛍光灯がスパークし、部屋全体が暗闇に包まれる。生き残りの私兵が見たものは、眼前に迫る、銀の閃光だけだ。
月光に照らされたのは鮮血で、部屋に充満したのは断末魔だ。断続的に続く悲鳴と銃声の渦中で“彼女”の哄笑だけが嫌によく響く。
「あははは、怖いねぇ……怖いねぇ……!! だから、早めに狩ってあげるね!」
「……照明を焚け! 生存者は一ヶ所に固まるんだ!」
フラッシュライトが捉えた彼女は、壁を蹴って跳躍する最中であった。カッターナイフを逆手に持ち、目にも止まらぬ動きで敵の喉笛を掻き斬る。身につけている黒いセーラー服と相まって、その姿は小さなネコ科動物の影が機敏に動いているようだった。
稲荷と目が合った彼女は、新たな獲物を見つけたとばかりに残忍な笑みを浮かべる。その表情は、或いはその戦闘スタイルは、それまでの神崎ひなたの物ではない。稲荷は困惑しながら、私兵から銃を奪ってベランダへと駆け出す!
「……動くな。何者だ、アンタ? さっきまでと戦い方が違いすぎるんだけど」
「……答える必要はない、かな!」
稲荷は知らない。彼女が飲酒を犠牲にして賭けた、最後の可能性の存在を。
断酒による極度のストレス環境下で生まれる、もう一つの人格。力に対する速度、陽に対する陰。『神崎ひかげ』は、彼女の精神世界における獰猛な隣人である。
既に彼女のセーラー服は血に染まっている。稲荷はカッターナイフを腰だめに構えて突進してくる神崎ひかげをいなし、バックフリップ・ジャンプでベランダの欄干を飛び越えた。眼下に迫る文明の灯、『即日ローン』と書かれた電飾看板を睨みながら、稲荷は虚空から生成した小さな根菜を手にする。
「マンドレイク・グレネードだ……狂ってしまえ!」
奇怪な叫び声を上げながらスーパーボールめいて跳ね回るマンドラゴラを敵に向けて投擲し、稲荷は膝を着いてアスファルトに着地する。オーダーメイドのスーツが汚れたが、気にすることはないだろう。
例のマンドラゴラはなおも叫び続けている。鼓膜を破り、平衡感覚を狂わせる音響攻撃だ。敵に向かってくる意思がまだあったとしても、ベランダから身を乗り出して階下へ落ちてくるはずだ。その後は、いくらでも勝ち筋はある。稲荷は勝利を確信し、唇を歪めて薄笑いを浮かべた。
「勝利の美酒は、ワインにしようか! ヴィンテージの赤が飲みたい気分だなァ……!!」
「……それ、あたしも貰っていい?」
——稲荷の頭上で、神崎ひかげはカッターナイフを翻した。刃を地面に向け、勝ち誇った稲荷の脳天を狙って重心を傾ける。自由落下によって増した速度が、流星めいた軌跡を描いた。
決着は一瞬だった。稲荷は血を吐き、地面に伏す。その身体をクッションに着地した彼女は、捕まえてもなお叫び続けているマンドラゴラを齧った。
なぜ彼女がマンドラゴラの攻撃を無効化したのか? その答えは、彼女の能力の作用にある。彼女は、飲酒によって既に平衡感覚を失っているのだ。それは断酒状態でも変わらず、神崎ひかげの緩慢な動きの一因となっていた。
「あはは、そろそろタイムリミット? 仕方ないなぁ、ひなたも約束があるって言ってたもんね!」
神崎ひかげはニヤリと笑い、脳の奥底へダイヴしていく。彼女はあくまでも副人格であり、主人格の意思は尊重する算段だった。
* * *
『ひなたん、急に体調悪いって……!! 大丈夫なの!?』
「あぁ、うん……どうせ、いつもの二日酔いだから! それより、せっかく予約して待っててくれたのにドタキャンしてごめんね。今度は私が奢るから、今日は好きなように食べて!」
レストランが入った高層ビルの屋上で、神崎ひなたは物憂げにワンカップの蓋を開けた。彼女にとって守るべき日常の象徴は、今頃下の階で食事を摂っているだろう。返り血を浴びた顔で、会うわけにはいかない。
この能力が身についてから、彼女の身体的成長は止まった。既に親友と酒を酌み交わせる年齢であるのに、彼女だけはセーラー服を着ているのにも理由がある。これはある種のゲッシュであり、誓約なのだ。
「ごめんね、タマちゃん……」
親友のおおらかさに、今まで救われてきた。だからこそ、この秘密は自分だけが抱えなければいけない。彼女はそう思っていた。常人との断絶がある身体能力も、闘争の最中でしか生きられない生業も、隠し通せば日常に溶け込むことができる。
距離は離れていても、繋がっている。どこかで聞いた美辞麗句に縋りながら、彼女は遠くに見える満月に向かって乾杯した。親友も、同じ月を見ていることを願って。
神崎ひかげVSマンドラゴラ・フォックス 狐 @fox_0829
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