ユーゴ

 テュポーンの上半身が消滅した。


「死ね」


 遅れて轟く声。いや、その男にすればただを呟いただけだった。アジア人。瞳と髪は黒く、髪は短い。年齢は40、いや、50を過ぎているだろうか。中肉中背。どこか作り方自体が古い服を着ていること以外、休日のアジア、いや、もっと正確に日本に行けば、何処にでもいそうな男だ。


 最初は誰も気が付かなかった。戦場に急に現れぽつんと立っているだけのその男に。


 男の方も気配を消していた。だが上空を飛ぶ飛行機に自分の弟分の気配を感じ、それをよく分からない巨人が手を伸ばしているのだ。


 だから男は


 ユーゴは


 即座にその拳をテュポーンに叩きこんだ。


 結果がこれだ。星すら砕く拳が、一切合切の物理現象を無視し、風も、衝撃波も伴ず、ただただテュポーンの体だけを消滅させたのだ。


 運が悪かった。勿論テュポーンの。いや、ある意味地球という星も。


 よりにもよって、今この場にいるユーゴは、因縁との決着を付けた直後であり、しかもある事によって精神的に非常に充足していた。それが久々に弟分の声を聞いてやって来たら、


 だが地球の方はまだましかもしれない。現れたのはもう落ち着いている今の彼だ。力の制御が甘く、大陸に底なしの大穴を開け、山を根こそぎ更地にした若い頃の彼ではないのだ。


 だが……


「俺の弟分に何やってるんだ? ああてめえ!? 死ねや!」


 怒っていた。


 普段のユーゴは、殺し合いになる前ですら話で解決を模索する男なのだが、ある事一点だけとてつもなく沸点が低くなる。非常に、非常に。それは、家族、または身内に対して危害を加えられることだ。


 父母も中学生の頃には無くなり、そのすぐ後単身異世界へ迷い込まされ、そこで40年各地を一人放浪していたのだ。その経験から、ついに築けた家族が害されようとすると途轍もない大爆発を起こしてしまう。


 そして幹也は間違いなく自分の弟分であり、それを害そうとしたテュポーンを許すはずがない。


 だからこうなった。


 いや、こうできるのだ。


 ただ、ただ、ただ、ただ力を力を込めて殴る。それだけで何人も止められない。何人も防げない。何人も何人も何人も。


 ただ、ただ、ただ、ただその拳で地面に殴る。それだけで大地が消える。大陸が消える。世界が消える。星が消える。


 そんな存在が発した声だ。比喩でもなく冗談でもなく、星よりも重い超重力の怪物の声。誰もが聞き逃すはずがない。


 大気は震え地は震え天は震え星が震える。周囲に集まった者達が気絶していないのは、命を落としていないのは、ひとえにその意識がテュポーンのみに向けられているからだろう。


 上半身が消え去ったテュポーンは死んだのだろうか?


 いや、テュポーンは怪物の中の怪物。上半身が消えただけで死ぬはずがない。即座に上半身を再生させ、転移で逃げる前に消滅した。


 まず転移が出来なかった。


【おいこら、どこ行くつもりだ?】


 いつの間にかテュポーンの体を掴む


 真っ黒な、光さえ逃げられない黒黒黒黒黒


 立体感さえ失う漆黒。黒い人型。黒い靄。


 虚無


 最早重さ云々の話ではない。人では認識出来ない。人では理解出来ない。人では量れない。


≪!?≫


 テュポーンはそれに、父である奈落の神タルタロスを見た。


 だが、そんなものすら矮小極まる。


 これこそが臨界点に到達してしまった怪物の真の姿。


 いずれ


 いずれ


 いずれ宙全てを飲み込む怪物が降臨した。


 現象概念真理に法則。その全て一切合切を無視して、全てを飲み込む暗黒の人型として星の上に立つという矛盾を成立させた怪物が。


【死ね】


 そんな大暗黒にして大虚無の右拳が、ブラックホールすら圧し潰し飲み込む右拳が、直接テュポーンの残った下半身に突き刺さった。


 一体誰が耐えられる。


 テュポーンはその瞬間を認識する事すら出来ず、魂魄もろとも完全に消滅した。


 ただ、力を込めただけの拳で。


 力。そう、力。力が強い。腕が強い。足が強い。体が強い。

 全てが強ければこうなのだ。最強とはこうなのだ。最も強いとはこうなのだ。


 だからこそマスターカードはかつて、富士山で死した"暴力"を力こぶと称した。殴る。それだけで神話の中の大怪物、テュポーンを消滅させられるのだ。これを知っていて暴力などと聞けば、誰が笑わずにいられれようか。


 だからこそ彼は、その力を知るありとあらゆる存在に恐れられた。それはそうだろう。いくら普段は温厚温和とはいえ、そんな怪物と知って誰が関りを持つのか。


 だからこそ彼を大アルカナたちは恐れた。一側面であり、制御は出来なくても強制遮断出来る、"怒れる力"ですら極めて細心の注意が必要なのに、家族と身内に危害が加えられたら、どう爆発するか全く分からず、しかも送り返すことも対処も出来ない存在を恐れない訳がない。いくら普段が温厚とはいえ、地球どころかこの太陽系を圧し潰すことが出来る存在が、同じ星で、ましてやすぐ近くにいるなど、誰が安心出来ると言うのか。


 人間が常に隣に核爆弾を、いや、太陽系破壊、銀河破壊、宇宙破壊爆弾を置かれ、しかもスイッチが剥き出しな空間で寝起き出来る筈もない。


 だが、その少ない例外が今上空を飛ぶ飛行機に乗っていた。


「ふう」


 怪物ではなく、妻を愛する夫、子を愛する父、そして兄貴分に戻るユーゴ。


「またな」


 自分が飛行機に向けて手を振れば、後々騒ぎになるだろうと思ったユーゴは、敢えて明後日の方向を向きながら手首を適当に振り、それを別れの挨拶にして、地球から溶けるように消え去った。


 自らの愛する家族の元へ帰るため。

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