8-2 北畠小夜(2)
それから三か月ほど掛けて、上野と下野で犠牲を出さないように細かい戦を繰り返しながら、小夜は上洛軍の準備を整えた。
兵糧を蓄えながら、集まって来る武士達の中に入り込んでいる五辻宮の配下を探らせる事もする。今の所奥州軍の中には後醍醐帝の理想に共鳴している武士は見られないが、それでも出来る限り芽を摘んで行くに越した事は無い。
勇人が中心になって四十人近く五辻宮配下を斬ったおかげで、陸奥とその周囲では相手の動きはかなり鈍くなっている。
もちろんそれでも完全に調略の影響を排除するのは無理で、最後はどれだけ軍をしっかりとまとめていられるかだった。軍がしっかりまとまっていれば、少数での寝返りなどは難しくなる。
その間、師行は小競り合いでも積極的に出陣を望み、勇人を引き攣れて旗本達での戦を繰り返していた。そして戦が無い時は、ほとんど毎日のように一対一で勇人に稽古を付けている。
戦場で相当に厳しい事を勇人に課しているのは同じ戦場で動きを見ていれば分かった。稽古の内容も尋常な物ではないらしく、勇人はたちまち以前に師行に鍛えられ始めた時と同じように、痩せて頬が削げた顔になり出した。
しかし眼の光だけは一向に衰える事が無く、それどころかますます強くなっている。
そして師行の方も、以前までの鍛錬とは一線を画した、まるで魂その物を込めるかのような打ち込みようで勇人と向き合っている。
「師行さんは、どうして今になってまた勇人をあそこまで厳しく鍛え始めたんだろう。後は、実戦の経験の方が重要だ、って思ってたんだけど」
兵達の調練の合間、二人になった時に小夜は和政に尋ねてみた。和政も二人の鍛錬に興味を抱いているのか、度々様子を見に行っているのだ。
兵は最後は鍛錬ではなく実戦で強くなる。勇人も鍛錬によってある域に達し、後は実戦によって伸びて行くのだろう、と小夜は思っていた。
今までの勇人の伸び方を見ても、それが間違いであった、とは思えない。
「勇人は、今の時点でおよそ常人としてはすでにこれ以上は強くなれない、と言う域に達しつつあるように見えます。実戦の経験を積む事で剣での駆け引きに、よりしたたかにはなるでしょうが」
「それは、強くなるって事とは違うの?」
「強さではありますが、小賢しい強さです。それは本当の強さではない、とそれがしは思います。では何が本当の強さなのか、と言われると言葉では説明は出来ないのですが」
和政は、雄弁だった。師行と勇人の鍛錬を見る事で、和政も自分の中の何かを見極めようとしているのかもしれない。
「師行殿は、もう一度徹底して勇人と向き合う事で、何か殻のような物を突き破らせようとしている、と思えます。常人とどれだけ斬り合っても達する事も出来ない、真の達人と命を賭した向き合いを重ねる事でしか、突き破れない物を」
「師行さんにしか分からない域に、勇人を踏み込ませようとしている。そう言う事かな」
「恐らくは」
小夜自身には、特別な武勇の才は無い。
だから小夜にとっては、すでに勇人も師行と同じく自分には理解出来ない強さを持っている人間だった。和政もそうで、例えば勇人と和政どちらが強いのか、など考えて見ても見当もつかない。
「和政は今の勇人には勝てる?」
「先の関東転戦の頃までであれば、勝てたかもしれません。今は飛礫を使っても、無理でしょう」
何気なしに尋ねてみたが、淡々と答える時の和政の表情にわずかな苦渋の色を見て、小夜は自分が無思慮な事を尋ねた、と後悔した。
和政が勇人に対して複雑な感情を抱いているのは、以前から何となく察していた。その原因が本人同士と言うよりも、恐らく小夜にあるのであろう、と言うのもさすがに薄々分かって来ている。
小夜を相手に自分より勇人の方が強い、とはっきり認めさせるのは、和政の心を傷付ける事だったかもしれない。
何か言おうとしたが、和政はそれよりも早く、頭を下げると兵達の調練へと戻って行った。
上洛に集まって来た兵達にも、戦が無い時はなるべく厳しい調練を課している。長時間待つだけの状態が続くと、軍全体が緩んでくるのだ。
十二月の半ばになり、上野と下野をほぼ平定したのと同時にようやく兵糧の準備が整い、小夜は軍勢の主力を武蔵へと移動させた。利根川で足利の軍勢と向き合う事になる。
雨で川の水は増水してしばらくは渡渉出来そうもなく、水が引くのを待ちながらの睨み合いだった。
敵味方の兵数はどちらも八万を超える程で、ほぼ互角だった。どう渡渉するか、と言う問題はあるが、そもそも河を頼みにしている時点で、敵軍の布陣は片瀬川で戦った斯波家長と比べれば、大人と子どもだった。
川の向こうの敵の軍勢を見ながら、小夜は後方の鎌倉にいるはずの斯波家長の思考を推し測ろうとしていた。
斯波家長が足利義詮を擁して関東全域に号令を掛け大将として立てば、集まる軍勢の数は十五万にも達するだろう。もし単に奥州軍の上洛を止めるのであれば、その全軍を鎌倉に集中させて迎え撃つのが一番いい。
その軍勢を攻めに使うのではなく、鎌倉で腰を据えて守りを固める事をされれば、それだけでこちらはかなり攻めあぐね、敵地に留まり続ける事で消耗するだろう。
そうしないのは今回も奥州軍がどこかで引き返すと思っているからなのか、あるいは新田義興や北条時行の軍勢を警戒しているからか、それとも上杉憲顕を始めとする他の武士達との力関係の問題か。
様々な理由は付けられた。足利方の武士の内情が完全に分かる訳ではないから、そうして理由を考えるのは、結局は戯れ事のような物でもある。
そう思いつつも小夜は、考える事をやめなかった。そうする事で、今この関東全域の足利の軍勢を最後に差配している斯波家長の何かが本当に見えてくる。そんな気がした。
「戦を前にして、心ここにあらず、と言った様子に見えますな。顕家様にしては、珍しい事です」
夜の陣中で、宗広が声を掛けて来た。この膨れ上がった上洛軍の中で、二年前と同じようにあらゆる事に目を配り、若い武士達のまとめ役として小夜を支えていてくれる。
瞬く間に奥州を席巻した麒麟児、などと巷では言われているが、この宗広と行朝、そして師行の働きが無ければ、自分に出来た事はもっと少なかっただろう。
「この先は長くなるからね。上杉憲顕だけに気を回している訳にも行かないよ」
他の人間に聞こえない距離である事を確かめて、小夜は女言葉で返した。それを聞いて、側にいた和政が自然と周囲を人払いする。
「斯波家長とどう言った形で向き合うか。それをお考えですか」
さすがに宗広は鋭かった。師行のような人並外れた閃きはないが、どんな時でも視野を広く持ち、深く考える事をやめない粘り強さがある。
斯波家長とどう戦うか。そう問わなかった所に、宗広の思慮深さが出ていた。
「師行さんが珍しく私に進言してきたよ。真なる敵と真なる味方を見誤るな、って」
そう言うと宗広は考え込むように一度目を閉じた。そうすると、小夜が奥州に赴任した頃と比べ、遥かに増えた皺がはっきりと顔に浮かぶ。
「斯波家長と、裏で手を結ばれますか」
しばしの沈黙の後、宗広は口を開いた。
「それが軍略としては最善な気がする。ひとまずこの国の形を守る。それを共通の目的にして、私は鎌倉を抜けて京に向かい、斯波家長に北条時行と新田義興を関東で止めてもらう。斯波家長は多分受けてくれる、って気もする」
「軍略としては、と言われましたな。では何か他に引っかかる事がおありですか?」
「卑怯な事をしようとしている、と言う意識がどうしても抜けない。足利や主上に対してじゃなくて、ここまで私に従って命懸けで戦って来た武士達に。未だに、そんな事で迷うのか、とも思うけど」
この上洛軍は足利尊氏を討って京を回復し帝の親政を守るため、と言う大義を表向きは立てている。
従っている武士達のどれだけが実際のその大義のために戦っているかは分からないが、本当の目的を大多数の兵に隠して上洛し、さらに裏で斯波家長と結ぶのは、全てを謀だけで動かそうとする帝と同じ事ではないか、と言う思いがあった。
「そこは傲慢になられる事です。顕家様」
「傲慢に?」
「顕家様は主上の理想を独善と言われましたが、自分の下にいる者達が愚かであると見なす所から始まったあの理想は、ある意味では正しいのです。本当にこの世人間全てが賢明であるのなら、そもそも支配する者など必要無いのですから。それと同じようにこの上洛軍を構成する全ての武士達が、賢明な訳ではありませぬ」
「それは、分かっているけど」
「顕家様も斯波家長も、常人には理解されがたい物を持っておいでです。そうであるなら、その謀の全てを己の下に付くもの全員に知らされる必要はありますまい。そこは多くを持って生まれた者の宿命、いや、特権と割り切られる事です」
「それで、いいのかな」
「顕家様が己に従う武士達を裏切る事をされないのであれば、最後は、それで」
武士とは何なのか。それをまた宗広と語り合いたくなった。意味は無い、と思い直す。武士と言う物がどういう生き方なのかは、宗広を始めとした奥州の、そして各地の武士達がこの五年間で身を持って示して来てくれた。
それは武士以外の人間達に関しても同じで、もう後は他人の言葉ではなく。小夜が自分で見て自分で考えた事で決めるしかない。
すでに自分の中で結論は出したはずだった。それに従って上洛の軍を起こしたのだ。この先はもう、迷う事は許されない。
「明日には、渡渉が出来る場所が出てくると思う。渡渉の先陣を切る武士達を、何人か見繕っておいてくれる?囮のような扱いになると思う、と伝えて構わない」
何かを振り切るように、そう言った。宗広が頷く。
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