秘色の夏

獅子狩 和音

秘色の夏

 ホシモギが来るんだ、青葉あおばも一緒においでよ。

 赤いランドセルを背負ったまことはそう言って、少し後ろを歩いている俺の方を振り返った。このうだるような暑さをものともせず、彼女は軽い足取りでアスファルトの小道を歩いている。木はあまり生えていない道なのに、ずっと聞こえる蝉の鳴き声。彼女からはほのかに、レモンのようなすっぱいにおいがした。

 ホシモギって、なんだよそれ。

 ため息混じりに言葉を吐いたが、俺の声は蝉の鳴き波に飲まれて消えていった。ため息まじりに視線を落とすと、足元に蝉の抜け殻が落ちている。

 少し前に学校が終わって、俺たちはいつもよりやや重いランドセルを背負って家に帰るはずだった。でも丹が「今から駄菓子屋に行くんだ」と言うのを聞いて、なんとなく俺もついていくことにした。昼間の太陽はじりじりと暑く、道にはめられたマンホールの上に歪んだうねりを作っている。今日は終業式だった。蝉の声がとめどなく響き、アスファルトの焦げるようなにおいで空気が満ちる。夏休みの宿題と、一学期に作った工作の作品をランドセルに詰め、子供の俺たちは好き勝手に公園や誰かの家に走り出していく、そんな日だ。熱気が肌にまとわりついて、汗ばかりが滴ってくる。髪の毛が、汗でびしょびしょになっていやだった。おまけにティーシャツの首のところには汗がしみて、紺色からほとんど黒に近い色に変わっている。ズボンのポケットの中にあるハンカチは、多分湿っていて生ぬるい。前を行く丹との距離はだいぶ開いている。その距離が果てしなく遠く見え、思わず二回目のため息をついた。

 丹は長い黒髪を首の後ろで二つに分けてくくっていて、赤チェックのリボンが巻かれた麦わら帽子がよく似合っていて涼しそうだ。白いうなじには、きらきらと色のない汗がつたっているのが見える。肌を焦がすような日差しの下で、丹は嬉々として日を浴びる雑花のように生き生きとしていた。半ズボンにスカートを足したような青いスカートが、軽い足取りではためいている。アスファルトで固められた鈍色の小道は夏の熱気に満ち満ちていた。足が重たくなって、歩くのをやめる。そうして見上げた空は清々しい水色だ。それで少し気が楽になった代わりに、前を向いたときには麦わら帽子がだいぶ小さくなっていた。追いかけないと。そう思ったそのとき、丹が再び振り返った。蝉の鳴き声が耳の中でわんわん鳴り響き、靴下で蒸れた土ふまずがじんじんする。先に見える麦わらは、俺のことを待っていてくれるらしかった。彼女がこうして振り返ってくれなかったら、俺と丹の間の距離は大きく開いていただろう。普段ならともかく、いまの丹の歩みには追いつけそうになかった。暑さに負けかけている俺の身に、彼女の歩みは速すぎた。

「大丈夫? 私の麦ぼうし貸そうか、これがあると涼しいぞ」

 麦わら帽子を脱いだ丹の前髪は、汗で濡れてぺったりと額に貼りついている。その提案はありがたかったが、それはどう考えても無理だった。

「俺が被ったら、丹の麦わらが破けるだろ」

 俺がそう返せば、丹はしょんぼりとした様子で麦わら帽子を被りなおす。事実、俺の頭と比べると、彼女の麦わら帽子は少し小さかった。丹は立ち止まったまま沈黙し、黒い目でこっちを見ている。だけどそのまなざしは遠く向こうにすり抜けて、入道雲の下を通る風のように透明だ。畳の上に転がったビー玉の、素朴な光。俺と丹のずっと上で、蝉の鳴き声が響いている。どうしたんだろう、丹はなにを考えてるんだろう。

 不思議に思って呼びかけると、彼女はふっと笑った。明るい、いつもの丹の目だ。右手を包んだ少し熱い感触と同時に、俺の体は前に引っ張られる。どうやら、俺の分も自分が引き受けて歩こうというつもりらしい。丹にぐいぐい引っ張られ、俺の歩調も速くなる。何でこいつはこんなに元気なんだろう、足は遅いくせに。ちょっとした悔しさがあったけど、それ以上にそうしてくれることがこそばゆかった。生ぬるかった空気が、丹と同じ早さで歩くと少し涼しい。風を緩く切ってアスファルトの坂道を登りきると、その先に小さな茶色の店と青色のベンチが見えた。

 駄菓子屋の中は蒸れた空気で満ちていたが、陽射しがない分涼しさを感じさせる。十円のくじ付き飴やラムネ菓子が陳列された店内に入ると、それだけで少し元気になれた。こいピンクやきみどりの、わらかい色セロハンみたいな包み紙がきらきらしている。入り口の右側には、店のおじさんの手と同じぐらいの小さな買い物かごが積まれていた。プラスチックのかごはピンクとブルーの二種類で、持ち手はぜんぶ黄色い。丹は一番上に積まれた青いかごを二つとると、一つを手渡してきた。俺はそれを受け取って、一緒にお菓子を選び始めた。八畳ぐらいある駄菓子屋の、陳列台いっぱいに置かれた駄菓子や天井からつられた紙ふうせん。ちょっと窮屈なんじゃないかというぐらい、あちこちにおもちゃとお菓子が置いてある。お店の入り口に近い方には十円や三十円の安いお菓子があり、奥にいくほど八十円や百二十円のお菓子が増えていく。レジのすぐそばになると、ポンポン船や大中小の地球ゴマ、パチンコが置かれていて、ことに地球ゴマは丹のお気に入りだった。油性マジックのような紫と緑色に塗られた地球ゴマはとても高くて、小学生では到底買うことができない。だが丹はどうしても地球ゴマがほしいらしく、一番安い千二百円に向けて貯金を続けている。彼女いわく、夏休みが終わるころにはなんとか買えるかもしれないということだ。店の中を何度か回った後、俺たちはビニール袋を持って店を後にした。

「なぁ丹、さっき言ってたのってなんなんだ?」

 駄菓子屋の前にある青いベンチに、並んで座ることにした。ラムネにするかアイスにするかでさんざん迷って、結局選んだバニラアイスは冷たくて舌がしばしばする。でもぐずぐずしているとアイスが溶けて、持ち手の棒も持ってる手もべたべたになってしまうだろう。舌がぴりぴり痺れるのを感じつつ、急ぎ気味にその甘い固まりをなめた。右隣に座る彼女は、プラスチックのケースに入った粒状の苺ガムをもぐもぐしつつ「ホシモギのこと?」と尋ねた。俺が頷くと、彼女は言葉を続ける。

「んっとね、夜に星がいっぱい降ってくる日があるでしょ。あのときにちょこちょこ降りてくるんだ」

「あぁ、流星群のことか」

「うん、八月の夜になるといっぱいやってくるから。青葉も一緒に行こう」

 そう言って笑う彼女の表情は明るく、流星群の日を心待ちにしていることが容易にくみ取れる。そんな丹の様子を見ているだけでも、つられて心が弾むのを感じずにはいられない。ランドセルいっぱいの計算プリントも、読書感想文用の原稿用紙も、漢字ドリルも、今はすべて忘れてしまえそうだ。夏休みはついさっき始まったばっかりで、きっとまだまだいろんなことができるだろう。すっ、と風が吹いて、店先の風鈴がカラコロと心地よげな音を響かせた。

 ギジギジと鳴く蝉が生まれて急いで死んでいくように、夏休みは過ぎていった。夏休みの計画表は三日と持たずに投げ出してしまったし、一日一枚の計算プリントも数枚で止まっている。いずれ片づけなければならない宿題はいつまでも白いまま、俺の方が黒く日焼けして丹に笑われた。彼女は姉に習って宿題を早々に片づけてしまったらしい。そういうところはしっかりしていて羨ましくなるが、まぁどうしようもない。友達と虫取りに行った日は夕暮れまでずっと外にいて、夕日が赤々と道を照らして急ぐ俺たちの陰を長く長く引き延ばした。

 夏休みが始まる少し前、丹と夏祭りに行く約束をした。それを彼女が喜んでくれたのは嬉しかったけど、どうにも照れくさかった俺はそっぽを向いていた。でも本当は、俺の方が嬉しくて。それを、彼女には気づかれたくなかった。神社での夏祭りの日は、丹と一緒に屋台を見て回った。それは七月末のことで、今はもう八月の半ばに差し掛かろうとしている。俺と丹にはもう一つ、一緒に約束したことが残っていた。ペルセウス流星群だ。

 夕方、友達と何度目かの虫取りをして帰ると、母さんが受話器を手渡してきた。「電話、丹ちゃんから」とだけ言うと、母さんは急ぎ足で台所の方に消えていった。夕飯を作っている途中だったのかもしれない。とりあえず受話器口に名前を呼ぶと、耳に優しい聞き慣れた声が届いた。

「青葉、今夜だけど八時半に神社まで来てくれる? 姉さんと一緒に鳥居のところで待っとくからさ」

 耳元に届いた彼女の声につられて、側に丹がいるわけでもないのに頬の辺りが笑ってしまう。電話の脇に置いてある裏紙に鳥居と時間だけを書いて、分かったと返事を返した。

「あ、そうだ。何か入れ物を持ってきてほしいんだ。おはじきとかビー玉が入るぐらいのだったら、何でもいいからさ」

 入れ物、忘れたらだめだぞ!という言葉を最後に、電話は切れた。いったい何に使うんだろう、何のことかさっぱり分からない。虫でも捕まえるつもりなのかとも思ったが、それにしては入れ物が小さすぎるし空気穴もない。受話器を置いてから少し考えたものの、やっぱり丹が言ったことはよく分からなかった。

 そもそも、そんな入れ物家にあったか?

 とりあえず部屋に戻って、丹が言った入れ物を探すことにした。机の上にはうっすら埃がつもった宿題プリントと、鉛筆削りが置いてある。机に最初からあった本を置くところには、ぜんぜん使っていない国語辞典が斜めになって収まっていた。その辞書の横には青い鳥の水笛が並んでいる。夏祭りで丹に貰ったそれは、今は水を抜いてあるから吹いてもひょろひょろいわない。手近な引き出しを開けると、中途半端な白い消しゴムがいくつか入っている。ほかにも小さい物がごちゃごちゃしているなかで、一つだけいい感じの物が入っていた。お菓子のプラスチック容器だ。俺はポケットにそれを突っ込んで、いい匂いがし始めた台所の方に向かった。

 日没後の空は深い紺青色で、草むらからはささやかに鈴虫の鳴き声が聞こえ始めている。晩ご飯を食べ終えた俺は神社に向かっていた。ズボンのポケットにはラムネ菓子のフタ付き容器が入っている。透明で青緑色の、ラムネ瓶を模したプラスチックのあの入れ物だ。中身も家を出る前に濯いでおいた。ところどころ雑草が生えた道を歩くと、足下で鈴虫がびょんびょん跳ぶ。ときどき足首にぶつかってきて、くすぐったいような痒いような感じがした。足音に驚いているのか、草むらを踏み荒らすと一瞬虫の音が止む。でもそれはほんの少しの間だけのことで、通り過ぎるとすぐ後ろから鳴き声が聞こえ始める。神社の長い石段を登ると、長い髪を結った彼女がぱたぱたとこっちに走ってきた。

「こんばんはだな、青葉!」

 彼女のワンピースがひらひらと揺れ、青と白のしましまが軽くはためく。その少し後ろには、制服を着た赤夜あかやさんが立っていた。丹の長い髪とは違って、赤夜さんの髪は肩にさわる程度の短さで切りそろえられている。それはきりっとして強そうな、黒い切れ長の目つきによく似合っていた。

「はしゃぐのはそれぐらいにしておけ、丹。後でバテても知らぬぞ」

 赤夜さんは俺たちの方に歩いてくると、丹の頭を軽く押さえた。動きを制限された丹は、赤夜さんの手から逃れようとやいやい跳ね上がったりして抵抗している。だがさすがに、お姉さんには敵わないらしい。ブラウスにスカート姿のその人と目が合い、俺は口を開いた。

「こんばんは、赤夜さん。今日は学校だったんですか?」

「あぁ、昼間に部活があってな。そろそろ行こうか、あまりぐずぐずしていると流星群が始まってしまうぞ」

 赤夜さんについて、俺と丹は神社の奥に進む。本殿に向かう山道は暗くて、先頭の赤夜さんが持つ懐中電灯がなければほとんど何も見えない。蒸れた空気と虫の鳴き声がする山道の中、見上げれば木々の間からうっすらとした月明かりと小さな星がちらついた。懐中電灯の光と比べると、頼りなげで心細い光。あんなにたくさんあるのに、光はちょっとしか届かないのはどうしてだろう。細い山道をしばらく登ると、不意に開けた場所に出た。本殿に向かう途中の休憩所だ。少し明るくなった頭上を見上げると、今まで枝葉で隠れていた夜空が大きく広がっていた。絵の具のチューブから出したばっかりの、あの黒に近い青。沈黙した空を見渡していると、足下がなんとなくふわふわして不安になる。でも自分の足はちゃんと草の上に立っていたし、地面も平らだ。

「姉さん、あれ……すごく光ってる」

 丹の言葉にもう一度空を見上げると、頼りない星粒の中にひときわ輝く一点があった。

「あぁ、あれはこぐま座のポラリスだな」

 赤夜さんがそう答えた。ポラリス。なんとなく女の子の名前みたいに聞こえる。横にいる丹は、「どの辺がこぐまなのかぜんぜん分からない」と小首を傾げていた。確かに教科書なんかで見るときは、星と星は線でつながっている。でも本当の夜空には線がなくて、星がおはじきみたいにばらばら散らばっている。いったい誰があれをつなげるなんて考えたんだろう。

 そのとき、上空に一筋の白線が描かれた。細い筋は次々に数を増し、燃えつきていく。濃い青空に走る星の跡は、走ってはすぐに消えてしまう。なんとなく見覚えがあるその色は、よく見ると羽化したての蝉によく似ていた。白いような、薄黄緑色のような、でももしかしたら水色かもしれない。すぐ消えてしまう蝉の色だ。

 不意に隣から物音がしたので振り向くと、丹はなにやらポケットから引っぱり出そうとしている。

「……丹?」

 彼女が取り出したのは丸い蓋付きの鏡だった。白くて丸いシンプルな作りのそれは、多分化粧道具だ。朝起きたときなんかに、ときどき母さんが使っているのを見たことがある。でも丹が持っているそれには中身の粉が入っていない。もしかして、丹のお母さんが使い終わったのを入れ物だけ貰ったんだろうか。彼女は鏡をワンピースで軽く拭くと、赤夜さんに何か言った後少し前に出た。

「おい待て、何するつもりだ?」

「ん? 何って、ホシモギをおびき寄せるんだよ。目一杯光らせないと来てくれないんだ」

 ホシモギって……流星群のことじゃなかったのか?

 前に駄菓子屋でそれを聞いたときに、ホシモギというのは流星群のことなんだと思った。でも、そうじゃなかったらしい。じゃあ、いったいなんなんだろう。

 丹は鏡を上空に向けると、静かに立ちつくした。鈴虫の鳴く声が、ときどき耳を掠める。少しすると、流星群の光がすい寄せられるようにして鏡に集まり始めた。ほとばしるような、眩しい白。まるで蛍の群が集合しているような、そんな光景だった。その光の集中を見つめていると、眩しくて目がしょぼしょぼしてくる。それなのに、丹はぜんぜん平気そうだからちょっと悔しい。

「あまり近くで見ると目が眩むぞ。お前の目は妹と違って普通の目なのだからな」

 肩に何かが触ったのを感じてそっちを見ると、赤夜さんだった。少し下がるよう促されて、少しだけ丹から離れる。ふと見上げると赤夜さんも眩しそうに瞬きをしていた。どうやら、あの光に耐えられるのは丹だけらしい。俺が知る限り、丹の目は決して光に眩まない。彼女の濃い茶褐色の目は、強情なぐらい光に屈さないのだ。ほとばしる火花のような光の中心で、丹の長い髪だけが黒く映えている。あの光の中でも、彼女の目は変わらず開いているんだろう。まるで星が消えずに落ちてきたみたいだった。消えてしまう気配もなく、生き生きと輝き続ける光。

「さて、もうそろそろ来るころだな」

 来るって、いったい何が?

 不思議に思い赤夜さんを見上げると、切れ長の目がふっと笑う。目つきがやわらかくなったせいか、その表情は丹によく似ていた。すぐに分かる、そう言ってぽすぽすと頭を撫でてくる手が暖かい。丹も、大きくなったら赤夜さんみたいになるんだろうか。

 刹那、強い風が吹いてきて思わず目を瞑った。木々の枝が大きくしなるような音がして、耳元でごうごうと唸る。あまり風が強いせいで、体が押されてよろけそうだった。少しして風が止み、辺りが静まり返る。ようやく目を開けたとき、見知らぬ声が聞こえた。

「一等でけぇ星かと思えば、またおめぇか。ったく毎年毎年、いい加減にしやがれ」

 丹のすぐ側に、見たことがない何かが立っている。それは明るい夜空のような肌をした、青い男の人だった。背は赤夜さんよりも高くて、髪の毛は柔らかい緑色をしている。背中まである髪の毛は、ぼさぼさしていて寝起きみたいだ。青い肌はところどころ茶色っぽくて、よく見るとそれは乾いた泥らしい。猫みたいな目はきれいなレモン色で、この人の体の色で唯一明るい色だ。やけに裾が長いだぼだぼのティーシャツを着ていて、くまの顔にチャックがついた可愛らしいポシェットを下げている。足は裸足で、泥がついた薄水色の爪が見えた。

 丹はその青い人を見ると鏡をしまい、「久しぶりだな!」と言って笑いかけた。強い光がなくなったため周囲は再び薄暗くなったが、流星群がまだ続いているおかげで辺りは薄明るい。

「なぁにが『久しぶり』だ。毎回毎回紛らわしい真似しやがって。俺様は仕事中なんだよ、邪魔すんな馬鹿娘!」

 その青い人は眉間に皺を寄せ、丹を見下ろしている。明らかに人間じゃなさそうなその人は、鱗はないけど魚のように思えた。肌の青は絵の具で背景を塗ったときみたいに、場所によって濃かったり薄かったりしている。

「ホシモギよ、そう怒るでない。妹が集めた光とて、お前の仕事の役に立たぬわけではなかろう?」

「ま、まぁそうだけどよ……」

 そうか、この人がホシモギっていう名前なんだ。

 穏やかな口調で赤夜さんに窘められたその人は、落ち着かない様子でそっぽを向いた。ホシモギの真っ青な頬が、少しだけ紫色の赤みをおびている。俺たちとは違う者のはずなのに、その様子からは人間らしい感情が読みとれる。そのことが、俺にはとても不思議だった。頬が赤いということは、流れるその血は俺たちと同じように赤いんだろうか。そうだとしたら、もしそうだとしたら、青黒い肌に流れる赤はきっとよく映えるだろう。赤夜さんを直視しようとしないホシモギを見上げて、丹がすっと柔らかに微笑む。その一瞬、彼女がひどく大人びて見えた。いつもの明るい笑みではなく、もっと静かな、水面に葉が落ちるような気配。その穏やかな眼差しは、赤夜さんが丹を見る目によく似ている。優しい色だ。だが丹がそんな目をしていたのはほんの数秒のことで、すぐに沈黙したホシモギに体当たりを始めた。

「はははっ、また背が伸びたなホシモギ!」

「うっせぇ、触んな!」

 青いその人は、腕をぺちぺち叩く丹を鬱陶しそうに追い払う。でも本気で追い払おうとしないところを見る限り、それなりに気を許しているのかもれない。それは丹も同じことで、どう見ても人間じゃないホシモギにああやってちょっかいをかけている。彼女もホシモギを信頼していて、気を置いているということだろう。ホシモギの背は、人間の大人と同じぐらいあった。でもその声は俺と同じぐらいの子供の高さで、父さんや親戚のおじさんのような低さじゃない。

 案外、俺や丹と同じぐらいの歳なのかもしれない。

 そう思うとなんとなく、嬉しいに近い気持ちになる。ホシモギがどういった者なのか、俺にはよく分からない。ただ、不思議ではあっても、嫌だとは感じなかった。すべすべしてそうな夜の肌や、絡まっていそうな新緑の髪、朝焼けの太陽みたいな猫の目を。

 丹はぴょんぴょんとび跳ねて、ホシモギの腹に突撃する。彼はその頭を押さえ、もがく少女と格闘していた。自分より大きなホシモギに挑む妹に、赤夜さんはあきれたのかため息をついた。ただ少しだけ、ため息をついた頬が笑っているように見える。

 そんな様子を眺めていたそのとき、黄色い眼差しと目があった。一瞬、風が動いたような気がする。強いレモン色が、急に心臓を突き抜けた。

「んぁ? おい馬鹿娘。おめぇの姉貴の横っちょにちまいのがいるが、ありゃなんだ。おめぇの姉妹きょうだいかなんかか」

 ホシモギが俺をもう一度見て、丹に尋ねた。丹は俺の方を振り返り、こっちにこいと手を振ってくる。少し距離をあけて見ていた青い人に近づくのは、ちょっと勇気がいった。彼女や赤夜さんと仲良くしているから、危険じゃないということは分かってる。木々が風に揺れる音を聞きつつ、ゆっくり足を踏み出した。地面を踏むたび、じゃりじゃりと石ころが擦れる音がする。丹の傍まで歩みを進め、そして彼女に隠れるようにしてホシモギを見上げた。目に飛び込んでくるのは、上の方に見える黄色い目。近くに来ると、ホシモギがとても大きく感じられた。

「私の友達で、青葉っていうんだ。青葉、ホシモギは悪い人じゃないから、そんなに怖がらなくていいぞ?」

 別に、怖いわけじゃないけど……ちょっと緊張する。

 頭上から視線を感じ、胸のあたりがざわつくようで落ち着かない。少しの間があってから、ホシモギの声がした。

「ふーん、トモダチか。なんつーか、おめぇらとちょいとばかし雰囲気が違げぇのな」

 珍しいものを見るような表情で、その人はレモン色の目を大きく見開く。丸に近くなったその目は、大きなビー玉みたいにきらきらしていた。それはきれいだったけど、でも俺のなにがそんなに気になるんだろう。気恥ずかしさと純粋な疑問が、頭の中でうごめく。ふと地面を見ると、暗い雑草の中に鈴虫がとまっていた。

「あぁそうか、ホシモギは初めて見るのだな。青葉は男という種類でな、私や丹とは種類が違うのだ」

「へぇ、そいつぁ知らなかったぜ。おめぇらって随分変わった生き物なんだな」

 そう言いながら二つのビー玉がさらに大きくなり、瞬きによって点滅する。どういうことだろう。赤夜さんが言ったことが、いまいちちゃんと頭に入ってこない。と、ホシモギの大きな青い手が、上から降りてきて頭に触れた。そのまま丹と一緒にわしわし撫でられる。くすぐったいけど、なんだかちょっと心地よかった。丹も頭を撫でられるのがくすぐったいのか、きゃいきゃいと笑って首をすぼめる。彼女の頭を撫でている指を見ると四本で、長さもほとんどぜんぶ一緒に見えた。一本足りないのかと思ったが、ホシモギの手にちぎれたような傷はないし、四本で彼の手は完成している。

 急に、すっと辺りが暗くなった。頭上を見上げると、流星群の勢いが弱まってきていた。さっきまで俺たちを照らしてくれていた星のかけらは、もうみんなほとんど死んでしまったのだ。燃えつきていく、残り少ない命の破片。生ぬるい空気の中、ホシモギが鬱陶しそうに緑の髪をかき上げる。

「っと、そろそろ帰んなきゃな。さぁ、さっきの光を寄越せ馬鹿娘」

 鞠つきのように頭を軽く連打されていた丹は、その手から逃れてこう言い放つ。

「お星さまと交換だぞ!」

 得意げな顔で見上げてくる少女に、ホシモギは眉間にしわを寄せる。っとにこいつは……とぶつくさ呟いた後、彼はやけに可愛らしいくまのポーチから何かを取り出した。それは金平糖ほどの大きさの、淡い光を放つとげとげした塊だった。微かに水のような匂いがする塊は、一定の間隔で明るくなったり、暗くなったりを繰り返している。呼吸しているみたいだ。色は白いようでいて青白く、また薄黄色にも見えて安定しない。丹がプラスチックでできた入れ物――粒状のガムが入っていたあれだ――を差し出すと、ホシモギは六つの塊を中に放り込んだ。

「いいか、半分はおめぇの姉貴の分だかんな。ちゃんと分けんだぞ?」

 丹は黒目勝ちな瞳をきらきらさせてお礼を言い、代わりに星の光を湛えた白い鏡を手渡した。彼女自身のような、強い光の集合だ。ホシモギはその輝きに黄色い目を細め、閉めた蓋から光がほとばしるそれをポーチにしまい込む。青い指先は再びその金平糖に近いものを取り出すと、俺の前に持ってきた。青い指先と薄い氷色の爪が、光の塊に照らされて鮮やかに浮き上がる。

「ほら、おめぇにもやる。ぜってぇ素手で触るんじゃねぇぞ? おめぇら人間の砂みてぇな皮は、多分負けて溶けちまうだろうからよ」

 溶けると言われて、反射的に出しかけた手を引っ込めた。そんな恐ろしいものを貰って、大丈夫なんだろうか。でも――

 そんなに危険なものなんだろうか。こんなに、そっと輝いているだけなのに。

 少し怖かったがそれよりも、密やかに美しく命を燃やす星の子を自分のものにしたかった。ポケットに入れてきていたラムネ菓子の容器を、彼に差し出す。ほどなくして、すらりとした紺色の指が、光の粒を三つ容器に入れた。三つの光源は、疼くようにじわじわと輝いている。

「あ、あの……ありがとう」

 レモネードのような、澄んだ色と目を合わせる。ホシモギはその目を細めて笑った。彼は俺の背中をぽすぽす叩いて、それからちらりと丹の方を見遣った。

「星をやる代わりに、あそこの馬鹿娘を見張っててくんねぇか? あいつときたら、しょっちゅう星みてぇに光って紛らわしいことこの上ねぇんだよ」

 仕事上、そんなにきらきらされたら困る。そう言って、ホシモギは赤夜さんと丹を見ていた。彼がさっき言ったとおりに、丹は赤夜さんに星を渡している。赤夜さんを見る彼の目は、青い肌を少し明るくさせた。俺は彼の頼みに頷きかけ、途中で思いとどまった。

 赤夜さんならともかく、果たして俺が丹を止められるんだろうか?

 ふわふわしていてよく分からなくて、戸惑う俺をいつも引っ張り回している彼女を。あの力がなくても、どこまでもどこまでも走っていってしまいそうな彼女を。

 彼女に俺が太刀打ちできるのは、足の速さと算数のテストぐらいだ。どんどん先に行ってしまう彼女に、走って追いつくことはできる。でも追いついたからって止められるわけじゃない。頭上で不思議そうな顔をしている彼に、とりあえずこう答えた。

「頑張るけど、俺じゃあ止められない気がする」

「あー、やっぱそうか? まぁ、できるだけでいいからよ。頼んだぜ」

 ホシモギはそう言うと、二人の姉妹の方に歩き出す。俺もそれを追いかけた。足音に反応して、赤夜さんと話していた丹が振り返る。結われた彼女の黒髪が、空気を緩く凪いだ。「もうやたらめったにチカチカすんじゃねぇぞ!」とホシモギは丹に忠告するが、彼女はそんなの無理だと即答して譲らない。丹は自分の能力を使うことを――つまり、やたらめったにチカチカすることを――やめるつもりはないという。眼下に見える小さな彼女と言い争う、大きな青。二人はしばらく言い争ったが、最後には彼も諦めたのかふわりと体を宙に浮かせた。頭上に浮き上がったホシモギに、赤夜さんが声をかける。

「気をつけて帰るのだぞ、ホシモギ。お前の家はまた随分と遠いのだからな」

 ホシモギの家はどこにあるんだろう、空のどこかにあるんだろうか。上空に浮いたティーシャツの彼に、俺たちは軽く手を振った。彼は風にのって宙返りを一つすると、そのまま上へ上へと上昇し、やがて夜空にとけ込んで見えなくなってしまった。ペルセウス流星群は、まだ少しだけ残っている。その流星はさっき見たときよりも微弱で、元気がなかった。ホシモギにいくつか取られてしまったせいかもしれないし、もうみんな燃えつきてしまったのかもしれない。ラムネ瓶型の入れ物に入った星は、控えめにちかちかしている。入れ物を軽く揺すると、中で陶器が触れあうような心地よい音がした。行きにそうしたように、懐中電灯を持った赤夜さんについて山を下りる。帰り道の最中、俺は丹にホシモギのことを尋ねた。

「ホシモギはさ、ここじゃない遠いところに住んでるんだ。そこはずっと夜で暗いから、だから私たちのところに星とか月明かりを取りにくるんだってさ」

「あぁ、それであの鏡あげたのか」

 朝が来ない場所に、ずっと暗い場所に、丹の光は強すぎるんじゃないだろうか。そんな気もしたが、弱い光をたくさん集めるより効率はよさそうだ。

「あいつは、丹のようには光を集められないからな。ああして流れ星を燃えつきる前に拾うより、ほかに方法がないのだろう」

 赤夜さんがそう言って、小瓶に入った三つの星をカラカラと揺すった。小さな光の塊は瓶の中で滑り、少し後に残光を残す。それは不思議で、とても綺麗だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘色の夏 獅子狩 和音 @shishikariwaon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ