神崎ひかげVS「こちら側のどこからでも切れます」

尾八原ジュージ

第1話


 神崎ひかげは「それ」を前にして、過去の己の行いを悔いていた。

「ああ……あのときのチューブわさび、捨てずにとっとけばよかった……!」

 ひとり言を呟きながら頭をかきむしる彼女の前に置かれているのは、その一端に「こちら側のどこからでも切れます」と書かれた、使い切りサイズのワサビの小袋であった。


 数々の猛獣や刺客を撃退してきた、限界酒乱OL・神崎ひかげ。

 その高い戦闘力と驚くべき回復力は、巨大灰色熊グリズリーとの戦いのために深手を負い、つい先日まで入院していた病院の医師が「なんっ……!」と呻いて卒倒したことからも明らかである。

 もはや向かうところ敵なしと思われた神崎であったが、ここに来て彼女はちっぽけな小袋の前に手も足も出ず、額から脂汗を流す事態に直面していた。

 入院中の神崎は、当然ながら禁酒を強いられていた。常にスキットルを持ち歩き、度数の高い酒を常飲していた彼女にとって、その生活はどれほどのストレスだったことだろうか。しかし脅威の回復力によって退院を勝ち取り、住み慣れたひとり住まいのアパートへと舞い戻った神崎の飲酒を咎めるものはもはやない。

 彼女は羽根でも生えたかのような足取りで最寄りのスーパーへと向かい、ちょっとお高めのビールと、半額のシールが貼られたばかりのイカ刺しを購入した。こいつでひさしぶりに一杯やろうという算段である。

 退院祝いのとっておきの一杯を最高のものにしたい……その想いは珍しく、彼女にビールの栓をすぐさま開けさせなかった。自宅に舞い戻った彼女は、ビールとイカ刺しを冷蔵庫に突っ込んだ後、まずひとっ風呂あびたのである。メイクもさっぱり落とし、親友の藤原にもらった変なTシャツに高校時代のヨレヨレジャージ、髪はヘアバンドで後ろに流しただけという油断100%のスタイルになって、さてこれで準備万端、イカ刺しにビールで一杯やろうと食卓がわりのローテーブルに準備を整えた。

 問題が発覚したのは、その時である。

 神崎は酒がぎっちりと詰められた冷蔵庫から、まず小さめのボトルに入った醤油を無事に発見した。ところがワサビが見当たらない。イカ刺しにはワサビが欠かせないにも関わらず、ないのだ。冷蔵庫中を荒らしまわった結果、彼女は先月の記憶を呼び覚ました。

「チューブわさび、使い切って捨てちゃったんだった……」

 神崎はがっくりと肩を落とし、ローテーブルの前に座り込んだ。

 ああ、あのチューブの中にほんのちょっと残った、本当にほんのちょっとのワサビでもここにあったなら……そして「これっぽっちなら捨てちゃうかぁ」と判断し、なのに新しく買い足すのを忘れていた自分を責めた。

 しかし、限界OL神崎ひかげが暮らす、この荒れ果てた(何しろこの部屋にいるときは大抵酔っぱらっているのだから荒れるのも当然だ)ワンルームにワサビというものがまったく存在しないのか、と問われれば、それには「否」と答えなければならない。

 あるのだ。ワサビは。

 イカ刺しに付属していた使い切りサイズの小袋に入ったワサビならば、今ここにある。

 そして神崎ひかげには、今この状況においては致命的ともいえる弱点があった。

「こういうの私、上手く開けられた試しがないんだよね……」

 だそうである。


 多くの猛獣と戦い、勝利を収めてきた神崎ひかげ。その握力と腕力の強さは、ヨコヅナイワシを素手で引き裂いた等の事例を見れば明らかである。

 しかしその圧倒的なパワーをもって繊細な動作をすればどうなるか。その際に必要とされる繊細さは、常人の比ではない。早い話が、神崎ひかげは「ぶきっちょ」だった。

 彼女とて一般社会で暮らす人間、「こちら側のどこからでも切れます」系小袋に遭遇したのはこれが初めてではない。

 そして、その度に辛酸を舐めてきた。思い切り引き裂いた小袋が摩擦によって発火し、ワサビが小さな炭の塊になったこと。規格外の力を加えられたワサビが強烈に圧縮されて限りなく「無」に近づいた結果、破れたパッケージだけが手元に残されたこと……いずれにせよ、中身を無事に取り出せたことは一度としてない。

 今、珍しく素面の神崎ひかげの脳は、この状況下において「最も安全かつ確実、そしてスピーディーにワサビを手に入れる方法」について考えていた。しかしその最適解はどうやっても「目の前の小袋を開ける」というところに収束するのだつた。

 もちろん、いくつかある選択肢の中には「チューブわさびを買いに行く」というものも含まれていた。しかし、

「外に出たくないんだよね……」

 神崎は力なく呟く。

 メイクを落とし、髪を洗い、他人には見せたくない部屋着に着替え終わった今、彼女は完全に「OFFモード」へと切り替わっていた。仮にこれから、ここからもっとも近いコンビニにチューブ入りワサビを買いにいくと仮定すれば、少なくとも自然乾燥でバサバサになった髪はまとめ、服を着替え、マスクをしてすっぴんを隠す必要がある。歴戦の猛者・神崎ひかげもやはり妙齢の女性である。このままのスタイルで人前に出ることははばかられた。最寄りのコンビニといえども、最低限の装備を整えることは必要不可欠だ。

 しかし、手間である。

 地味~に手間がかかる。加えてこの完全に「OFFモード」に入ったメンタル。それが彼女に「待った」をかけるのだ。

(私もう完全にオフだよ? もう家から一歩も出たくないし誰とも会いたくないよ? うちで気持ちよ~く一杯ひっかける気満々だったのに今更外になんか出られないよ? どうしてくれんの?)

 加えて神崎は知っていた。夜間のこの時間帯、最寄りのコンビニにはかなりの確率で「彼」がいるのだ。どうやら近所の大学に通っているものと思われる「イケメン店員」である。あの人気俳優もかくやという超イケメンの前に、髪ボサボサマスクどすっぴんで現れることを考えると、神崎の腰はますます重くなる。別にイケメンとどうこうなりたいわけではなくても、なぜかそうなってしまうのが人情である。

 神崎は諦めて呼吸を整え、小袋を手にとった。目に入る「こちら側のどこからでも切れます」という文字。それが指し示す辺りを両手でつまむ。

「ふんぬっ……!」

 力を込める。しかし、案の定小袋は切れない。これさえ開いてくれれば万々歳なのに、まったくその気配がない。ただ「こちら側」の一部がぐにゃりと歪んだだけだ。この歪んだ部分はもう絶対に、確実に切れないということを、神崎は経験から理解していた。

「ふんぬっ!」「ふんぬっ!」

 位置を変え、何度か挑戦してみるも、小袋は彼女をあざ笑うかのように無傷のままだった。否、「こちら側」だけは前よりもぐにゃぐにゃになった。もう余すところなくぐにゃぐにゃである。こちら側のどこからでも開けられるはずの小袋は、絶対に開かない小袋へと変貌を遂げてしまった。

「これ以上は……もう……」

 小袋を「切る」というより「破壊する」ことになる。神崎の脳裏に炭化したワサビの思い出がよぎった。自分はふたたびあの悲劇を繰り返さねばならないのだろうか?

「もうおしまいだぁ……」

 神崎はか細い声と共に、床に両手をついた。テーブルの上で徐々にぬるくなるイカ刺しに合わせる顔がない。この薄いパッケージの向こうにワサビがあるというのに、この手のなんと無力なことか……。

 しかしそのとき、彼女の脳裏に天啓が閃いた。

「ハサミで切ればいいんだ!」

 やだ私賢い、素面っていいわねなどと言いながら彼女は立ち上がった。


 そして十五分が空しく経過した。

「……ハサミがない!!」

 神崎は両拳をふたたびフローリングに叩きつけた。そう、ハサミが見つからないのだ。

 記憶が正しければ、このアパートで暮らし始めてから、神崎はハサミを何度か購入している。そう、二回か三回か四回か……そして、そのたびになくしてきた。この部屋には都合四つ以上のハサミがあるはずだが、そのうちのどれをも見つけることができないのだ。

「大掃除……大掃除をしなきゃならないっていうの……!?」

 神崎の前に、さらなる難敵が立ちはだかろうとしていた。

 こうなれば新たなハサミを買いに行くか……いやそれだったら素直にワサビを買った方がこの場合よろしい。ニーズに合っている。どっちみちコンビニに行けばどちらも売っているだろうが、おそらくレジには例のイケメンくんが立っている。めちゃくちゃ爽やかな笑みとイケボで「いらっしゃいませ」と挨拶してくるだろう。その輝かしいオーラに立ち向かうためには、それ相応の準備をしなければならない。

「ワサビくらい自動販売機で売れよ!!」

 神崎は叫んだ。魂からの叫びだったが、もちろん誰にも届かなかった。

(こうなれば、もう……)

 彼女はふらりと立ち上がり、ローテーブルの前に移動する。少しぬるくなったイカ刺しとビール。彼女はビールの缶に手を伸ばし、プルトップをプシ、と開けた。

(こうなればもう、ワサビなしでいただくしかない!!)


 その時、神崎のスマートフォンが電話の着信を告げた。プルトップを完全に開けようとした彼女の手が止まった。

「……もしもし?」

『あ、ひかげちゃん? 改めまして退院おめでとう!』

「タマちゃん?」

 電話をかけてきたのは、神崎の親友・タマちゃんこと藤原だった。

『今もう家にいるよね? これから退院祝い持ってっていい?』

「たっ、タマちゃん!」

 神崎は泣きそうな声をあげてスマホにかじりついた。電話の向こうで藤原がたじろぐ気配がした。

『ど、どうしたの? ひかげちゃん』

「お願いがあるの……ワサビ、チューブのワサビ買ってきてぇ~!」

『は?』

「あ、あとついでにハサミも買ってきて~! お願い!!」

『わ、わかった……十分くらいで着くと思うから、待っててね……』

 困惑を残しつつ、通話は切れた。


 神崎はスマホに向かってガッツポーズをすると共に、今や救世主となった親友に感謝を捧げたのだった。

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