百合狼伝

壱原優一

一章

百合の花は新月に散る

第1回 野盗少女、商人の娘と出会う

 メイフォンは膝から崩れ落ちた。

 父に腹を殴られてのことだった。


 彼がとどめと言わんばかりに、娘の頭を掴んで地面に叩きつける。

 鼻の奥に濃い鉄の臭いが溢れて目が霞む。


 薄れゆく意識のなか、メイフォンは言葉にならない声で、ただ謝っていた。

 月明かりなき、星の明るい夜だった。



   *   *   *



 まだ名無しだった彼女がツァオ・ラングの娘となったのは十三年前、五歳のときだ。

 単身、追い剥ぎの真似事して糊口凌いでいた。

 その標的にツァオを選び、返り討ちににされたことがきっかけだった。


「悪鬼善神の跋扈する江湖こうこと言えども、女児の野盗とは珍しい。しかも、だ。中々どうして、筋がいいじゃねえか。気に入ったぞ。ここで死ぬか、俺と来るか、選ばせてやろう」


 同業者たちのように問答無用で殺されても仕方のない世の中で、それは大温情と言えよう。


 物心ついたときには、なにも出来ず飢えて死んでいく多くの兄妹たち――捨て子という境遇が同じなだけで血の繋がりはない――を尻目に追い剥ぎ、時には人を殺してまで生き延びてきた少女だ。

 後者を選ぶのは必然だった。

 命の次に養父ツァオから貰ったものがメイフォンという名だ。


 当時、ツァオはまだ無名だったが、天元テンゲン国南部は連理レンリ町で新進気鋭の商人として注目を得ていたジトン・ジンインの用心棒をしていた。

 商売敵の妨害を退けるのはもちろんのこと、その情報収集や逆に妨害を仕掛ける等々の、後ろ暗い部分も担っていた。

 ふたりの関係は――馬が合ったのか――仕事上の付き合いに限らず、友と呼んで差し支えなかった。


 メイフォンの最初の仕事は、そのジトンの娘――インファの遊び相手だった。

 同い歳だから、というのもあるだろうが、新生活に慣れさせるため、警戒心を緩和させるため、という理由もあったのかもしれない。

 一番は返り討ちにした際に腕を折ったことで、しばらく使い物にならないと思われたのだろうが。


 インファは可愛らしくも、小生意気な面をしていた。

 出会い頭の一言目をメイフォンは生涯、忘れることはないだろう。


「あなた、きったないわねえ!」


 事実だし、立場も相手が上だから言い返しはしなかったが、カチンときた。


 金持ちというのは、なんて無遠慮で無礼な生き物なのだろう。

 隙を見てなにか盗んで町からおさらばしてやろうか。

 でも、そうしたら、あの男が追い掛けてきて殺されそうだ。やめよう。


「しょうがないわねぇ、まずは沐浴にしましょう。骨折もしているし、よく見ると細かい傷も……ユアン、薬湯をお願いね。そのボサボサな髪も、後で切らせなきゃ。ほら、こっち来て。ぐずぐずしないで。こんなのがお友達なんて恥ずかしいったら、もう」


 彼女は強引な生き物でもあった。

 汚い汚いと言いながらも浴場まで手を引いていき、いつもならインファの洗体だって使用人がするところ、


「いいの! わたしのお友達よ!」

 と泥臭い元追い剥ぎの女児を手ずから洗うのだ。

 優しい手つきだった。


 後になって思えば、お人形遊びのようなものだったのだろう。

 使用人に髪を切られた後は彼女の部屋で色々な服を着せられた。

 あまり見慣れない。西側諸国の服だという。


「うーん、どう? メイフォンはどれが気に入った? あげるわ」

「……別に」

「あっ、趣味じゃなかった? さっきから全然、笑わないものねえ!」


 産まれてから笑った覚えなんてない。


 言う暇もなくインファは、この国の服を引っ張ってきて、

「実を言うとね、わたしもこっちのが好き」

 舌先をちょっと出して笑った。


「お父様が最近西こっちに凝ってるの。実際、売れ行きは良いみたいだけど。……で」

「で?」

「色はなにが好き?」

「……別に、ないけど」

「じゃあ今決めて。はい!」


 メイフォンは面倒くさそうに、床に並べられた衣服の一つを指さした。


「それ」


 深緑色の左右に深い切れ込みスリットの入った|上着と、乳白色のズボンという組み合わせ。

 女物の襖君おうくんばかりの中、目立っていた。一番、動きやすそうだ。


「お兄様のお古よ?」

「くれるってんなら、それがいい」


 インファが満足そうに頷いた。


「こういうのが好きなのね! ささ、着替えて。お喋りしましょ。お茶も用意させなくちゃ!」


 お喋り、なんて言っても、彼女のそれは極めて一方的なものだった。


 一方的な自慢。

 父がいかに優れていて金持ちか。兄がいかに頭がいいか。

 最近食べた料理の素晴らしさ。宝飾品の数々。


 メイフォンが、適当な相槌を打っても気にすることはなかった。

 やがて話すのに疲れてきたのか、思い出したようにメイフォンのことを問うた。


 あんなに汚いなんて、どういう生活をしてきたのか。

 父や母はどんな人か。ラングのとこに引き取られた理由は。

 分別のついた大人なら、ひとまず触れずにおくような質問を子供特有の無邪気さで次々に繰り出した。


 メイフォンはメイフォンで、子供と言えども答えに窮するだろうものを、全くの躊躇いなく答えていった。

 金持ちで、恵まれた人生を送っているインファへの対抗心があった。

 彼女なら見るのも嫌がるに違いない虫どもの味や、人の腹に刃物を突き立てたときの感触を、克明に、語ってやった。


 次第にインファが涙ぐんでいくのを見て、妙にスカッとした。

 でも、ほんの短い間だった。


 インファに、そっと抱きしめられたのだ。


「つらかったね」

 そう言われながら頭を撫でられたのだ。


 メイフォンに、インファの初対面の印象を問えば、間違いなく「嫌な奴」と即答するだろう。

 そして「嫌な奴」でなくなったときを問えば、このときと答えるに違いない。


 気付けばメイフォンも泣いていた。

 生まれたばかりのように、わんわんと泣いた。


 このときのことを、インファがにやにやと思い出話をするたびに、メイフォンは必ず、

「……骨折が痛かっただけ」

 と、しれっとした顔で言うのだった。

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