第23話 Day51

 day51              


 一


 病というものは気紛れで、いつ目覚めるか分からない。

 それは、いつものように私がレーシャの前に座っていた時の事だった。


「ねえデート、あれは何?」


 彼女が指し示したのは棚の上に置かれた裁縫道具が詰まった箱。手芸が出来なくなって以来、ずっとあの場所に放置されていた。


「あれは……あなたが趣味としていた、シュゲイという作業に使う道具です」


「ふうん……デートの趣味は何?」


「特にありませんよ。まあ、何か趣味を見つけても良いですが……」


 この話をするのはもう何度目か。私にとっては何度も話すことでも、彼女にとっては初めて聞く話。周りの大半の物が新鮮なのだ。

 何度も繰り返される問答。私はこの時間が好きだ。彼女と過ごす時間、そのものが好きなのだ。合理性に欠け、意味のない問答が好き。


「うん、そうしよう! 私もデートの趣味探し、手伝うよ」


「ふふっ……ありがとうございます。今度一緒に探しましょうね」


「うん。それでね、それで……」


 楽しそうに話していた彼女の言葉がふと途切れた。

 私はどことなくキッチンの方へ向けていた視線を彼女に戻す。彼女は翡翠の瞳を揺らして、震えていた。


「……どうかしましたか?」


「ッ……!」


 それから彼女は頭を抱えて、立ち上がった。

 ふらついた足取りで数歩進み、膝から崩れ落ちる。


「だ、大丈夫ですか!?」


 抱きかかえた彼女の身体は異様に熱かった。

 熱い吐息が漏れて、痛みに苦しんでいるようだ。


「あ、あなたは……分かる、分かるの……! いや、嫌……! 私はまだ、あなたのことを……!」


「大丈夫、大丈夫ですよ。私がついていますから」


 ──最終ステージ間近。

 今にも、彼女は全ての記憶を失おうとしている。『廃忘病』は、最後に大きく記憶を削ぎ落し、全てを忘れていく。彼女は苦しんでいる。苦しんでいるのなら、私は傍に居て向き合うだけだ。


「あなたは……私に大切なものをくれたの……大切な……なにかを……! ねえ、あなたは……私のことを覚えていてくれる……?」


「はい……覚えていますよ、ずっと。絶対に忘れません。私もあなたから、大切なものをたくさん貰いましたから」


 本当に、大切な記憶を貰った。

 かけがえのない、忘れられない幸せな日々を。


「……うん、ありがとう」


 苦しみながらも、彼女は笑った。

 私もまた、笑っていた。涙を流しながら。



「…………さようなら」



 彼女は静かに眠りについた。安らかな呼吸を感じる。徐々に熱が引いていくのが分かる。

 私はそっと、彼女の涙を拭った。


 二


「……おはようございます」


 シーツの擦れる音を聞き、私は顔を上げる。

 私の部屋の一室で、眠っていた彼女は目覚めた。夕陽が窓から射し込んで、部屋の中を照らし出している。


「……?」


 彼女は首を傾げ、尋ねるように私を見つめた。


「『自分が忘れていく』ということを、覚えていますか」


 『廃忘病』の症状が最後に消去する記憶。それは、自分が『廃忘病』であるという自覚であり、自分は何かを忘れていく存在であるという自覚。

 彼女は質問の意図が分からないというように、首を横に振った。


「……はい。はじめまして、私は医者です。あなたの名前はレーシャ」


「レ……シャ……」


 決して彼女に『自らが病人であった』という関係を自覚させないように。

 決して彼女を不幸にしないように。

 決して自分のことを考えず、彼女を最優先に考えるように。

 私は語り掛ける。


「これからの予定と、あなたの境遇について説明させていただきます。まずは……」


 彼女が何の不安を抱えることもなく、世界へと歩み出せるように。

 彼女が安心して第二の人生を歩めるように。

 私は語り掛ける。


 最優先事項は、【安寧地区】から彼女を搬出し、中央地区の病棟へ向かうこと。彼女の境遇に関しては、移動しながら説明することにする。一部、話さない情報もあるけれど……それは彼女の為だ。


 この少女が新たなる道を紡ぐために。次こそは、病という名の罪に囚われない為に。



 そして私は、レーシャという少女と向き合いはじめた。

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