スプリングデート

第20話 Day36-2

　二

「……ここでフロストさんと話し、家へ帰ったと」

「うん」

　私は七番街の教会に居た。

　隣に立っているのは、管理者ロストフィルズ。驚くべきことに、彼はデートの義父だと言う。こんな人を父に持つデートはやっぱり凄い人だと思う。管理者って何をしているのかよく分からないけど、とにかくすごい人なのは分かる。

「本当に奇病が治ったの？」

「はい。フロスト・ウォーシェは間違いなく『色喪病』を回復させました。この【安寧地区】を出た後の航空機内で、突然視力が戻ったのです。前代未聞ですよ、あれは」

　私が『カフェ・ユリフィドール』で座っている時、ロストフィルズさんが来た。そして、私にフロストちゃんの話を聞き、詳細を聞きたいとお願いされたのだ。

　もしかしたら私に奇病を回復する能力があるかもしれない……そんな事を、彼は歩いている最中に言っていた。でも、その可能性は無いと思う。だって私は自分の奇病すら治せていないのだから。まあ、仮に自分の『廃忘病』を治す力が私にあったとしても……私は治さないだろう。記憶を戻すことを、本能が拒否するに違いない。忘れていくことの方が、私にとっては幸福なのだから。

「フロストちゃんは何て言ってたの？」

「直接僕が彼女と会った訳ではないので詳しくは知りませんが……症状が消えて嬉しいような、困るような、複雑な気持ちだと語ったらしいですよ。それに、あなたの存在が大きな心の支えになったとも」

　私は彼女を理解しようとしなかった。それなのに、私が支えになれたのか……疑問は残る。

　でも、彼女がそうだと言うのなら間違いない。私は彼女の心を救えたのだろう。その為に私に奇病を治す力があると勘違いされてしまったみたいだけど。

「……晴天の霹靂ですよ。奇病はどう足掻いても治せないモノだと断じていましたから。もう少し研究しておけば良かったかもしれません」

「今からでも遅くはないと思うよ」

「そうですね……しかし、その為にはあなたの協力が必要不可欠です。あなたは奇病を治す力を秘めているのかもしれない。ほんの僅かな可能性に過ぎませんが」

　否定したいけれど、否定し切れる証拠はない。私はただの無力な人間だ。奇病を治す特別な力なんて無い。きっとフロストちゃんが特別だったんだ。

　それに、

「私はもうすぐ記憶を全て失う。そしたらその……あるのかどうかも分からない治癒能力も消えるかもしれないけど」

「ですから、今すぐに協力してほしいのです。急遽予定を変更し、あなたを【安寧地区】から搬出することに決めました。無理を強いるようで申し訳ありませんが」

　それは構わない。ユリフィドールの夫妻や手芸店の店員さんなど、この地区で知り合った人と別れるのは忍びないけれど、いずれは必ず訪れる別れだ。まだ三十日くらいしか経過していないし、そこまで思い入れのある地もない。

　でも、一つだけ心配な事があった。

「デートは……？」

「もちろん、この地区を出た後も彼女と会うことは出来ます。今までの様にずっと傍に居てくれる訳ではありませんが、彼女もあなたをよく知っている人物ですから、共に研究に協力していただこうかと」

　本音を言えば、デートとまだ一緒に居たい。今までこの【安寧地区】で暮らしていたように、穏やかな日々を送りたい。だって、私を研究したって何も成果は得られないし、奇病の治療の足掛かりにはならないのだから。

　でも、管理者の命令だ。これは神託に近い。管理者はこの世界を形成した人たちで、命令は絶対的な権限を持つ。

　どうせ、間もなく私の記憶は死ぬのだ。ならばそれまでの辛抱。デートに会えなくなる訳でもない。だから良い筈なのに……苦しい。この地を数週間早く去るだけなのに、胸が締め付けられる思いだ。

　これが、恐怖なのかな。分からない。

　恐怖を知ったことがない私には、この感覚を形容できない。もしかしたら、ただ虚しくなっているだけかもしれない。悲しくなっているだけかもしれない。奇妙な寂寞が私の心を包み込んでいた。

「彼女には後に話を通しましょう。この教会も一応検査させるとして……行きましょうか。善は急げ、です」

「う、うん……」

　私はロストフィルズさんに続き、そして──

　三

「……ロストフィルズッ！」

　教会の扉を開けると、そこに居たのはレーシャと……私の父、ロストフィルズ。

　やはり、彼の信号を追って正解だった。彼が電話を掛けてきたこと、その間にレーシャが消えたこと、店を訪れたのは管理者の許可証を持つ者だったこと。そして何より……レーシャが信頼してついて行ける人物だったこと。私の父であり、上官である彼ならば信頼できる人間だ。

「おや、スプリング。家に帰っておけと言い残させたはずですが」

「患者を誘拐されて、黙って家に帰れと？」

「誘拐とは人聞きが悪いですね。私は正当な目的の下に、彼女に同行を求めただけですよ。それを彼女が承諾したに過ぎません」

　レーシャは困ったように私とロストフィルズを交互に見つめていた。

　まずは聞かねばならないことがある。

「どうしてこんな事を？」

「スイート女医の患者……フロスト・ウォーシェを知っていますね？　【安寧地区】搬出後、彼女の奇病が治りました。調べてみると、その奇跡は彼女……レーシャさんによって引き起こされたのではないかという仮説が出ましてね。それで、彼女を検査することにしたのですよ。これから地区外に搬出するところです。スプリング、あなたも共に行きましょう」

「奇病が……治った？」

　あり得ない。奇病は治せない。だからこそ、世界は苦しんでいるのに。

　もしもそんな力がレーシャに秘められているのなら……彼女は人類を救う鍵になるかもしれない。

　あまりに荒唐無稽な話に、私はロストフィルズの言葉が嘘ではないかと勘繰った。私を干渉医の任から引き摺り下ろす為の嘘だと。しかしながら、彼は一切不審な素振りを見せずに、滔々と言葉を吐き出し続ける。

「これは神が与えたもうた奇跡ですよ。僕の意見では奇病は治らないとの一点張りでしたが……訂正が必要かもしれませんね」

　ふと、レーシャの方を見る。彼女と目が合った。美しい碧色の瞳。その視線が私の虹彩を貫く。

　そのまま、どれほどの時が経ったのか。実際には数秒に満たない時間だったのだろう。

「……あ」

　涙が、流れていた。

　彼女の翡翠の瞳から、あたたかい水が瞳を濡らして、雫が赤い絨毯に落ちる。

　──刹那、私は悟った。

　私は……スプリングデートは、干渉医だ。患者と向き合うことが仕事だ。だから、

「それは出来ません。彼女を返してください。彼女は規定通り、この【安寧地区】で私と最後まで過ごさなければなりません。医師である私がそう判断しました」

　彼女が苦しんでいる。心が悲鳴を上げている。

　だから、私はそれを助けなければならない。理想を諦めない為に。

「……スプリング。やはり君の言う事は時折理解できない。彼女の協力があれば、人類を救えるのかもしれないのですよ。奇病がこの世から消えるかもしれない。それは干渉医であるあなたにとっても素晴らしいことでしょう？」

　……ああ、正論だ。

　正確な論理、道理。それらはいつも私の武器となって、障害にもなる。この世界では、合理性が絶対だ。だから私は退かなければならない筈だ。

　でも、一つだけ。この身には信念がある。そして……消せぬ呪縛がある。常に私の影と頭にこびりついて、死んでも離れない影がある。

　その事実を、眼前の男に伝えてしまうことが怖かった。でも私の意思とは裏腹に、事実を告げてしまつていた。

「お父さんは……私が奇病に罹っていることを知っていますか？　……いえ、知りませんよね。誰にも話したことはありませんから」

「は……？　奇病？　あなたが？」

　ロストフィルズが呆けた顔をした。

　滅多に見たことの無い彼の表情に思わず、笑いそうになってしまう。同時に、恐怖で膝を折りそうになってしまう。彼に私の真実を伝えることが怖かったからだ。干渉医本人が奇病に罹っているなど知られたら……いつ仕事を外されるか分かったものではない。

「『言霊病』……知っていますか？」

「いえ、知りませんね。たしか治安担当の管理者が似たような単語を言っていた覚えがありますが」

　それはそうだ。何故なら『言霊病』の患者はきわめて犯罪率が高いのだから。

　目の前の管理者は今まで奇病に一切の興味を示してこなかった。だから私の奇病を知らないのも無理はないだろう。

「お父さんには、座右の銘はありますか？」

「話が見えてきませんね……そんなものありませんよ。何を言うかよりも、何を実行するかが肝要ですから。それよりも、あなたの奇病について……」

「私にはありますよ、座右の銘」

　そして私は、私の身に宿る言霊を吐き出した。

「『如何なる道であろうとも、夢を諦めないこと。あなたが夢見る理想がその道に横たわっているのなら、必ず辿り着きなさい』……これが私の座右の銘です」

「ふむ……誰かの偉人の言葉ですか？」

「はあ……あなたの言葉ですよ、お父さん」

　私がこの言葉を忘れた瞬間は無い。忘れたくても、忘れられない。魂にこびりついて、絶対に剥がせない。

　言った本人が忘れているのに、私は忘れられていないだなんて……皮肉な話だ。

「『言霊病』は、言葉に縛られる病です。その人の人生に大きな影響を与えた特定の言葉。それが使命となって、その言葉通りの行動を為さないと、精神が狂ってしまうのです。時には『復讐する為に、アイツを殺しなさい』なんて言葉を言われて、それが使命になってしまう人も居ます。『言霊病』患者に犯罪者が多い理由ですね」

「では、あなたは……」

　ロストフィルズは賢い人間だ。だからこそ、私が言わんとしていることに察しがついたのだろう。

「ええ。私は今もなお、理想を追っています。あなたに掛けられた言葉をなぞって、干渉医の道を、夢を、理想を……絶対に諦めない使命を背負って。患者と向き合って、絶対に救い続けなければならない。これが私の一級干渉医たる所以なのでしょうね」

　時折、患者の心に向き合えているのか不安に思う時がある。それでも、私は救えていると信じ続けて、道を歩み続けなければならない。自己暗示の繰り返しで、日々が色褪せていった。そうして私の人生が灰色に染まってもなお、進み続けた。そして今、此処に居る。

　もし信念に背けば、心が壊れてしまう。延々と笑い続ける人、支離滅裂な妄言を言い続ける人、幻覚を見て苦しみ続ける人。心の壊れ方は様々だ。そんな風に壊れることを恐れて、言葉の使命を果たそうとして犯罪に手を染める人もたくさん居る。

　私は真っ当な使命を背負わされて、寧ろ幸運だったのかもしれない。私は心を壊したくない。人の心が分からなくなってしまうから。

「……もし、私がレーシャさんをあなたから奪ったら？」

「壊れるでしょうね。使命を果たせないのと同義ですから。干渉医の仕事を諦めると言う事は、夢見る理想を諦めるという事。あなたから背負わされた使命を果たせなくなる」

「…………」

　彼の表情はよく分からない。

　何を考えているのか、何を見ているのか。

「では……もし、私があなたの要求を拒否したら。あなたは『どうしますか』？」

　どうなるか、ではない。どうするか、だ。

　そんなの、決まっている。

「あなたを……殺します。他の『言霊病』の患者と同じように、理想を果たす為に。罪を犯してでも。この手が血に塗れたとしても」

　私は護身用の眼銃の照準を、彼の頭に合わせた。円形の光が無数に視界に浮かび、ロストフィルズを標的として補足する。

　自分の為だ。そんなことをしてもレーシャは喜ばない。むしろ悲しむだろう。

　それに、冷静に考えて私が管理者である彼を殺せる訳はない。だが、私は不可思議な衝動に呑まれていた。ステンドグラスから射し込む彩光が眩しい。神が座すると言われる教会で、この身は罪を犯そうとしている。

　沈黙が場を支配する。私はそんな沈黙に耐えかねて、自然と言葉を吐き出した。

　──本当に、自然と。

「……お願いです、お父さん。私から……心を奪わないでください」

　自分でも分かるくらい、震えた声だった。