第15話 Day30-2

 二


 困った。

 目の前の少女に、どう接すれば良いのか分からない。たぶん私よりも年下だろう。栗色の髪を揺らしながら、ちらちらと私の方を見てくる中、奇妙な沈黙がずっと続いていた。

 デートの友達の患者さん。私と同じように奇病を患っているみたい。この【安寧地区】に居るという事は精神的にも問題を抱えているということ。

 私は自分自身、なぜこの地区に収容されたのかが分かっていない。自身の精神的な問題を認知できていない。かえってそれは幸せかもしれない。狂人は自分が狂っていることを自覚できないのだ。

もしかしたら、狂人。

私が自覚しているのは漠然とした狂人の自覚のみ。


 だから、こうして言葉を掛けるのにも勇気が必要だった。自分は狂人なのかもしれない……そんな観念が他者との交流を狭めてしまう。


「あの……」


「ひゃ、ひゃいっ!」


 この娘は私よりも人見知りだ。でも一応、私が年上だから……どうにか安心させないと。

 人を安心させるってどうしたら良いのだろう? デートなら方法を知ってると思うけど、私にはよく分からない。そっとしておくのが正解なのか、話しかけるのが正解なのか。私は衝動的に後者を選んでしまった。


「私はレーシャ。えっと……よろしくね」


 自己紹介をしようとしたが、自分のことをよく思い出せなかった。

 料理が好きとか、手芸が好きとか。言えること自体は思い浮かぶのだけど、自分の情報を表に出す気が起きなかった。名前を名乗るだけに留めて、それから彼女の返事を待った。


「はい……私はフロストと言います」


「…………」


「…………」


 またしても沈黙が訪れてしまった。

 気まずい。たぶんフロストちゃんも同じ気持ちだ。私は何気なく、薄暗い部屋の一点を見つめる。相変わらず無個性な部屋だ。


「あの……レーシャさんは、どのくらいこの地区に住んでるの?」


 沈黙に耐えかねたのか、彼女の方から口を開いた。


「私は……三十日くらいかな?」


「ボクはもう四ヶ月くらい【安寧地区】に住んでる。もうすぐ退居だけど……」


 多分、私の部屋がやけに殺風景だったから気になったのだろう。これでも初期の暮らしと比べれば随分豊かな色を持つ部屋になった。日当たりは悪く、健康には良くなさそうな部屋だけど、この部屋を私は気に入っている。

 私の理想の部屋。日当たりが悪くて、静かで、外から見えない角度に窓が付いていて、クローゼットがあって、本棚があって。出来ればシェルターがあって、ロック付きの部屋が良い。あとは趣味の道具を置いて完成だ。


「……これは何?」


 彼女が示したのは、私が縫っている途中のレースの布。今は金色の糸を通している最中だ。毎日少しずつ縫っている。あまり早く完成させてしまうと、やることがなくなる。次の物を作ろうにも、作成途中で時間がなくなってしまうだろうし。


「ハンカチを縫ってるの。手芸が趣味で」


「そっか。これは布だったんだ。じゃあ、これは針かな」


 なんだか彼女の言い方が気掛かりだった。まるで物を正しく認識できていないような言い方だ。

 彼女はじっと布に顔を近づけて、形を見ている。

 趣味の話題が出たので、無難に話題をそちらへと近づける。


「フロストちゃんの趣味は?」


「……昔は旅が好きだった。子供の頃は渡航人が夢だったし、この地区に収容されるまでは構成者になるのが夢だったんだ。今は……特に趣味は無いかな」


 渡航人とは色々な地区を旅する人で、構成者は色々な地区を収容する人のことだ。地区を収容とは、地区……つまりは世界の一部を手に入れるということだ。未踏破の世界を探索して、そこが政府の非公認地区であれば、所有が認められる。中央地区では、収容した地区を拡張して、場所を提供するビジネスもあるらしい。

 どうして彼女は夢を諦めたのかな。奇病に関係しているのかもしれない。


「じゃあ、フロストちゃんはたくさんの景色を見てきたんだね」


「うん……! ボク、綺麗な景色を見るのが好きで、お父さんとお母さんにもいろんな場所に連れて行ってもらって……! それで……あ、ごめんなさい……」


「ふふ……いいよ。もっと話を聞かせて?」



 それから彼女は今まで見てきた沢山の景色を語ってくれた。

 陽が沈まない地区、水で溢れかえる地区、自然の新緑が彼方まで続く地区、機械に支配されている地区、お菓子で出来ている地区、人工生物ばかりの地区、人の想いが形になる地区。そして私の故郷の地区とは対照的に、年中曇りの地区。

 彼女はとても楽しそうに、時折悲しそうに、景色の断片を語る。

 私はまだ、この世界を殆ど知らない。知っていても忘れてしまう。だから、新しい私になったら世界を回ってみたいな。その時になって、新しい私がそう思うかは分からないけれど。

 

 その後も私達は話し続けた。気が付けば一時間くらい経っていて。

 たくさんお互いの事を知って、話して。最初よりもずっと距離を縮められたと思う。


「そういえば、レーシャさんはあとどれくらい【安寧地区】に住むの?」


「あと一月くらいかな。病気が最終ステージに到達するのが二か月だから」


 最近は色々な事が思い出せない。世間が当然だと思っている事も、想起できて当然だと自認していることも思い出せない。最後には思い出せない事も思い出せなくなる。『廃忘病』が最期まで遺すのは、『自分が記憶を失くしていく存在であるという自覚』。その自覚すらもなくなった時、私の病は消え去るそうだ。

 消去されて、削除されて、欠け落ちていって──白紙になる。それを私は平然とした心持で受け入れていた。


「ボクはもう……最終ステージ間近。もうすぐ何も、見えなくなる」


 何も見えなくなる。そういう奇病なのだろう。

 今ははっきりと私の姿が見えているみたいだけど……


「私の病気は『廃忘病』。次第に記憶が消されて行って、やがて全て忘れてしまう病」


「……全部忘れちゃったら、どうなるの?」


「新しい私になる。また記憶が綴られて、二つ目の人生が始まる」


 そこから先は何も分からない。

 灰色だ。明るい未来を歩むのか、暗い未来を歩むのか不明瞭で。私のこれからは灰色に染まり切っていた。


「そっか……でも、未来は見えるんだね」


「フロストちゃんには未来が見えないの?」


「『色喪病』って言って、見える色の種類がだんだん少なくなっていくんだ。暖色、寒色、淡色、濃色の順に見えなくなっていって……最後には何も見えなくなる。今は白と黒の景色が見えていて、モノクロの視界なんだ。あと数日で……全部見えなくなる」


 奇病は治らない。少なくとも、現段階の医療技術では。

 だから……フロストちゃんは永遠に何も見えなくなってしまう。私の病気と比べたら、とても深刻かもしれない。いっそ私みたいに記憶を全て消してリセットできてしまえば。そうすれば、奇病に苦しんだ日々も忘れられるかもしれないのに。


「……怖い?」


 ──こんな質問をしてはいけない。

 心の奥底では分かっていながらも、自然とその問いかけが口から出ていた。私はなぜこのように嗜虐的な問いをしてしまったのか。

 それはきっと、私が怖くないからだ。多くの人は奇病を恐れて、時には第三者である患者の家族でさえも奇病を恐れる。どうして私は怖くないのかな。

 もし私の奇病が『廃忘病』ではなくて、身体の機能を失うものだったら? そうだったら私は畏怖することが出来るのか? 救いを求めて天に跪く事が出来たのか?  直接的な痛みがあれば、実感を伴えば……私は私自身を茨の道に放り込むことが許されたのか?


 答えは、否だ。分かり切っている。

 私は何かを恐れたことがあったか?

 ──無かった。記憶を失くしているけれど、それだけは直情的に断言できる。生まれた時から私の周囲は、茨も顔を出せぬほど焦げていた。だから恐怖は存在し得ない。私のこの感情は、直感は誰にも理解できない。自分の心を誰かに語っても、何を言っているのか理解してもらえないだろう。だからこそ、私は歪んでいるのだ。恐怖を失くした理由は何か、茨の道とは何か。記憶を失くしている私に語ることは出来ない。


「怖いよ。怖い……」


 彼女は震えていた。

 誰が彼女をここまで追い詰めたのだろう。いや、誰でもない。彼女をここまで苦しめている者が居るとすれば、それは残酷な運命を定めたカミサマだ。

 私は自然と彼女を抱きしめていた。


 ──暖かい。震えが身体の奥まで伝わってくる。小刻みな震え、鼓動。やがて何も光を捉えなくなってしまう眼窩から、涙が零れ落ちる。


「やだ……ボクは……まだ見たいものがたくさんあるのに。行きたい場所がたくさんあるのに。どうして……」


 彼女は罪を犯していないのに罰せられる。或いは、この世に生を受けたことが罪だとでも言うのだろうか。だとすれば、私も罪人だ。奇病に罹る人は皆、咎人になってしまう。

 光射さぬ暗澹とした一室に、乾いた嗚咽が響く。


 ──その時。彼女を抱きしめる私の背に一筋の罪過が這い上った。

 奇病の疾患を理由とした幻想の罪過ではない、真実の衝動的な罪過。其は止め処なく私の全身に毒の如く回り、いつしか心までをも支配していた。


「……フロストちゃん。一緒に出かけよう」 

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