スプリングデート

朝露ココア

第1話 Day1-1

 ビオラの花が雪の中に咲いていた。

 紫色の花弁をゆらゆらと揺らし、身を切るような寒風に吹かれている。

 あの花は、どうして寒いのに咲いているのだろう。春の訪れを待ってから咲けばいいのに。

 この花が散る頃には、きっと私も──

 私は花と一緒に風に吹かれながら、時が過ぎるのを待っていた。


day1  


 一


「スプリング先生、お久しぶりです。今日も遅刻ですか」


 医務室に入るや否や、事務員から文句を言われる私。清潔な白い壁の傍にあるヒールサーバに手を翳しながら、外気に触れて低下した体温を取り戻す。

 私は後ろで纏めた黒髪を揺らしながら、彼女の向かい側に座った。


「重役出勤というのです。列車が遅れていましたから、早起きしても遅刻していましたけどね。天才たる私はロードウェートの故障さえも予測して遅く起きたのです」


「はあ……今回は医務となります。こちら、患者のカルテです」


 呆れたように溜息をつく事務員からデータを受け取り、私はそれに目を通す。どうせいつものように政府が本来の仕事に関係のない雑務を押し付けてきたのだろうと思っていたが、違った。

 彼女は私がデータに目を通している間に、今回受け持つこととなった患者の詳細を説明し始める。


「患者の名前はレーシャ・ナーレ・エイケルア・ブラック。【沈静地区】出身の女の子で、『廃忘病』を患っています」


 『廃忘病』。記憶を次第に失ってゆき、やがて心がなくなってしまう不治の病。一度全てを忘れると症状は消え、再び人間として普通の生活を送れるようになるので命に別状はないが、失われた記憶は戻らない。

 私……スプリングデートは、そういった不治の病を専門とする医者である。私達は『干渉医』と呼ばれ、患者を治すことではなく、患者と向き合うことを仕事とする。


「レーシャさんは現在、安寧地区に収容されています。ですから……」


「はい、分かっています。すぐに向かいます。きっと、彼女は寂しい思いをしているでしょうから」


 私は立ち上がり、すぐに医務室を後にしようとする。

 『干渉医』として最重要視すべきは、患者の心。この世界で誰よりも真摯に患者に付き合わなければならないのが私達。

 ……ああ、遅刻なんてしなければよかった。

 私は心の中で深く後悔した。



 しばらく列車に揺られた後、私はその地区に降り立った。

 【安寧地区】。見渡せば一面の白、白、白。

白を基調とした建物に、枯れ木の道。生憎と今の季節は冬だが、春になれば木々が色づき風光明媚な自然風景がそこかしこに見られる。街中に車が走ることはなく、移動手段は徒歩か、国営の列車のみ。

 一般地区の名物である喧騒や健康習慣を喚き立てる放送、ごてごてとした煙鋼金属の建築物や虚数液晶は一切見られず、旧式で清潔な環境が嫌というほど整えられている。

 誰もがこんな地区に住みたい……そう思うことだろう。しかし、ここ【安寧地区】は政府からの認可を受けた者しか居住することはできない。

 たとえば、私のような仕事で来る者か……或いは、精神状態を鑑みて静かな地区で静養すべきだと判断された者など。


「こんにちは。干渉医療の一環で来ました」


 私は地区の入り口に設置してある管理人に通行許可証を見せ、内部へと入って行く。

 白の建物の上に重ねられた白い雪。人が歩く道路はしっかりと清掃され、ぽつりぽつりと人が行き交っている。入り口付近には事務に必要な道具を取り扱った店が多く位置しており、奥へ進むほど日用品を扱った店が増えていく。住宅街は別の番街に割り当てられている。


 ……そこは、静寂に満ちていた。あまりに静かで、私の足音がはっきりと聞こえてしまうくらいに。

 暖かいオレンジ色の電灯が道を照らしている。今は昼間だというのに、雪が降っているせいでどんよりとした曇り空。一切の感情が抜けきったかのようなこの地区は、黙して私を受け入れた。

 薄暗い地区の中を、私は淡々と進んで行った。


 駅へ到着し、ここ一番街から患者が住むことになる七番街を目指す。列車に揺られてしばらくの時間が経つ。そして、目的地へと降り立った。七番街は、さらに静寂が濃い場所だった。精神の揺り籠……この【安寧地区】はそう呼ばれている。


 私はこれから患者と共に住むことになる。共同生活を送ることこそが、我ら『干渉医』にとっての医療行為なのだ。期間は……『廃忘病』の患者ならおよそ二か月といったところか。

 患者と居住することになる家は、街の外れにあるようだった。

 葉が落ち切った木々が作る道を進み、少し傾斜がある坂を上る。岩肌を雪化粧が覆い隠していて、誰もそれを踏んだ形跡が無い。本当に人気が無い場所のようだ。


 道中、雪の中に咲いている花を見つけた。雪の中でも強い生命力を湛えて咲き誇る花が美しくて、思わず少し立ち止まってしまう。

 この紫色の花は何という名前なのだろう。私は植物の名前については詳しくない。詳しいのは科学と、製薬と、不治の病と、あとは……色々。実験でよく使う植物については覚えているけど。


「……雪」


 雪が、降ってきた。

 肌にひんやりとした結晶が触れて、溶ける。

 ……患者はもう家に着いているだろうか。寒い中待たせてしまうのは申し訳ない。急がないと。


 二


 雪に足を取られて、目的地に着くのが遅くなってしまった。雪はなおも降りしきり、私のフードにはたくさんの雪が積もっていることだろう。


 坂を上り切ると、一軒の白い家があった。

 二階建てで、二人が住むには少し広めの家。

 扉の前で、少女が地面の雪を見つめていた。

 純白の光彩を帯びたような白く長い髪、深緑を思わせる瞳を持つ少女。

 ──美しい。同じ女性だというのに、私と彼女とでは、とても輝きが違って見える。彼女は私に気が付くと、びくりと肩を震わせて固まった。

 彼女の心を傷つけないように。私は細心の注意を払う。


「……こんにちは、遅くなってごめんなさい。私はスプリングデート。これから貴女と共に暮らし、貴女の家族となる人です。よろしくお願いします」


 決して彼女に『医者と患者』という関係を自覚させないように。

 決して彼女を不幸にしないように。

 決して自分のことを考えず、彼女を最優先に考えるように。


「こ、こんにちは。私はレーシャ。これからお世話になる『廃忘病』の患者です。よろしくお願いします……」


 レーシャさんは少し緊張しているけれど、人見知りするような性格ではないようだ。

 翡翠のような瞳が不安に揺れ、私を見つめている。

 私は彼女に微笑み、懐から家の鍵を取り出した。


「レーシャさん、寒かったでしょう。家に入りましょうか」


「うん……あと、私は呼び捨てにしていいよ。私も敬語使わないから」


 彼女がそう望むのならば、私はその通りにする。


「……分かりました。よろしくね、レーシャ」


「よろしく。えと……スプリ……んぐで?」


「スプリングデート、です。変な名前でしょう?」


「そ、そんなことないと思う!」


 レーシャは首をぶんぶんと振って否定した。

 自分でも変な名前だと思っているのに、彼女は優しい事だ。


「ふふ……ありがとう」


「うーん……デートって呼んで良い?」


「はい、どうぞ」


 家の鍵を回し、扉を開ける。電子鍵ではなく、鍵穴がある錠を見るのは何年振りだろう。過去の治療の赴任先で二、三度目にしたことがある。

 ローブについた雪を払っていると、レーシャがフードにどっさり積もった雪を払ってくれた。

 私は彼女に礼を言い、共に家の中へ入った。


 電気を点けると、暖かい人口の光が中を照らし出す。

 まず視界に入ったコートハンガーに私とレーシャのコートを掛け、内側から鍵をかけておく。まあ、この地区で犯罪に手を染める者なんて居ないだろうけど。もしも凶悪な人物が居たら、私の目に搭載してある眼銃で光線を撃ってやろう。足に。


「……なんだか、思ったよりもきれいだね」


 リビングに進んで行くと、レーシャがぽつりとそんな言葉を漏らす。

 白を基調とした家具の数々に、暖色系のアクセント。リビングにはテーブルに椅子、ソファ、本棚。すぐ隣にはキッチンが繋がっている。

 必要な物は全て国が用意してくれる。うんざりするほどの福利厚生が我が国の特徴だった。


「欲しい物があれば何でも言ってくださいね。遠慮する必要はありません」


「うーん。とりあえず、家の中を見て回ってくるね」


 そう言い残し、彼女は他の部屋へ出て行った。


 私は荷物を置いて隣のキッチンへ移り、冷蔵庫の中身を確認する。


「なんだか、無機質な材料ばっかり……」


 食材は今朝、国の職員によって補充されたようだ。

 これ以降は私が補充しなければならないが、いかんせん食材のチョイスに不満があった。

 パン、卵、ベーコン、ヨーグルト、バター、ニンジン、キャベツ、レーション。茶、牛乳、栄養剤……などなど。いかにも『健康な食事を心がけましょう』と言われているようだ。

 たしかに健康も大事だが、食べたいものを食べるのが精神衛生上、一番よろしい。レーシャの好物などは知らないが、明日には買い出しに行く必要がありそうだ。とりあえず今日はこの食材たちで夕食を作るしかないかな。

 『干渉医』は家事も得意でなければならない。患者と共同生活を送らなければならないからだ。


 私たちが担当する不治の病を抱える患者は、孤独もまた同時に抱えていることが多い。だからこそ、彼らが不安にならないように家事もしっかりとしてあげなければならないのだ。


 私がリビングに戻り、一通り書類や荷物を整理し終えると、レーシャが二階から下りてきた。


「デート、あの……」


「はい、どうしました?」


 彼女が何かを言いたそうにじっと私を見つめていた。

 ……いや、私というよりも、私の上を見ていた。初対面の人と目が合わせられないのはよくある事だ。


「私の部屋ってどこにしたら良いのかな?」


「どこでもいいですよ。一緒に見て決めましょうか」


 彼女はうんと頷き、二階へ私を案内する。

 二階には三つの部屋があった。どれもそこまで大きさは変わらないが、日当たりなどに違いがある。


「日当たりが良い場所が良いですか?」


「えっと……悪い場所がいい」


 私は彼女の返答を意外に思ったが、表情には出さなかった。


「分かりました。では……この部屋にしましょうか。私の部屋は隣か、一つ隔てた部屋……どちらにしましょう?」


「隣がいい」


「はい、では私はあの部屋で」


 レーシャの部屋が一番西側、私が中央の部屋になった。東側が空き室となる。

 彼女は何も荷物を持参して来ていない。患者が荷物を持ち込むことは禁止されているからだ。だから、彼女の部屋は何も運び込む物がなく、やけに殺風景になってしまう。反面、私の部屋は仕事の書類や道具が置けるぶん、多少は賑やかに見える。私としては仕事の道具なんて無い方がありがたいけど。仕事多すぎ。


「何もないですね。何か家具とか、買いに行きましょうか。趣味は何ですか?」


「趣味……趣味は……うーん。料理、かな?」


「おお、料理ですか。では明日は一緒に食材を買いにいきましょう。今日はとりあえず家に容易されていたもので夕食を作りますが……」


「うん、行こう」


 彼女は少し口元を緩めて、明日の予定を約束した。


 

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