アクア・パレット

紗沙神 祈來

プロローグ

 今日は久しぶりの雨だった。

 6限までのかったるくて眠い授業を乗り越え帰りのSHRが終わるとすぐに、私は部室へと駆けた。

 途中先生に廊下を走るな、と注意された気もするが無視。小言に時間を裂いている暇はない。

 生徒の教室がある北棟とは別の、実習室や理科室などが集まっている南棟へと向かう。

 少し息を切らして肩を上下させながらドアを開けた。

 美術室。

 私と先輩の2人しかいない美術部、正確には美術同好会の部室だ。

 部屋に入ってまずすることはここで飼育している淡水魚への餌やり。

 慣れた手つきで餌の入ったフタを空けて、魚たちが元気よく泳ぐ水槽へ放り込む。

 水面に上がってきて口をパクパクさせながら食べている姿はなんとも愛おしい。

 ……先輩に言ったら理解されなかったけど。

 なんて過去の、ちっぽけなことを思い出して少し落ち込む。

 やっぱり雨の日は心も落ち込みやすいらしい。

 そしていつも通り水槽の前に座ってキャンバスと絵の具を準備する。

 左手に持ったパレットに青系の色を中心に出していく。水色とか多めにね。

 筆を濡らして、絵の具につけて真っ白なキャンバスの上を滑らせる。

 この時間、私は考え事をする。

 水槽の中を優雅に泳いでいる魚たちは一見自由に見えるがその実、もともと池や湖、海などで泳いでいたものを狭い所に閉じ込めている時点で自由なんてないよな、なんて思ったり。

 まぁそれを行っているのは紛れもない私たち人間で。

 けれどそんな私たちも学校や人間関係、めんどくさいことに絡まれて自由はそんなにないよなって思う。

 自由になってみたいなぁと独り言で呟きそうになったその時。

 ガラガラ、とドアが開く音がした。

「相変わらず早いね〜、涼夏りょうかちゃん」

「私はひさぎ先輩みたいに優秀じゃないので生徒会とか入ってないですし暇なので」

「またネガティブ思考になってるよ?私から見たら十分優秀だと思うけどな〜」

 相変わらず能天気で可愛い先輩だと思う。

 九ノ瀬楸ここのせひさぎ

 ここ、陽星高校の3年生にして生徒会長。

 容姿端麗成績優秀。 ほぼなんでもできる完璧超人。まぁドジだけど。……っていうのを知ってるのは私だけか。

 ちなみにこの同好会の長でもある。

「また変なこと考えてたんでしょ?1人で水槽とキャンバス交互に見ながら辛気臭い顔してたよ。そんなんじゃ私の好きな可愛い顔がもったいないでしょ」

「そうやってナチュラルに口説くのやめてください」

「口説くもなにも、自分の彼女褒めてなにがいけないわけ?」

「またそうやって……」

 明らかに私に釣り合ってないのに。

 この時間は正真正銘、楸先輩が私の彼女であるということを実感させられる。

 嬉しくもあるが少し憂鬱だ。

「いい加減慣れてよ。私、みんなの前ではあんなだけど流石に涼夏ちゃんの前じゃ気が抜けちゃうんだよね。疲れるしリラックスって大事でしょ?」

 それを言われるとこちらも弱ってしまう。

 先輩の苦労を1番知ってるのは私だし余計に。

 まぁただずっとからかわれるのも癪なので私も反撃する。

「じゃあ、先輩もいい加減慣れてくださいね」

 そう言って私は楸先輩に顔を近づけ、吸い込まれるように口付けをした。

 甘ったるい髪の匂い。

 整った顔立ち。

 誰もが羨むようなその完璧さに腹が立つ。

「んっ……ちょっ……」

 今日は雨で機嫌もそこそこ悪いので八つ当たり混じりに舌を入れてやった。

 こういう時の私はSっ気があって嫌いじゃない。

「ふっ……んんっ……」

 吐息が鼻にかかる。さすがに息が苦しいので私も観念してキスをやめる。

「……バカ」

「からかってくるのが悪いと思います」

「だからってここまでやる必要ないでしょ!?」

「って言いながら顔真っ赤ですけど、満更でもなさそうで良かったです」

「先輩をからかうなー!」

 言いながらも私の胸に顔を埋めてくる姿はやっぱりムカつくほど可愛らしい。

「じゃあ部活始めましょうか。今日は何描きましょう?」

 この美術同好会は私、野山涼夏のやまりょうかと彼女、九ノ瀬楸ここのせひさぎの水槽みたいなものだ。

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