鉄黒の箱庭

獅子狩 和音

鉄黒の箱庭

 薄汚れたコンクリートの壁に、生ぬるい室外機の風が当たっている。狭い行き止まりの細道には、泥はねしたジーンズの男が一人転がっていた。その男の上には煤のような陰が伸びている。それは倒れた男を見下げている青年の陰だった。青年の目は冷たく、澱んだ曇り空を思わせる。彼は眠たげな様子できびすを返し、大通りの方に抜けていった。

 大通りに出ると、濃い夕日が道を暖色に染めていた。薄暗い路地から出てきた彼には些か眩しかったのだろう、青年は目をしばたかせる。だがそれも数瞬のことで、彼は道なりに歩きだした。通りの両側には、ファーストフード店や靴屋を始めとするさまざまな店が肩を並べ、ひしめき合っている。シャッターが降りた「テナント募集中」の古着屋と自動販売機の前に差し掛かったそのとき、彼を呼び止める声が聞こえた。

「遅かったね、卓哉タクヤ。何か面白いことでもあった?」

 青年に声をかけたのは彼と歳近に見えるパーカーの男だった。深緑のパーカーについた大きなポケットへ両手を突っ込んでいる。その男の隣にはパーカーの彼と瓜二つの顔を持つ男が並んでいて、二人とも自動販売機の隣に備えつけられた青いベンチに座っていた。その男はちょうどタバコに火をつけている最中で、二人に半ば背を向けている。言うまでもなく、彼らは兄弟だった。卓哉と呼ばれた青年は「別に」と息を吐く。うっすらと白い息が、空気に溶けていった。

「どうせまた、その辺のチンピラでも引っかけてきたんだろ? ったく、飽きねぇなお前も」

ハクは人のこと言えないよ、ねぇ卓哉?」

「うるせぇよ、ハツ

 よく似た声のやりとりは、一見すると全部独り言のようにも聞こえる。ライターをポケットにしまい込む白と、パーカーの發。双子のやりとりを尻目に、卓哉はすぐ後ろの自動販売機のボタンを押した。程なくして缶コーヒーが落ちる固い音がし、卓哉はプルタブを折る。彼が騒がしい双子たちに向ける目は、ちょうど初冬を思わせる夕暮れのにおいに似ていた。

「白、發。今夜は空いてるか」

 不意に聞こえた卓哉の声に、二人は振り返る。彼は空になった空き缶をゴミ箱に放り込んだ。

 今夜、鼠を狩ろう。

 たったそれだけの言葉を、兄弟は一瞬で理解した。次いで發が嬉しそうに微笑み、白の口角が上がる。彼らの間では、その言葉は一種の合図のようなものだった。夕景は徐々になりを潜め、その残光がすっと消えていく。知性を感じさせる重い声とは裏腹に、卓哉の目には軽率な衝動が燻ぶっていた。


 商業都市、鉱蓮こうれん。あらゆるクローン技術の発展により、商業で目覚ましい利益を生み出したこの街を人々はそう呼ぶ。山脈が多く、広大な土地を持たないこの島国にとって、最小限のスペースで食用動物を量産できるこの技術は瞬く間に必要不可欠な物となった。国民の食糧を自国で賄えるようにと急拵えで工場を建設したために、鉱蓮の街は通りぬけに不便な路地や袋小路が数多くできている。空気が澱んだ薄暗い路地にはいつの世も鼠がはびこるもので、さらに屑は屑を呼ぶ。そうしていつしか、鉱蓮の裏路地には無数の陰が蠢くようになっていた。

 夜の深まりを感じさせる濃藍の空に、汚れた切れっぱしのような雲が流れていく。入り組んだ細道は深い闇を湛えており、踏み入ることを躊躇してしまうほどに暗かった。だが、かねてよりその道に慣れ親しんだ彼らにとって、その場所は愉しささえ感じる場所であろう。そして、同じようにそこに居着いた連中を見つけることも苦ではない。

 工場の敷地とフェンス一枚で仕切られているその行き止まりに、卓哉が探していた連中が集まっていた。その内の数人が、大きな鞄から缶ビールを取り出しているのが見える。手前の角から様子を伺っていた發が、なかば呆れた面持ちで息を吐いた。どうせ万引きするならもっと高いやつを取ってこればいいのに。という彼の囁きを聞き、すぐ後ろの白が笑ってしまいそうだった。何とか笑いを飲み込んだ彼は、壁にもたれている卓哉の方を振り返る。上空を見つめる卓哉の表情が遠く感じられ、白はそっと声をかけた。うなじを隠す彼の黒髪は深く、完全な夜を思わせる。濃褐色の双眼は、この暗さでは黒に等しい。少し眉尻が下がった白と目を合わせると、その両目は静かに彼を見透かした。

「俺が先陣を斬る。あとは好きにすればいい、いつも通りだ」

 余裕を持った足取りで、卓哉は連中の視界に姿を晒した。履き古されたスニーカーは、彼の足音をため息のように小さくする。連中はまだ気づかない。一歩、二歩と近づいたのち、彼の薄い唇からあの低音が発せられた。

 ――、よぉ、遊びに来たぜ。

 一番手前の男が振り返りかけた刹那、卓哉は素早い掌打ちをそいつの後頭部にはめた。鈍い音と同時に連中の一人が崩れ落ちる。程良い固めの弾力と手の平に残る確かな手応えが、静かだった卓哉の表情を豊かに彩った。

「てめぇッ! いきなりなにしやが……ぶっ!?」

 大振りな右フックを仕掛けてきた男に対し、彼は地面に散らばった缶ビールを思い切り蹴り上げた。未開封の缶ビールは男の顔面にぶち当たり、その衝撃で中のビールが勢いよく炸裂する。黄金色こがねいろの液体と鼻孔を喜ばせる麦の匂いがまき散らされ、壁に飛沫を残す。缶が転がる音が、両側の壁にぶつかってよく響いた。缶をぶつけられた男は鼻を押さえており、その分厚い指の隙間からだらだらと情けなく血が滴っている。連中の何人かはこの状況が掴めず固まっていたが、そのうちの一人が卓哉に掴みかかろうとした。だが彼が僅かに後退したため、男の腕はむなしく空を切る。男はいらだちを露わにし、少し距離を空けたまま様子を見ている卓哉に怒鳴り散らした。

「ふざけたマネしてんじゃねぇよ、どこの組の奴だ!?」

 名乗る必要はない。卓哉が鼻で笑ったのと時を同じくして、曲がり角から双子が姿を現した。發は穏やかな表情で「こんばんは」と言った。

「ごめんね。別に、僕は君たちに特別な因縁を持っているわけじゃないんだけど」

「面倒だから消えてもらうぜ」

 刹那、白が一気に連中の一人と間を詰めた。相手が反応するより早く、真っ直ぐな右打ちが繰り出される。ゴツッという鈍い音を合図に、鼠同士の喧嘩が始まった。

 白の拳は豪快に対象を殴りつけ、發は軽やかに相手の足を引っかけて転がす。容貌とは違って似つかない身のこなしは、二人の存在が同一ではないことを裏づけていた。ただ精神面において共通するのは、双方が楽しげであることだろう。連中が全員動けなくなるまで、そう時間は掛からなかった。

「けっ、ぜんぜん手応えねぇ奴らだったじゃねぇか」

 おまけに、シケたもんしか持ってねぇし。そうぶつくさ言いながら、白は殴り倒した男の荷物を漁っていた。

 先ほどよりも深くなった夜の気配が、路地に静寂をもたらしている。それを一緒に眺める發がふと振り返った。

「卓哉、楽しかった?」

 連中が盗ってきたらしい缶ビールを、卓哉はさくさくと飲み干して缶ゴミにしている。少し泡がついた口の端を拭いつつ、彼は地に視線を落とした。その表情は読みとり難く、發は首を傾げて言葉を紡ぐ。

「君はいつも、殴りあっているときは楽しそうなのに、終わっちゃうと難しい顔になるね」

 何か、思うことがあるの?

 そう尋ねられ、彼はやんわりとそれを否定しビールをあおった。一瞬眉間に皺が寄ったのは、彼がそれほどビールを好んでいないせいだろう。あの独特な苦みを旨いという者も多いが、反対にあまり好まない者も一定数いる。特別好きでもない酒を飲むのは、卓哉が酒気を欲しているときの癖だった。

「なぁ、お前そんなに甘いの好きじゃなかったよな?」

 わりかしまともそうなのが一本あったんだが、と白が取り出したのは果実酒だった。つつと頷く卓哉を視界に捉え、だよなぁ。と彼は酒の瓶をコンクリート上に立てた。暗い袋小路に、赤い果実の色が浮かんで見える。置き去りにされそうだったそれを、卓哉の長い腕が掴んだ。ラベルを見ようと目を懲らすが、この暗さでは大して読めはしない。

「なんだ、持って帰んのかよ?」

 短い返事をして歩きだした卓哉に、二つの足音がついていく。酒と脂気をおびた体臭が、その行き止まりに残されていた。


「お会計が六六三円です。お支払い方法はどうなさいますか?」

 カウンター越しに染みついた笑みを向けてくるアルバイトに、卓哉は答えなかった。返事の代わりに差し出された右手首には、明るい青緑色をした線がぐるりと一周している。キャッシュでお支払いですね、と女性の声がした。レジ脇に備え付けられた小型の読み取り機をアルバイトがかざせば、商品を読みとるときと同じように「ピッ」と電子音が鳴る。小さなレジ袋を引っ提げた彼の背中に、「ありがとうございました」と声が当たった。

 国民全員に認証コードの取り付けが義務づけられたのは、もうかれこれ四十年ほど前のことになる。かつての免許証、保険証、キャッシュカード……そしてあらゆる個人情報を保存できる特殊な小型電子チップが開発されたことによって、その案は現実のものとなった。実際のところ、別に手首でなくとも人体に電子チップさえ埋め込めばなんでもいい。だが埋め込まれた本人がその場所を知っていなければならないために、チップを埋め込む位置を右腕と定め、さらにその周辺に色を差すことが決められた。この認証コードができたため、世間の大半の人は現金や財布を持たなくなって久しい。もちろん、卓哉もその一人だった。

「あれ、卓哉やん。今日はバイト休みなん?」

 彼に話しかけたのは、厚めの化粧と金髪が眩しい女だった。十一月も終わりになろうというのに、酷く丈が短いズボンを穿いている。「ウチ、ちょうどあんたのこと探してたんよ」と、彼女は卓哉の隣に並んで歩き始めた。どうやらついてくる気らしい。横断歩道の前で立ち止まると、彼は隣にいる女の方を向く。彼は女に、いったいどんな用向きなのかと尋ねた。

 ちょっと、あんたたちに頼みたいことがあるんよ。

 女が下唇を噛みしめるのを、卓哉はじっと見ていた。化粧で大きく見える両目には、ふつふつと湯が沸き上がるような熱が伺える。横断歩道を渡りきると、寝ぼけたような太陽光が雲に遮られた。

「ついこの間、姐さんが入院したっていうのはもう話したんやっけ?」

「初耳だが、渡部トベがどうかしたのか」

 彼女はこの街にできあがった不良派閥の一派に属しており、彼女が姐さんと慕う渡部はその派閥のヘッドだ。卓哉の家の方に向かいながら、彼女は大まかなことの筋を説明し始めた。

「先月の中頃ぐらいやったかな、姐さんと勝負したいっていう奴が現れたんよ。そいつ、黒いフードか何か被ってたし、暗かったから顔は見えんくて。でも、雰囲気ウチらと同い年ぐらいやってん」

 渡部は、何の細工もなく正面から話を持ちかけてきた奴を気に入ったそうだった。そのフードはかなりの手練れだったようで、タイマンを張った渡部は足と肋をへし折られたとのことだった。もう今は骨折も治りかけで、家で療養しているのだと女は説明した。

「後で知ったんだけど、そいつ最近噂になり始めてるんよ。ウチら以外の奴らもやられてるらしくて」

 曲がり角を曲がると、もう卓哉の家の前だった。不安げに見上げてくる女に、彼はゆっくりとため息をつく。

「要するに敵討ちか」

「引き受けてくれるん?」

 そわそわと返事を期待する彼女に「ちょっと待ってろ」とだけ言い残し、卓哉は家の中に入っていく。そうして二分もたたないうちに出てきた。手にはさっきのレジ袋ではなく、中ぐらいの紙袋を下げている。

「渡部の見舞いにいく、話はそれからだ」


「へぇ、それでわざわざ来てくれたってことか」

 悪いね、と呟いた渡部の前に紙袋が差し出される。飲みさしの赤い果実酒を取り出すと、彼女はそれをゆらゆらと揺らした。短いズボンの女が、狭いアパートの奥からコップを持ってきて渡部に注ぐ。渡部のアパートは縦長のフローリング張りだ。部屋自体はきちんと掃除がされているが、棚やテーブルにある小物のせいで雑然とした印象が強い。中空に、僅かに甘い匂いが漂った。だがそれはすぐに霧散し、どこかへ消えてしまう。怪我の具合を問われると、渡部は染色されたキャラメル色の髪に手櫛を掛けた。別に大した怪我じゃないよ、香子キョウコが心配性なだけさ。渡部がそう言いつつ彼女の方を見遣ると、金髪の香子が気恥ずかしげに俯いた。

「香子から大体の話は聞いたんだろ? まぁ、別に敵討ちだの何だのをしてほしいわけじゃないんだけどさ」

 違うのか、と卓哉がそっと息を吐く。その表情は無愛想なままだったが、黒い眼差しにはどこか安堵したような気配が見えた。

「あぁ、違うさ。あたしがそんな三下だと思ったのかい。負けちまったこと自体は悔しいけど、負けは負けさ。それ以上でもそれ以下でもないよ」

 ただ、ちょっと気になることがあってね。それを、できることならあんたたちに調べてほしいのさ。

 コップを差し出してきた香子に「俺はいい」と断りを入れ、彼は渡部の方に向き直る。彼女から告げられた依頼は、次のようなものだった。

「で、あたしが負けた奴なんだが、最近急にこの街に現れるようになったらしくてね。何というか、ちょいと妙だなと思うんだよ。血の気が多いだけの、ただのはぐれ者ならいいんだけどさ。でも他の連中もやられたって話だし……あんまりいろんな奴を病院送りにしちまうんで、最近じゃみんなあいつのことを『狂犬』呼ばわりしてるんだよ」

「……その犬を捕まえればいいのか」

「捕まえられるんなら、そうしてくれるのが一番早いね。そこまでいかなくても、あいつの頭が正気なのかどうかとか、とにかくあたしらにとって危険なのかどうかが分かればそれでいいさ」

 渡部が酒を調子よく飲み干すと、すぐさま香子が中身を注いでいく。飲みさしだったとはいえ、もう果実酒は瓶の底に少ししか残っていなかった。棚の上に何体かいるぬいぐるみは、よく見るとそれぞれが香水やウィスキーの二〇〇ml瓶を抱えている。空き瓶の収集でもしているのかもしれない。卓哉はしばらく黙した後、ゆっくりと二人を見た。彼が承諾の意を伝えると、渡部が「よろしく頼むよ」と笑った。

 昼下がりの白い空を、鳩の群が通過していく。あの鳩は何十羽単位でどこかの家に飼われている。そのため一日の内に何度か、卓哉の家の近所を好き勝手に飛んでいた。初冬の空気が肺を冷やし、普段は意識しない肺の位置を認識させる。卓哉が吐いた二酸化炭素は白く可視化され、そして瞬く間に消えていった。再び自宅の前にたどり着き、彼は玄関を開ける。開けた先には大きなビニール袋が二つと、その間に彼の母が立っていた。

「あらお帰り、卓哉」

「ただいま」

 まだ靴を脱いでいない母の横にスニーカーを放置し、卓哉は初期の原型を留めていないビニール袋二つを持ち上げた。持ち手の脇から大根の葉がはみ出している。彼はずっしりと重いそれを台所まで持っていき、冷蔵庫に詰め込み始めた。空になったビニール袋は不格好な形に伸びたまま、テーブルの上でへたれている。その脇にもう一つ小さなビニール袋があることに気づき、卓哉はそれを掴み取る。そしてそれが自分の買い物だったことを思い出した。袋の中から、分厚い円柱ガラスのワンカップを取り出す。居間の仏壇前にそれを置き去りにし、彼はまだ中身が入っているコンビニの袋を指に引っ掛ける。そのまま部屋へ向かおうとした卓哉を、母が呼び止めた。

「肉じゃがにしようと思うんだけど、今日はまた夜遅く帰ったりするかしら」

 玄関から聞こえる母の声に、彼は「日付前には帰るよ」と振り返った。


 水に溶かしたような紺青の空は、浅い夜の訪れを感じさせる。遙か上空に凍りついた星屑を見上げ、彼は白い息を吐いた。商店街の一角、居酒屋や飲食店が集中した通りは会社帰りや飲んだくれで賑わっている。定食屋の脇にある地味なコンクリートの階段を、卓哉は降りていった。赤茶色の古びた木製のドアを開けると同時に、むわっとした生ぬるい酒臭さが鼻を通る。彼はその空気を肺に吸い込んで奥のカウンターまで行った。カウンターの右端にはJIM BEAMを飲み散らかしている女がいて、店内の酒臭さの大半が恐らくこの女の仕業だった。空になった三五〇mlボトルが雑然とカウンターに寝転んでいる。白いラベルに印刷された封蝋が、黄色味掛かった照明で生肉のように見えた。その向こうで白髪まじりのマスターが苦笑いしている。

「あぁ、いらっしゃい。何にする? JIM BEAMにするんなら早くしたほうがいい。でないとこの人が全部飲んでしまうからね」

「EARLY TIMESをロックで」

 卓哉は女の二つ隣に腰を下ろし、別なウィスキーを指し示した。女は彼が示した酒に興味を持ったのか、マスターに同じものを頼むと言う。艶やかに光を反射する女の黒髪は、背中辺りで切りそろえてあるらしい。立ち込める匂いさえ除けばそれなりに良い女かもしれないと、卓哉はぼんやりと思考した。

 結局、女は卓哉と同じ一杯を最後に店を後にした。勘定が恐ろしい額だったように思えて、卓哉は思わずマスターと目を合わせる。入れ替わりに入ってきた中年の男はカウンター席には座らず、四つある小さな丸テーブルの一つに居座った。

 すごかったろう、彼女。めったに来ないんだけどね、ときどき来たと思ったらああして飲み溜めて帰っていくんだよ。

 絶対真似したら死ぬと思うけど。と笑うマスターの言葉を聞き、卓哉は冷やされた琥珀色の液体をちびちび啜っている。そこに彼の見知った双子が入店し、卓哉を挟んで席に着いた。遅かったな、とやや不機嫌そうに見上げられた白は、その刺すような視線から逃れるようにして酒を頼む。その反対側で、發が申し訳なさそうにそわそわしていた。

「ごめんよ、卓哉。ちょっと妹を捜してて」

「……妹?」

「そう、僕らとそっくりなね。今夜は帰ってくるって話だったんだけど」

 白と發に妹がいるというのは思いもしないことだった。發が言うには、その妹は普段からしょっちゅういなくなったり突然帰ってきたりする困った生き物らしい。今日は用事があってそれを探そうとしたが、とうとう見つからなかったということだった。

「まぁ、見つかんねぇのはいつものことだけどな。あいつは大抵端末の電源を切りっぱなしにしてっから」

 端末、と俗称されるその小型連絡機は、通話やメール機能のほかに位置情報も表示できるようになっている。その情報は本人が許可した友人や家族にのみ特定できる仕組みだが、物理的に端末の電源を落とされると使いものにならないのだ。探さなくていいのか、と言った卓哉に彼は笑って答えた。

 別に、そのうち戻ってくるだろ。そんなに必死こいて探すもんでもねぇよ。

 發もそう思っているのか、音信不通の妹を心配する様子はない。白は卓哉の言葉に妙な邪推をしたのか「彼女がほしいんならくれてやるぜ」とニヤついた。卓哉は蔑むような暗い目つきで彼を睨むと、静かにその提案を突き返す。

「お前等と同じ顔の女なんか抱きたくない」

 刹那、提案した張本人が危うく飲み物を吹き出しかけた。こみ上げてくる笑いを押さえきれないらしい彼の背中が小刻みに震えている。沸点の浅い片割れを横目に、發は肩をすくめた。カウンターの向こう側には、片づけられた空のボトルが食器と同じようにして、流し台に寝かせてある。一瞬、卓哉は強いウィスキーのにおいを嗅いだように思ったが、その原因はすでにここにはいない。違う酒が少量、グラスに入って並んでいるだけだ。空になったグラスを渡し、彼は二杯目を頼んだ。

 卓哉が渡部の話をしたのは、二人がこの店に来てから一時間ほど後のことだった。本格的な夜の訪れにより、店内は騒がしく繁盛している。込み合った人の熱気によって、そう広くない店内が少し暑く感じられた。渡部からの依頼について、双子はだいぶ乗り気らしい。何杯目かの酒を煽る白は愉快そうだ。

「『狂犬』なぁ……ちょうど退屈してたとこだし、いいんじゃねぇの?」

「できることならお手合わせ願いたいところだけどね。金子キンコさんは何て言ってたの?」

 發は渡部のことを下の名前で、金子さんと呼ぶ。これはかつて「二人の見分けがつかない」とぼやいた渡部のために、發が意図的に彼女を名前で呼ぶようにした名残だった。今ではもう渡部に見分けてもらえるようになったのだが、相変わらず彼はその呼び方を続けている。もうすっかり習慣づいてしまったらしい。捕まえるのが一番だが、危険かどうかさえ分かればそれでいいという趣旨を、卓哉が伝える。「要は口が聞けりゃ何でも良いってことだろ」と白は笑った。あんまりがっつくなよ、と制す卓哉の忠告など聞く気はないらしい。じゃ、お先。そう言いつつ立ち上がった彼に發が小首を傾げる。

「帰っちゃうの? もう酔いが回っちゃったとか?」

 酒の巡りでほんのり紅潮した發を見て、卓哉はふっと鼻で笑った。犬のような眼差しを解すように、發の髪をかき乱す。悪いな、とこぼしつつ卓哉は自分の勘定を済ませた。そして帰りざまに、白の面を軽く叩く。不意を襲われた白が妙な悲鳴を上げたのを見届けてから、卓哉は店を出ていった。


 薄青い真昼の空に、乱れた人の息が現れては消えていく。工場と工場の隙間に座り込んでいた彼は、まだ弾んだままの息を整えようと深く息を吸い込む。生暖かい呼気には若干の鉄臭さが混じっていた。

 大丈夫? 卓哉。

 急に聞こえた声に、彼の双肩がびくりと震える。だがその声は卓哉がよく知る声だ。強ばった肩を落とし、彼は頭上から自分のことを覗く發を見上げている。頬に走った浅い赤が、稜線のように儚げだった。彼は卓哉の隣に腰を下ろし、そっといたわるような手つきで頬に触れる。半ば乾いていた血糊が拭われ、卓哉の片頬に紅を引く。いいねこれ、可愛いよ。跡が残らないのが残念だけど。發が静かに微笑んだのを見て、卓哉は目を伏せた。指の腹が傷口を撫でると、頬に若干の痛みが走る。だが卓哉はそれを止めさせようとは思わないらしい。ただじっとして、發が満足するのを待っているようだった。彼の手が頬を離れ、卓哉の右肩に触れる。紺色の上着は肩口が少しだけ裂けていて、その周辺が黒っぽく湿っていた。發に上着を脱がされる彼は大人しく、傷口に布が擦れた際に身じろいだだけだった。はだけさせられた右肩は白く、七センチほどの赤黒い刺し傷がその存在を主張している。發の指先は血塗れた患部をまさぐり、その先端をタールでも掬ったかのように汚していく。どぎついせいの色が、てらてらと鈍く光を反射した。まだ熱い傷口に混入した異物が痛みを伴い、半ば乾いてきていた傷口から一筋の真新しい血液が垂れている。卓哉の表情が苦痛に歪んだ。普段、見る者に冷静な印象を与える眼差しは幾分かなりを潜めている。彼の深く刻まれた眉間の皺が、その痛みに比例してひくひくと動いた。だが、それでも卓哉は發の指を拒まない。他人の皮膚に侵入した指先は、愛おしげに相手の肉を傷つけていった。

「これ、塞がったら見せてくれる? きっと少し残ると思うから」

 發はそう言うと、今まで弄んでいた傷口に消毒液を吹きかけた。劣化した体液を拭い、慣れた手つきでガーゼを押し当てる。妙なつややかさをはらんだ發の表情に、卓哉は気づかないフリをした。寒気に晒された腕を庇うように、上着の袖に手を通す。彼は立ち上がろうとして少しよろけ、同じように立ち上がった發に上体を支えられた。

「痛い? それとも血が抜けすぎた?」

 卓哉の答えはいつもと変わらなかった。なんでもない、と吐き出されたため息は静かに霧散していく。一番星も凍りそうな夜だった。

 狂犬を探し始め、はや一週間が過ぎようとしていた。相変わらず不良たちの被害は続出していたが、被害者の数に対して有力な情報はほとんどないといっていい。分かるのは線の細い黒パーカーの二〇代ということぐらいで、後は素手喧嘩すてごろで細身の体に似合わず豪快な蹴りを放つということぐらいがせいぜいだ。奇襲や不意打ちを仕掛けてきたことはなく、夜道にふらりと現れてタイマンを挑んでいるのは相変わらずらしい。卓哉たちは出現情報があった付近を虱潰しに探しているのだが、未だに目当ての「狂犬」には出会えずにいる。それどころか、余計な連中とやり合う羽目に陥ることの方が多いぐらいだろう。今晩の卓哉もそうして無用な怪我をした。

「それにしても、なかなか会えないね。もう少し簡単に会えたら僕らも苦労しないんだけど」

 細道を帰りつつ、發は卓哉にいろいろなことを話す。話すのはほとんどが發の方になるのが常で、今回もそうらしい。楽しげに話す彼を直視することは少なく、しかし多少の相づちと反応を返すのが卓哉だった。二人の会話はいつもそうで、鏡面のような片割れである白がいるときは彼とのやりとりが多くなる。卓哉の役割は別段変わりはしない。二人が商店街の通りに出ると、件の片割れが不機嫌な面もちで歩み寄ってきた。何かのにおいを感知したのか、白は若干鼻をひくつかせる。彼は眼前の卓哉に手を伸ばしたが、それはかわされて空を切った。

「お前、怪我したんだろ。相手が悪かったか?」

 咎めるような白の言い方に、彼はそっぽを向く。再び眉間に皺が寄っていたが、それは痛みとは別な原因がありそうだった。

 血生臭せぇ臭いがするが、どこ引っかけた。

 白の嗅覚は常人よりも優秀だ。再び自身に向かって伸びてきた手を、卓哉は拒まなかった。ちょうど發にガーゼを貼ってもらった場所を掴まれ、微かに彼の腕が強張る。あんまり乱暴したら駄目だよ、白。ちょうどその辺りに傷があるんだから。と發が指摘すると、彼はぱっと手を離した。すっかり暗くなった道を、彼らはだらだらと進んでいく。澄んだ空気は水のにおいがした。


 それは、もうすぐクリスマスを迎えようという雪の日だった。どの店も大概がカラフルな豆電飾で輝いている。大きな壁ガラスで人目を引く美容院のテーブルには、ソフトビニールのちゃちなもみの木が置かれていた。人工的な明かりにまみれた街は明るいが、そこに暖かみはない。彼は横着してマフラーをしなかったことを後悔していた。手ぶらで上着だけを羽織ってきた卓哉は、吹き付ける風に首を縮める。外出のついでに、母親から買い出しを頼まれたのだ。ケーキではなく塩コショウを。

 緑と白の明かりで店名が書かれたコンビニエンスストアに入ると、熱いぐらいの暖房が効いていた。店内には数人の立ち読み人や、何かを買い求めに来た客が見える。店内はそう広くないため、よほど小さな物音でない限りこの場の音は耳に入る。調味料を探す途中、ドリンクコーナーの前で飲み物を選ぶ二人組の男の会話が聞こえた。

 ――、なぁ、さっきの奴すごかったな。

 ――、あいつら死んだんじゃね?

 炭酸飲料を選ぶ二人組の笑い声に、彼は振り返る。そのまま側のコーナーで立ち止まり、話の続きを聞こうと試みた。断片的な情報を繋ぎ合わせ、不足を推測で補うことはできなくはない。彼らの話を立ち聞きするうちに、卓哉の脳裏にそれと思しき場所がちらついた。二人組がレジの方に歩みを進める。当初の目的を完全に放棄し、彼は店を出た。

 いつもより明るい夜道を走り抜け、賑やかな地帯を通り抜けていく。次第に派手な電飾は疎らになり、卓哉が足を止めたころにはもう辺りに一つもなかった。鼻孔を掠める香ばしい血の気配に、彼はざわついた喜びを押し留める。近い。身を焦がす衝動の引き金が、迸る激情のはけ口が、ほど近い場所にあるかもしれない。卓哉の口元が僅かに緩んだ。眼前には立ち入り禁止の色褪せた看板と、閉ざされた格子の門が暗闇に浮き上がって見える。それは閉鎖となった人工食用豚肉工場で、昨年の冬に老朽化と財政難を理由に放置されていた。解体費用もなく新しく土地の買い手がつくこともなく、朽ちるがままにされた工場の残骸。触れた鉄格子の門は皮膚を剥ぎ取らんばかりに凍てついている。卓哉は無骨な南京錠で施錠された入り口をよじ登り、立ち入り禁止の向こう側に降りた。

 狂犬はここにいるんだろうか。

 意識を研ぎ澄ませ、人の気配を探ろうと試みる。卓哉の耳にはごうごうと上空で唸る北風の音以外聞こえない。人がいる場所にはとても思えなかったが、その閉鎖された広い箱庭は、狂犬の住処にふさわしく思えた。朽ちた枯れ枝によって、外壁を覆われたコンクリートの工場。割れた窓ガラスの奥には四角い暗がりが息を潜めている。もはや原型を留めていないドラム缶が、いくつか彼の側に転がっていた。目が宵に慣れてくると同時に、卓哉の目にはより多くの景色が写る。ふと、工場の脇にうずくまった何者かを認め、卓哉はそれに駆け寄った。ぼんやりと見えるその顔は、初めて見た顔ではない。名前こそ知らないが、卓哉は彼のことを知っている。その男は、以前卓哉が缶ビールを顔面に蹴りつけて撃退した不良だった。男も卓哉を覚えていたのか、目の焦点が定まってくるや怯えた様子を滲ませる。だが足を怪我しているらしく、男が逃げる様子はなかった。

「安心しろ、今日は別にお前に用があって来たわけじゃない」

 男の表情はよく見えなかったが、明らかに緊張が緩んだのが分かる。強ばっていた肩の力が抜けたのがなによりの証拠だ。狂犬を知らないか、と尋ねられ、男は緩慢な動作で腕を動かす。震える指が指し示したのは、工場の中だった。

「中に、俺たちの兄貴が……不意打ちでぶっ潰そうとしたのに、あの犬……全員弾き返しやがったんだッ」

こすいことをしたうえで、それで負けたのか」

 卓哉が呆れて吐き捨てたそのとき、工場のドアが内側から豪快に吹っ飛んだ。ひしゃげたドアと一緒に地面を転がっているのは、この男の兄貴とやらだろう。多少、肋骨ぐらい折れていそうだが大したことはないはずだ。男の悲鳴なのか何なのか分からない声が聞こえたが、卓哉はそれどころではなかった。

 朧月夜の陰に現れた、静かで圧倒的な悪鬼。

 黒いパーカーを血や土埃で汚し、その手の甲は付着した争いの跡で染められている。顔はほとんど見えないが、口元が軽薄な笑みをこぼしていた。その圧倒的な存在の重みから、こいつが狂犬に違いないと卓哉は確信する。彼は音を立てないよう気をつけて立ち上がると、その人物に近寄った。鼻孔を疼かせる、血と汗の蒸発した臭い。それに混じって僅かな洋酒の匂いがした。

「ん、まだ動けるのがいたか。ちゃんと潰したと思ったんだがな」

「俺はこいつらの仲間じゃない、お前に用があってここに来た」

 卓哉の言葉に、黒パーカーは興味を持ったらしかった。ポケットに返り血で塗れた両手を突っ込んで、彼の言葉の続きを待っている。その背丈は卓哉より少し低く、フードからはみ出ている黒髪が胸辺りに垂れていた。露出部位が少ないため体格はよく分からないが、確かに体の線は細い。それでいてドアと人間を吹っ飛ばせるだけの筋力を有するのは、一体どういうことだろうか。

「お前がタイマンを張る理由を聞きたい」

 それを聞くと、黒パーカーはくっくっと肩を揺らして笑う。狂犬の返事はこうだった。

「あんたが、私に勝てたら教えてやろう。簡単だろ?」

「あぁ、分かった」

 短い返事を最後に、卓哉は一気に距離を詰めた。顔面を狙った卓哉の右腕は外側に弾かれ、相手の豪快な蹴り上げが首元をすり抜ける。後退しかけた卓哉を追い詰めるように、すぐさま相手の拳が迫った。腹部を狙ったその一撃を避けきれず、彼の胴に重い一撃が入る。こみ上げてくる吐き気を押さえ込み、彼は黒パーカーを突き飛ばした。上体のバランスを崩された相手は後ろに倒れ、卓哉は呼吸を整える。すぐさま起きあがった狂犬を卓哉は警戒したが、相手は仕掛けてこなかった。彼の整いきらない呼吸をかき消すような、明るい声がした。

 へぇ、あんた面白い奴だな。さっきのズブとはえらい違いだ。

 足下の雑草を踏みにじる音が、冷えた風の音に紛れて消えていく。ようやく呼吸が戻りつつあった刹那、狂犬が強く地面を蹴った。素早い上段蹴りが空を凪ぎ、卓哉のこめかみに紅を引く。彼は次の一撃が来るより速く、相手の顎に掌底を打った。その衝撃で仰け反った相手の頭からパーカーのフードがずり落ちる。だが掌低自体のダメージはさほどなかったのか、力強いローキックが卓哉の足を強打した。次いですぐさま飛んできた肩口への蹴りを、彼は左腕で受け止める。早さと破壊力の双方を満たした完璧な二段蹴りだ。フードが脱げた狂犬を直視して、彼は目を見開く。それは卓哉がよく知る顔で、しかし初めて見る女の顔だった。思わず固まったその一瞬の隙に、彼女の拳が再び腹部に食い込む。鳩尾に的確な一撃をはめられ、彼は為す術もなく地に崩れ落ちた。こめかみの傷から、ぼたぼたと熟れた脈動が滴っている。彼女は柔らかい上品な笑みを浮かべ、足下で咳き込んでいる卓哉にそっと歩み寄った。彼女の指が、彼の傷口を隠している髪をかき上げる。こめかみからつたうあかは、狂犬を暗い喜びに満ちさせるに十分なあでやかさを孕んでいた。彼女の唇が、血で汚れたこめかみにそっと口づける。彼女から漂う酒臭さに、彼は表情を歪ませた。些かざらついた狂犬の舌が傷口をなぞる。一瞬、卓哉は何が起きたか分からずに身を強ばらせた。数瞬遅れてそれを拒もうとした彼の腕は、あっさりと彼女に絡め取られてしまう。傷口に入り込もうとする、他人の生身の部位。それに不快感と既視感を覚え、彼は再び彼女の顔を見ようとした。しかし狂犬の顔は卓哉に接するほど近いため、見えるのは後頭部だけだ。

「ん……存外大人しいな。あんたもしかしてこういうの好きなのか?」

 不意に耳元でそう囁かれ、彼は首を縮込ませる。短く唸った卓哉の様子に彼女は愉快そうに笑った。なんだ、そういう訳でもないのか?あんた本当に面白いな、悪くない。

 鉄錆のような血液の味を堪能しきったのか、それとも出血が収まってきたのか。狂犬の湿ってざらついた舌が、卓哉の傷口から離れた。柔らかな唾液の音と、小さく押さえた彼女の声が鼓膜を震わせる。その音からくみ取れた意味に、彼は沈黙した。

 あんたは私と同じ臭いがする。誰かと拳をぶつけあいたくて、ぐずぐずくすぶってる火薬みたいな臭いだ。

 彼女は大人しくなった獲物を捕食するかのように、整った唇から歯を覗かせる。刹那、明後日の方向から飛んできた何かに反応して、彼女は慌てて退いた。だが僅かに間に合わず、狂犬の左肩を固い何かが強打する。沈黙した場に、鈍い音が響いた。

「おい、無事か卓哉!」

 強引に肩を抱き起こされ、卓哉は文句を言いかける。だが言葉を発するには至らず、切れ切れになった呼吸が空気に紛れていったにすぎなかった。新手の乱入に乗じて、先ほど狂犬の餌食になっていた連中が廃工場から脱走する。狂犬は退散する連中の背中を見はしたが、追いかける気はないらしかった。連中より卓哉の方が気になるのだろう。狂犬と卓哉の間に落ちていたのは、古いコンクリートブロックだ。先ほど飛んできたのはこの物騒な塊だろう。タイマンに水を差したのは件の兄弟だった。狂犬を前にした發が、妙なことに気づいて目を細める。肩を押さえうずくまる彼女の双眼は、鋭く研ぎ澄まされ發を睨みつけていた。表情こそ違えど、水鏡の如く酷似した容姿。

「ちょっ……チュン!? どうして……っ「どうしてもクソもあるか。せっかくいいのを見つけたってのに、水差したのは發たちの方だろ。馬鹿デカいブロックなんか投げてきやがって、外れたのちゃんと治してくれよな」」

 わざとらしい大きなため息をつき、彼女は立ち上がる。その勢いで、狂犬の左腕はだらりと揺れた。さっきのコンクリートブロックで脱臼したのだろう。ブロックのざらついた面が皮膚を削いだのか、その腕からはどす黒い水脈が流れ、ぽたぽたと地に落ちていった。ようやく呼吸が整ってきた卓哉が、傍らの白に疑問を紡ぐ。しかしその問いの答えは、薄々彼も気づいていた。

 白と發の、妹。

 ふと、雲間から差した月影が周囲を明るく照らす。その瞬間、卓哉はあることに気がついた。

「お前、この間バーボンを飲み潰してた奴か……?」

 整った顔立ちに、艶めいた塗れ羽の髪。どこかで嗅いだ覚えがある洋酒の匂い。あのときはまともに顔など見ていなかったが、それは以前見かけたJIM BEAMの女に違いなかった。卓哉の問いに、狂犬は静かに「あぁ、そういえばそうかもしれないな」と答え、再度彼の姿を見据える。彼女の方も、卓哉を覚えていたようだった。

「あぁ思い出した、EARLY TIMESだ。もっとも、酒の名前ほどの時間は経っちゃいないが。まったく、妙な偶然もあるものだな」

 兄弟に邪魔されたのがよほど嫌だったのか、中は突き刺すような双眼で二人を見据える。左肩の怪我がもとで、彼女のパーカーの袖がじわじわ湿っていくのが暗闇でも分かった。彼女はズボンのポケットから平たい酒瓶を引っ張り出すと、濃い黄金色の液体をがっと直接煽った。その様子を目にした双子が「あぁ、中ったら怒ってるよ」「よっぽど卓哉が気に入ったんだな」などとぼやくのが聞こえる。二人の兄は暢気に構えていたが、卓哉は中を警戒してか二人の後ろに引っ込んだ。彼の心中は不明だが、危険人物のお気に入りになるのは避けたいのかもしれない。世話の焼ける妹を宥めようと、白が言葉を選んでいた、そのときだった。

 遠くから聞こえる、サイレンの音。

 追い風に乗って微かに聞こえるその警報音は、その場にいた四人を一つにするために十分な要素だった。この音と赤いパトランプは、今も昔も不良たちの共通の敵である。いかに荒事を好む彼らであろうと、拳の勢いは拳銃には適わない。一瞬の沈黙の後、さっさと逃げようとした中を白が捕まえた。

「いい加減、お前も家に帰ってこい。發、卓哉を頼む」


『卓哉はいつも急ね、良くないところばっかり父さんに似るんだから。塩コショウ、忘れないでよ』

 電話口にため息をつく母親に、卓哉は謝罪の言葉を重ねる。今日は泊まりで明日帰ることを伝え、彼は通話を切った。それを眺めていた發が愉快そうに笑う。

「相変わらず、おばさんには敵わないね。卓哉」

 ばつの悪そうな卓哉を、發は日焼けした古書を開くときのような眼差しで眺めている。發たちには母親がいない。だからなのか、彼は卓哉の母にいつの間にか親しみを覚えているようだった。卓哉は座っててよ。中に殴られたとこ、まだ痛いでしょ?そう言いつつ、彼はリビングの冷蔵庫を開けた。

 卓哉は大人しく緑色のソファに居座り、ぼんやりと室内を見回す。白と發とは前々からよくつるむ仲であったが、彼らの家に来たのは初めてのことだった。今までは卓哉の家に彼らが遊びに来ており、不思議とその逆が実行されることはなかったのだ。それはもしかすると、發が卓哉の母親と仲が良いせいかもしれない。部屋には一人掛けのカラフルなソファが四つ、大きなテーブルを囲んでいる。向かいにある真っ赤なソファは、多分中の席なのだろうなと勝手に思ったりもした。緑が發、白が真っ白なソファ。隣の黒いソファは誰の席なんだろうかと考えていると、風呂場から戻ってきた中がリビングに入ってくるのが見えた。何も着ていない。申し訳程度に腰にタオルが巻かれているだけだ。生来の魅力である柔らかに膨らんだ胸よりも、皮膚の下が露出した肩口のあかが裸体を鮮やかに際立たせているように見える。コンクリートブロックで強打し、薄く削がれた生々しい傷。ザクロのような瑞々しさを感じさせるそれは、不完全な輝きを思わせる。そのすぐ後に入ってきた白が、乳ぐらいしまえ!と彼女にバスタオルを投げつけた。タオルが直撃したのは問題の胸ではなく顔だったが。

「それよか白、いい加減肩治してくんねぇ? 片腕で服着るの無理だったんだけど」

 彼女の左肩はまだ脱臼したままだった。不自然に脱力したその腕を、まともな方の手で掴んでぱたぱた振っている。彼女の顔からずり落ちてきたバスタオルを羽織らせながら、白はタオル越しに肩口を掴む。熟れたザクロの染みが滲み出るのも構わず、彼は慣れた様子で中の肩をはめた。「おおっ、治った」と感心する中を、彼は「いいから服着てこい」と追い出す。露出狂がいなくなると、白は固まっているのか絶句しているか分からない卓哉の方を振り返った。

「悪りぃな、あいつはどうにも男心を理解してくれねぇらしい」

「あの傷、あのままでいいのか」

 ぼそり、と呟いた卓哉の声を、冷蔵庫からサイダーを持ってきた發が拾い上げる。心配ないよと答えつつ、卓哉の前にサイダーのボトルを置き去りにした。瓶の中で発生するたくさんの気泡が、水面に上がっては消えていく。と、そのボトルのそばに白い箱が到着した。

「そしたらさ、中の……戻ってきたら診てあげてよ。僕が診たらうっかり広げちゃうかもしれないし、なにより塞がってからの方が興味あるからさ」

 頼むよ、卓哉。白だと心配だから。

 發の発言に白は二言三言文句を言ったが、元露出狂が戻ってきたため交代で風呂場に引き上げていった。くしゃくしゃの長袖を小脇に引っかけて戻ってきた彼女は、肩が露出するタンクトップを着ている。濡れた髪がうなじにくっついた彼女を、卓哉はちょいちょいと手で呼び寄せた。隣の黒いソファに腰を下ろした中は、「なんだ?」というように首を傾げる。彼が救急箱から消毒液を取り出すと、それは滲みるから嫌だと中は唸った。手のひらほどにガーゼを切り、クリーム状の塗り薬を多めに塗りつける。そうしてべたべたになったガーゼを傷口に被せると、軟弱な紙テープもどきで固定した。そのままするすると包帯を巻いていく。

「痛いか」

「あんたのこめかみよりは、多少」

 そう笑った彼女は先ほどのようにそっと手を伸ばして、卓哉の髪をかきあげた。中が散々堪能したお陰か、傷口は新しかったが出血は治まっている。卓哉が強ばったのに気づき、彼女はますます愉快そうに口角を上げた。

「あぁ大丈夫、もう食べたりしねぇから。さっきと違って、もう新鮮さと瑞々しさに欠けるからな」

「治ったらまた見せてね、卓哉。中は生が好きだけど、僕は塞がった跡の方が好きだよ」

 とんでもない言葉を投げてくる二人を前に、彼は沈黙してサイダーを飲んだ。瓜二つの、たがうことなき同じ顔。二人の兄も大概奇妙だが、この妹もその例に洩れないらしい。發は向かいの赤いソファに座ると、中に問いかけた。

 どうして無差別にタイマンを仕掛けていたのか、と。

 それは先ほど、卓哉がした問いかけと同じもの。卓哉が勝てばその理由を白状するはずだったが、先ほどの殴りあいに勝負はついていない。彼女は少し黙した後、隣の卓哉の方を向いた。

「彼が私に勝ったら、って約束なんだよな。これが。そういう約束だったろう?」

 卓哉は短い返事でそれを肯定する。だから、と彼は続けた。

「お前に再戦を頼みたい。さっきとは違う条件で」

 違う条件、ということに彼女は興味をそそられたらしい。發が落ち着かない様子で両者を見ていたが、当人たちの表情に緊迫感はなかった。両者が共通の楽しさと期待を抱え、互いに衝突を望んでいる。卓哉にとって、あるいは中にとって、拳を交えることは粗暴な意志の疎通だった。いくら人間の技術が向上しようと、暴力が意志を伝えることに変わりはない。皮膚の触れあいが愛を伝えることと同じように。それは原始の業であり、人間が肉体を有した生き物であることのさがだった。

「お前が勝てば、俺はお前に従う。そのかわり、お前が負けたときには俺のいうことを聞いてもらう。それでどうだ」

「悪くない。あんたは旨そうだし、なによりそれが一番愉しそうだ。私はあんたと戦いたい」

 惜しげもなく晒された彼女の意志を聞き、卓哉はすっと目を閉じる。ゆっくりと瞬いた眼孔は静かにくすぶっていた。


 気だるげな白い朝に、彼は目を覚ました。穏やかな静寂が卓哉を停滞へと引き込み、ベッドから出るのを止めさせようとする。だがいつもとは勝手の違う部屋が落ち着かないのか、卓哉はもだもだしながらそこを離れた。ぺたっ、とフローリングに落ちたガーゼには、むわっとした薬臭さと乾いた鉄錆のようなものが付着している。彼のこめかみに貼っていたものが取れたらしかった。指先で探るように触れた傷口はもう乾いていたため、彼は汚れたガーゼをポケットに突っ込んでリビングに向かう。短い廊下に響いているいびきは、一体誰の仕業だろうか。

「おや、あんたなかなか早起きだな」

 不意に声がした方を振り向けば、玄関にひとり狂犬が佇んでいた。昨日と同じ黒いパーカーに、中身だけ別の服を着ている。出かけるのか、と卓哉が問えば彼女は短い返事とともに笑った。

「白たちには適当に言っといてくれよ、なんせ野暮用があってな」

 また、クリスマスに会おう。

 まるで恋仲のような響きを持つ言葉を最後に、彼女は薄明るい外に出ていった。聖夜に殴り合いか、と玄関に取り残された彼は目を細める。雪に染み込む生体の赤は、くたびれた廃墟の壁によく映えるだろう。昨夜から胸の内にくすぶっている荒い衝動を、卓哉は心地良げに享受した。


 思い出の残光を抱え続ける朽ちた工場跡に、白い雪が積もっている。日付の変わり目とあって空は漆塗りのように暗かった。だが雪の白さもあって、工場敷地内は比較的明るく見える。卓哉が白と發とともに敷地内に潜入すると、そこにはすでに幾人かの先客があった。

「メリークリスマス、金子さん。足はもういいの?」

 發がそう声を掛けると、もうすっかり治ったと渡部は答えた。彼女の側には、この寒いのにまだミニスカートを愛用し続ける香子が立っている。染色された髪は少し伸び、つむじの方だけが黒かった。敷地内には彼女たちの他にも、卓哉たちが見知った顔や知らない顔が揃っている。どう言うことかと白が問えば、渡部が口を開いた。

「みんな、卓哉と狂犬の勝負が気になってるのさ。そのうちどっちが勝つかで賭でも始めるかもしれないねぇ」

 と、そのとき工場の門辺りにいる連中がざわつき始めた。野次馬たちが一点を取り囲むようにして、ざわざわと落ち着かない。その人混みの中から姿を現したのは、他ならぬ狂犬だった。

 ――メリークリスマス、不謹慎な同類たちよ。

 卓哉の前まで来ると、彼女はパーカーを脱ぎ捨てる。この寒いのに、その下は薄い半袖だった。初めて見る狂犬の素顔に、野次馬のどよめきが聞こえる。それに構うことなく、中は左手を差し出す。黙ったまま握手を交わすと、卓哉は真っ直ぐに相手を見据えた。白と發によく似た、しかし明らかに異なる第三の因子。気がふれているのかふれていないのか分かりかねる、印象的な強い眼差しの色。不敵な悪鬼の容貌が、卓哉は好きだった。

「勝った方の言うことを聞く……それでいいな」

「あぁ、構わない。野次馬どもは離れな、間違えてぶっ飛ばしちまっても苦情は受けつけねぇぞ」

 低く、腹の底を穿つような狂犬の声に、連中はじりじりと後退する。二人を取り囲む人の輪が十分広がると、卓哉は地面に転がっているコンクリート片を拾った。虚空に投げ上げられる拳ほどの塊。それが泥混じりの雪に落ちた刹那、双方は一気に距離を詰めた。速攻で放たれた彼女の中段蹴りを卓哉が左腕で弾き、顎を狙った彼の掌低は中の腕に軌道を反らされる。半歩ほど下がった卓哉は、すぐさま放たれたアッパーを両腕で相殺しようとした。だが凶刃に値する狂犬の一撃は重く、威力を抑えるに留まってしまう。鈍い痛みを切り捨てるように、彼は彼女のこめかみを穿った。少しぐらついた狂犬は、いらついた様子で卓哉に頭突きをかまして後方に下がる。両者の目つきは鋭く、だが同様に軽率な喜びに溢れている。血がたぎるような鉄錆の臭い。拮抗する両者の拳に、野次馬が賭を始めた。寒さを置き去りにして熱中する連中の口から、白い息が沸いては消え去っていく。口の中を噛んだのか、卓哉は血混じりの唾を吐き捨てる。やや不機嫌そうな眉間の皺を見て、中は口角を上げた。薄い雲が煌々と光る月影を遮断する。卓哉は勢いよく雪地を蹴ると間合いを詰め、鳩尾を狙った膝蹴りを仕掛けた。先ほどからの攻撃で卓哉の手に気を取られていた彼女は、それをもろに食らって地面に転がる。倒れ込んだ際に頭を切ったのか、彼女の額から頬に一筋の紅が伝う。だが、その双眼は野犬のようなぎらつきを失わない。彼がとどめの一撃を決めようと近づいた瞬間、がむしゃらなボディーブローがわき腹に直撃した。鈍い崩壊の音がし、卓哉の上体が崩れる。素早く体制を立て直そうとした狂犬を、彼は力ずくで押し倒した。

「っ、参ったな。まさか、あんたに押さえ込まれるとは思ってなかった」

 仰向けに転がった彼女を下に敷く形で、卓哉はその白い首に両手をかけていた。実際に絞めるほどの力は込められていないが、この状態から中が逃げ出すのはほぼ不可能だろう。整わない卓哉の呼吸が、白く溶けてはまた生まれくる。余裕がなさそうな、けれどもこみ上げる粗悪な喜びを抑えきれない様子で卓哉は言葉を紡いだ。

 俺の、勝ちだ。

 動かされた唇の端から、生暖かい赤がはたはたと落ちる。彼女の頬に卓哉の血液が弾けた。それに気づいた彼が「悪い」と片手で落とした液体を拭う。首を押さえられたまま、狂犬はくすくすと笑った。彼の手の平に、微弱な振動が伝わる。

「仕方ねぇ、私の負けだ。あんたに従うとしよう」

 彼女がそう言った瞬間、野次馬の歓声が喧しく響いた。賭に負けた者、勝った者、純粋に勝者を称える者、敗者を罵る者、すべてが綯い交ぜになって廃工場を震わせる。先ほどまで円形になっていた連中は、すっかり入り乱れて大混乱だ。立ち上がった卓哉は中を連れてその混乱に混じり、そして白たちの元に向かう。渡部の隣で香子が怖い顔をしていたが、さすがに食ってかかるような真似はしなかった。

「見知った奴同士が殴り合うのなんざ、あんまり見るもんじゃねぇな。はらはらして落ち着かねぇよ」

 白はそう言いつつ、中に黒いパーカーを手渡す。先ほど投げ捨てた物をきちんと回収していたようだ。それをもそもそと羽織り、彼女は彼らが見知った狂犬らしい姿に立ち戻った。額から首筋に滴るそれは、赤椿を思わせるほどにどす黒く澄んでいる。ふと卓哉に向き直ると「殴ったところ無事か?」と小首を傾げた。折れた、と彼はため息をつく。わき腹をさする卓哉に、渡部は喉を鳴らして笑う。それを見て發も控えめに笑った。

「足とわき腹の金子さんと比べたらまだまだ軽傷だよ、よかったね卓哉」

「よくない。それより、お前……」

 卓哉が中に何か問いかけようとした刹那、彼女が突如卓哉を白の方に押しやった。あまりに唐突だったため、彼はもろに白に衝突してしまう。その勢いで、また彼女のパーカーが脱げ落ちる。尻餅をついた白が文句を言い掛けたが、それは不自然にぷっつりと途切れた。

 彼女の腕から脈々とつたい落ちる、鮮烈で紛いなき緋。

 右腕に深々と突き刺さったその鋭利な刃物を、狂犬は忌々しげに引き抜いた。肉と刃物の間で体液が蠢く音が聞こえ、發と渡部たちの顔が一気に青ざめる。深く開いた傷口からは目に新しい鮮血が迸っていた。だが当の本人は投げつけられた短い刃物を地面に叩きつけ、烏合の衆と化している連中に声を張り上げる。

「私に喧嘩を売ろうたぁ、いい度胸じゃねぇか。不満な奴は全員掛かって来やがれ!」

 卓哉たちが止める間もなく、口火を切った本人はごった煮の乱戦に突入してしまった。傷を負った右腕も、卓哉に負わされたダメージも、さらには対処しきれなかった攻撃による痛みも気にしない。豪快な蹴りによって相手をなぎ倒し、ひたすら視界に入る敵対者を潰し続ける。手負いの狂犬は、まったき蛮勇の悪鬼と呼ぶにふさわしかった。止めに行かなくていいのかと渡部が言うと、發が未だ青白い顔を彼女の方に向けた。

「あぁなった以上、止められる気がしないよ。どっちかが潰れるのを待つしかない」

「残念だが、そうも言ってらんねぇかもな」

 白が前方の乱闘を眺めつつ、不機嫌そうに目を細める。香子が「どうかしたん?」と彼を見上げた。白が見遣った方には、ぼんやりとほの赤い瞬きが見える。この場において、警告を意味する人工的な明かりの正体を知らない者はいない。

「まぁあんだけ騒ぎゃあ、そのうちおいでになるとは思ったけどよ。どうする、卓哉」

「中を回収する、白は退路を頼む」

 發に中の落とした上着を預けると、卓哉はごった返している人の群に潜り込んだ。すでに何人かは狂犬にやられ、足下に無惨にも転がっている。狂犬を狙っている連中以外のほとんどは、遠巻きに見ているか野次を飛ばしているだけだった。だがその均衡はすでに崩れている。この場があまりに混沌としているせいだろう、まったく関係ない人間同士での殴り合いもちらほら起きていた。この混乱具合なら、うまく彼女だけを連れ帰ることができるだろう。殴り掛かってきた男に小ぶりの酒瓶を投げつける狂犬を見つけ、卓哉は腕を掴む。彼女は腕の怪我のほかに、余計な怪我をいくつか増やしたらしい。一瞬、人を射抜かんばかりのきつい眼差しが卓哉を突き刺したが、それはすぐに霧散した。

「卓……「来い、捕まるぞ」」

 混沌とした人混みを抜け、彼は雪についた新しい足跡を追いかける。工場の裏側まで来ると、ちょうど發が裏門を施錠していた南京錠をこじ開けたところだった。發が手にしている黒いヘアピンは渡部の物だろう。大勢の野次馬を放置して、彼らは滑り込むように路地裏へ逃げ出した。


「もう当分大人しくしてるべきだな、あいつら根こそぎしょっぴかれてんぞ」

「あいつら馬鹿なん? なんであんないっぱい捕まってんの」

 テレビに映る元・人工食用豚肉工場を眺めつつ、白はスナック菓子を漁っている。そこに香子も並んで菓子を摘んでいた。テレビ画面には「廃工場に大勢の不良、首謀者は誰か」というゴシック体の文字がでかでかと表示されている。まるで見当違いのことを述べる神妙な顔つきのアナウンサーは、ひと呼吸置くと締めの言葉を最後に頭を下げた。

 時刻は間もなく八時ちょうどになります。

「まぁしょうがないさ、引き際を間違えたのはあいつらの方だからね。それより、あの子はどこ行ったんだい?」

 渡部が探しているのは他ならぬ狂犬だった。明朝に白たちの家に転がり込んでから、姿が見えない。ソファに埋まっているのは卓哉だし、と渡部が振り返った。四つあるソファのうち、赤いソファには肘掛けに頭を擡げて眠ってしまった卓哉が埋まっている。だいぶ前に掛けた毛布はずり落ちてきたらしい。毛布を引っ張ってもとに戻しながら、發は渡部の疑問に答えた。

 中なら、部屋で傷を縫ってると思うよ。多分、僕が傷口に指を突っ込むんじゃないかって警戒してるんだ。

 渡部の顔からさっと血の気が引いたのを見て、發は心配しなくても大丈夫だと返す。ふと、物音がした方を二人が振り返る。リビングのドアから顔を覗かせたのは、件の狂犬だ。手には裁縫針と携帯用の裁縫セットを持っている。綺麗に縫合された、しかしまだ薄く血が付着している右腕の傷を目にし、渡部はほっと息をつく。確かに、發の言う通りだった。医者が縫ったのと遜色なさそうな処置後からして、傷はちゃんと塞がるだろう。

「白、ライターもってねぇ? ガスが切れたんだが」

 中の問いに、白は首を振った。彼もちょうどライターを切らしているらしい。代わりに渡部がライターを差し出すと、彼女はライターの火で裁縫針をさっと炙った。あちあち、と針を振る中を見て、渡部は思わず笑ってしまう。きょとんとした顔で見つめられ、渡部は「あぁ、悪い」と言葉を紡ぐ。

「あんたがあの狂犬だって思うと、何だか可愛い気がしてね。最初に会ったときとはだいぶ印象が変わったよ」

 まさか發たちの妹だとは思いもしなかったけどさ、と發と中の顔を見比べる。表情のつき方に違いはあれど、根本的な顔のパーツは性別の垣根を越えるほどに似通っている。また見分けがつかなくなるんじゃないの?と發がからかうと、今回は髪の長さで分かるとあしらわれた。針を仕舞った中は、ソファで眠っている卓哉の方に足を進める。そうして、短い黒髪をわしゃわしゃし始めた。不機嫌そうなうめき声とともに、卓哉は毛布に潜っていく。さらに中が毛布の上からわしゃわしゃすると、さすがに目が覚めたのか毛布の塊が蠢いた。顔を出した卓哉はぼさぼさの髪に手櫛をかけつつ、まだ半ば眠っているような双眼で中を見上げる。濃い褐色の瞳は微睡みに揺れていた。

 あんた、私に聞くことがあったんだろ。教えてくれよ。

 その一言で、彼は眠気を覚ましたらしかった。隣の白いソファに毛布を丸めると、いつかと同じ問いを口にする。それはもともと渡部に頼まれたものであり、いつしか卓哉自身も気になっていた。

 ――、あんたは私と同じ臭いがする。

 ぶつかり合うことに喜びを見出し、流れる血潮にたがいなき命の脈動を感じる。暴力を通して伝わる相手の意志も、相手の肉体を傷つける自分の意志も、殴り合った後の怪我の痛みも、そのすべてが卓哉には必要だった。明らかにいびつな己の感情を見透かされたような、それでいて同類だと笑われた瞬間の安堵。歪んだ真珠baroqueと表現するには汚れ過ぎた思い。彼女は、彼の仲間かもしれなかった。

 卓哉の問いかけに、中は柔らかい眼差しを向ける。白と一緒にテレビを見ていた香子が、強ばった表情でそちらに注目した。

「生きていると分かる瞬間が好きなんだ。誰かと殴り合うときは、その間だけ確かに生きているような気がするから」

 きっと、それも気のせいなんだろうけど。彼女は伏し目でそっと笑うと、無性に血が見たくなるのだと告げる。溢れる液体のような赤ではなく、深く滲むような脂ぎった緋が見たい、と。彼女は、生への実感を求める乾いた衝動を愛している。その貪欲で腐った自己愛を、卓哉は嫌いになれない気がした。あらがえない衝動の蠢きを、彼もまたよく知っている。

「それで、一体私をどうするつもりだ? 盟約上、私の飼い主はお前だ、卓哉。まぁ、よっぽど嫌な命令だったら噛みつくかもしれんが」

 くっくっ、と喉を慣らした中を前に、卓哉は静かに思考を重ねる。渡部との約束を守れば、恐らくこの危険因子はもうこの街に居ることができないだろう。己の欲求が赴くまま、無差別な争いばかり起こす存在は排除しなければならない。辺り一面敵まみれの彼女は、問題の火薬そのものといってよかった。だが卓哉にとって、根本で親しみすら感じてしまいそうな彼女を手放すことは、とても心寂しく思える。しばらく黙した後、彼は口を開いた。

 その相手は、俺では駄目か。

 予期せぬ言葉に、彼女は目を丸くする。傍観していた渡部や中の兄弟たち、香子も不思議そうに二人を眺めた。あんたなら飽きずに愉しめそうだと答えた中に、卓哉も穏やかに笑った。

「俺がときどき遊んでやる。だからもう関係ない連中を引っかけるな、渡部もそれで問題ないだろ」

「卓哉にしては珍しいじゃないか、狂犬を飼い慣らそうってのかい?」

 渡部が言えば、いまさら一匹増えたところで大したことはない。と彼は双子の方を、次いで狂犬を見遣った。それぞれが三面鏡に写った一人のようによく似ていて、けれども内面に関しては面倒くさいところだけが……血で血を拭う粗暴な行為を愛しているところだけが……共通している。この三元兄弟妹サンゲンきょうだいとともに過ごすことが、卓哉は決して嫌ではなかった。わんわん、とふざけて耳に噛みついてきた中を、彼は引き剥がそうとする。だが鈍い痛みを訴える脇腹が邪魔をして、どうにも上手く力が入らない。結局、白が首根っこを掴んでひっぺがすまで、彼女は卓哉の耳に齧りついていた。

「あんまり乱暴すると捨てられるぞ、この駄犬」

「まぁ、白が言えたことじゃないけどね」

 うっせぇよ、と唸る白を中がからかい、兄弟妹の言い争いが始まる。だがその様子は端から見ると誰が何を言っているのかだんだん分からなくなり、卓哉はともかく渡部たちには不思議な現象だった。

「ちょっ、やめやめ! ウチ、だんだんあんたらが全員同じ人に見えてきてかなわんわ」

 そうして頭を抱えた香子を見て、三人は愉快そうに笑った。


 季節は過ぎ、鉱蓮の街も雪解けを迎えようとしていた。昨年の聖夜に卓哉たちが起こした騒ぎのせいもあってか、例の廃工場は夏に解体作業が始まるらしい。卓哉の折れたわき腹は晩冬のころに治癒したのだが、中との新たな手合わせのせいで今度は腕にひびが入っていた。もう少し飼い主を大事にしてさしあげろ、と白が言えば、彼女は難しいと唸りつつも善処すると答える。中も中で、卓哉のことを気に入っているようだった。卓哉の方はどうかといえば、狂犬を熨したことで以前よりも名が知れ渡ってしまったらしい。それについて多少煙たそうにしていたが、彼の思いは相変わらず何処とも知れぬ虚空に向いていることの方が多いようだ。

 卓哉。

 不意に名を呼ばれ、彼は薄紅色の空から視線を降ろす。白は彼に缶コーヒーを手渡すとその隣、錆びついた自動販売機脇のベンチに腰を下ろした。この閉じっぱなしのシャッター前は、大抵の場合彼らの集合地だ。卓哉がほの赤く燃えるたばこの先を見ていることに気づくと、白は彼に煙を吐き掛ける。視界を煤けさせる煙を追い払う彼の眉間に深い皺が寄り、それを白は愉快そうに眺めた。卓哉の眼差しはいつも虚空を眺めている。それがときにこちらへ向いてくれるのを、白は少しだけ心待ちにしていた。その濃褐色の双眼が何を見ているのか、白は知らない。發とともに卓哉と連みだしてから、ずっと分からないままになっている虚空。それをいつか理解できたらと思う一方で、いつまでも知らないままでいたいような気もしていた。

「中は、大人しくしているか」

 彼は自分より少しだけ背が高い白にそう尋ねる。その問いを白が肯定すると、卓哉はゆっくりと瞼を閉じた。不服そうな顔に疑問を抱いた白が様子を見守る。夕刊を積み込んだバイクが、緩やかに通りを過ぎていった。中がどうかしたのか。とタバコの煙が吐き出されると、意外な言葉が彼の口をついて出た。

「確かな証拠は何もないが、不良狩りに刺された奴が何人かいるらしい。一部の連中は中のことを疑っている」

「卓哉も、中の仕業だと思ってんのか?」

 若干、白の声が低くなったのを感じつつ卓哉はそれを否定する。模倣犯かまったくの別件だろうと、彼は息を吐いた。一度、情報を集めてみる必要がある。飲み終わった缶コーヒーをゴミ箱に投げ込むと、卓哉は白を見上げた。深い暗がりの中に一抹の朽ちた残骸を見たような気がして、白は思わず卓哉の横顔を見つめる。だが一瞬見えたような気がしたその何かは、次の瞬間にはもう何処にもなかった。


 蕭々と降り注ぐ雨は、鈍色の地面に溜まって澱んでいく。コンクリートに染み込むことのない水滴の束は、行き場をなくして留まっていた。狭い路地裏に忽然と存在する一本の街灯が雨粒を照らし出し、同時に周りの暗闇を濃くしている。人工的な地面とよく似た薄暗い曇天を見上げ、卓哉は目を瞬かせた。ずぶ濡れになった短い髪が、頬にぺったりと貼りついている。彼は傘を持っていないらしい。濡れて皮膚に纏わりついてくる服の裾を、鬱陶しげに引き剥がしていた。濃褐色の双眼は、別段何を見るでもなくぼんやりと中空を彷徨い、そしていつものように地へ落ちる。と、不意に沈黙した場に機械的な音が響いた。

『お、珍しいな。あんたがすぐ通話に出るとは』

「……中か、何の用だ」

『別に用ってわけでもないが、保存しておいたJACK DANIEL’Sをつい開けちまったんだ。飲みに来ないか?』

 端末越しに聞こえる声の明るさに、卓哉はふっと笑みを零す。本当にあの女は酒好きだ。彼は「分かった」と返事をしかけたが、そこで不意に言葉を止める。妙な沈黙を不審に思ったのか、端末越しに中の声がした。

『どうした、何か別用でも思い出したか?』

 彼は曖昧な返事をしつつ、服の裾を握る。握った生地からは、雨粒の音に混じってぼたぼたと水が滴り落ちた。この状況をどう説明しようかと考えるが、彼自身どうしてこんなことになっているのかよく分からなかった。卓哉の意識は曖昧に霞み、混濁している。再度聞こえてくる彼女の声に、卓哉はため息交じりに言葉を吐く。だが、その言葉が機械越しの中に届いたかどうかは定かではない。浅い水溜まりに、卓哉の端末が落ちていた。

 しっかりしろよ、卓哉。あんたこんなところで何してたんだ?

 ずぶ濡れになって転がっていた卓哉を中が発見したのは、先ほどの通話からおよそ一八分後だった。晩冬の雨で体温が下がり過ぎたのだろう、抱き起された卓哉はぼんやりと彼女を見上げている。中の傘に、大粒の雨が弾ける音がしていた。とりあえず飲め、と手渡されたそれを見て、彼は小さく首をかしげる。それは中がいつも持っている二〇〇mlの酒瓶だった。

「いいから飲め。これ以上冷えたら、あんた死体になるぞ」

 飲めば多少は温まるだろ。と言う彼女に半ば押しつけられるようにして、卓哉はウィスキーを口にする。飲み干した直後、じんわりと食道辺りが温まるのを感じて彼は瓶を返した。すまない、と覇気のない声で呟いた卓哉を、中は軽々と引っ張り起こす。水溜りの端末を回収し、彼女は冷たくなった卓哉の腕を肩に引っ掛けた。

 いいから来いよ、卓哉が飲む前に酒がなくなっちまう。

 そう彼女が笑うと、彼もつられて少し笑った。


「行って帰ってくる間に随分と飲みやがったな。まぁ、半分あればいい方かもしれないが」

 帰宅した中は、中身が半分になった一L瓶を前にやれやれと發の方を見た。ごめんよ、でも大半は白のせいだけど。そう言いつつ彼は、向かいの白いソファに埋まっている片割れを指し示す。件の白は酒がまわり、完全に寝落ちていた。

 それより、卓哉は?

 リビングに入ってきたのが中一人だったからか、發は不思議そうに首を傾げる。ずぶ濡れだったからシャワー室に置いてきたと彼女が言えば、彼は「じゃあ、暖かいのがいいね」と薬缶に水を入れ始めた。發曰く、ウィスキーの珈琲割りもなかなか良いものらしい。マグカップにインスタントの粉を入れ、緑色のソファに腰を下ろす。彼は少し落ち着かない様子で、そわそわと視線を漂わせていた。卓哉が心配なのかと中が笑って問えば、發は視線を落としてしまう。その眼差しに宿る柔らかな影は、静かに揺らいでいた。

「卓哉は、ときどきすごく寂しそうな顔をするときがあるから」

 今もそんな顔をしているような気がしてちょっと心配になるんだと、そう息をつく。そうして、氷が溶けてすっかり薄くなったJACK DANIEL’Sを飲み干した。

「別に特別なことでもないだろう、そういうのは。私たちがそうであるように、卓哉にも卓哉だけにしか抱えられない何かがあるんだろう。皆、誰しも臑傷の一つや二つあるだろうに」

 氷を大量に入れたグラスに、彼女は二人の兄が飲み残した洋酒を注ぐ。生ぬるい液体に氷が溶け、器の中で崩れる音がした。それを豪快に飲み干していく妹を眺めつつ、發は沸騰した薬缶の湯をポットに移し始める。いっとき、台所に湯気が満ちた。ため息のようにふっと消えていく水蒸気。空気中に逃げていったそれは、いつまた水に戻るのだろうか。

 卓哉は……古傷があっても一緒にいてくれるかな。

 そうこぼした兄の声に、中は黙したまま二杯目を注いだ。物憂げに目を伏せた發は、リビングの蝶番の音に顔を上げる。ほんのりと熱気を連れて入ってきた卓哉は、相変わらずぼんやりとした眼差しを帯びていた。

「服がだぼだぼだな。まぁ白のじゃ合わねぇだろうとは思ってたけど。でも發のだとちょっと小さいんだよな、あんたには」

「適当に座っててよ、卓哉。珈琲を入れるから」

 よく似た兄妹の声に短い相づちを打ち、彼は黒いソファに腰を下ろす。と、向かいで爆睡している三元兄弟妹の一番上に気づき、何を思ったかつむじをつついた。だがそんなことで起きる白ではない。テーブルに転がった頭はぴくりとも動かなかった。發が持ってきた珈琲に、中が横から酒を投入する。アルコールが気化する柔らかな匂いが、周囲にほんのりと漂った。そういえば、あんなところで何してたんだ卓哉は。ふと向かいの彼女が尋ねると、彼はゆっくりと瞼を閉じた。

 捜しものを、していた。

 ぽつり、とこぼされた言葉に、發は興味を示したのかじっと彼の方を見つめる。だが卓哉はそのことについて、それ以上何も言わなかった。


「あぁ? 卓哉じゃねぇか。どうした、そんなぞろぞろ引き連れてよ。見舞いか?」

 卓哉が白たちとともに会いに行ったのは、柳 道風ヤナギ ミチカゼという男だった。一九〇センチもあろうかという長身に、ラグビー選手のような肉厚の体格がたい。厳つい風体をした柳の傍には、似た様な雰囲気の男が二人座っている。彼らは駅からほど近いゲームセンターの廃墟を中心に、ここ一帯を縄張りとする不良の一派だった。埃を吸っていそうな褪せた丸椅子や、今やすっかり時代遅れのアーケードゲーム台が放置され、世間から切り離された空間。この薄暗い魔窟で、一体彼らが何をしているのかは卓哉も知らない。彼が柳に用件を話そうとしたそのとき、脇に座っていた男の一人が急に立ち上がった。

「てめぇ、そこの後ろの奴……ッ! どの面下げてここに来やがった!」

 その男はよく似た二人の男の後ろ、悪名高い兄弟妹の末妹まつまいに食って掛かった。豪快に振りかぶった右の拳を、中は霞むような動きでかわして見せる。刹那、床に沈殿した埃がゆっくりと宙に舞い上がった。

「兄貴を刺しておきながらのこのこと面見せやがっ「止めねぇか萩猪ハギジシ! そいつじゃねぇ」」

 萩猪、と呼ばれたその男は、柳の声に反応して動きを止める。彼女は状況が掴めず首を傾げ、殴り掛かってきた萩猪と奥の柳を交互に見つめた。「やはり中じゃなかったか」と、卓哉は何かを確認して息をつく。そうして、軽く手招きし彼女を呼び寄せた。中は萩猪を警戒しつつそろそろと彼の側まで戻り、白と發の間に挟まる。あの人知り合い?お前また何かやらかしたのか?と左右から聞かれた彼女は不機嫌そうに首を横に振った。未だ殴り掛かってきた男を警戒する中に気づき、柳は声をかける。その声に敵意はなかった。

「そこの真ん中の、初対面だってのにすまねぇな。萩猪はどうも早合点が得意で仕方ねぇんだ。狂犬と名を馳せたアンタの悪い噂を、証拠もねぇうちから真に受けちまってんだろう。どうか許してくんな」

 深々と頭を下げた柳に、中は慌てて「構わないから頭を上げてくれ」と言った。次いで謝ってくる萩猪を同じようにあしらいつつ、彼女はふと卓哉のほうを向いた。

「もしかしなくても、あんたこれの為に私を連れてきたろ」

 あぁ。と短い返事をした卓哉に、中はやれやれと首を振った。左右の兄たちは何が面白いのか、妹を見た後顔を見合わせて笑う。どうやら卓哉は、彼女に掛かった噂の真偽を……狂犬が変わらず不良を狩っているのか否かを……確かめようとしていたらしかった。今回の件について、彼女に罪はない。卓哉は彼女の頭を軽くかき乱すと、柳に向かって言葉を紡ぐ。低く落ち着いた声が、廃れた空間に凛と通った。

「お前を刺したのが中じゃないなら、ほかに心当たりはあるか」

「腹をぶっ刺されそうな心当たりは死ぬほどあるが、今回はそのどれにも当てはまらねぇな。まったく知らねぇ、けったいな面構えだった」

 けったいな面構え、という特徴について卓哉が詳しく問う。柳が口にしたのは次のようなことだった。

 濃い紫の仮面をした、細身の若い男。

 しかも、その奇妙な紫の仮面についてはここ最近の話だけではないという。そのことについて、柳は傍にいるもう一人の男に「こういうことは情報屋のお前が断然詳しいだろ」と話を振った。その男は名を三桐ミツギリといい、少し歪んだ黒縁眼鏡を掛けている。彼は興味深そうに卓哉の後ろの三人を眺め、ふっと息をついた。

「貴方の後ろにいるお三方は、実に稀に見るそっくりさですね。普通、異性の兄妹は同性の兄弟ほどは似ないはずですが。お三方なら認証コードを読み込まない限り、初見では区別がつきそうにない……」

「うっせぇ、別に俺たちがクリソツだろうが違うまいがどうでもいいだろ。本題に入れ、このガチムチ眼鏡」」

 速攻で言い返した白を發が窘めるが、彼は何が気に食わないのかそっぽを向く。三桐は眼鏡をくいっと押し上げ、軽く咳ばらいをした。

「これはまた心外な罵倒ですが、まぁいいでしょう。柳さんの言う仮面の不審者は、実のところもう何年も前から数件ほど死傷被害が出ている案件です。目撃情報が仮面以外一致しないことから考えて、恐らくは複数犯か模倣犯の類かと思いますね。ただ、死傷者にこれといった共通点はありません」

 死傷被害、という言葉に卓哉は眉をしかめた。死人が出ているとなると、鉱蓮市内での派閥争いや昨今の狂犬騒ぎとは程度が著しく異なってくる。鼠同士のいざこざとは話が違う。関わるとなるとかなりのリスクを伴いかねない話だった。沈黙した卓哉に、柳が言葉を投げかける。この事件の何が気になるのか、と。埃を被った椅子の生地を触りつつ、卓哉は言葉を紡ぐ。その内容に中が目を見開いた。

 中に疑いが掛かっている以上、このままにしておくわけにはいかない。

「それは卓哉には関係ない。私の問題だろ」

 穏やかでない調子で息巻く狂犬を振り返り、彼は静かに彼女を見据える。対面した相手に冷たさを覚えさせるその双眼は、相変わらず感情の色を見せない。何も言わないまま、卓哉は視線を柳に移した。

「もし、この件について何か分かったら教えてほしい」

「あぁ、心得た。まぁ期待せんで適当に待っててくれや」

 快く承諾してくれた柳に、彼は短い返事を返す。萩猪と三桐に見送られ、卓哉たちは駅からほど近い廃墟を後にした。


 街灯が切れた路地の坂道に、彼は腰を下ろしていた。それは商品として加工されたその残り、食物クローンの骨を捨てる廃棄場へと続く坂だ。車一台が通れるだけの不親切なその道を利用するのは、恐らく工場の職員ぐらいなものだろう。首筋に伝う汗を拭い、彼はじんわりと温度を保ったアスファルトに手をつく。見上げた曇天は触れそうなほどに近く、しかし実際には何処までも向こうにあった。まだ辺りには夜の存在感が色濃く漂っているが、僅かな明かりが遠く雲の先に生まれつつある。初春の夜明けは早い。

「腕も治っていないうちからやんちゃし過ぎだろ、折れても知らねぇぞ」

 低く押さえられたその声に、彼ははっとして振り返る。それが見慣れた友人の一人であることを認識するのに、そう時間は掛からなかった。彼のすぐ隣に腰を下ろしたその人物は、ひびが入ったまま完治していない彼の腕を掴む。虫の羽音に混じって、骨が軋むような音が聞こえた気がした。

「痛いか、卓哉」

 外部からの圧力をそのままに、白が静かに問いを口にする。ぐっ、と眉間に深い皺を寄せた彼は何も言わなかった。屈服することを良しとしないのか、卓哉は静かな眼差しに苦痛の色を写したまま、じっと沈黙する。白が何を言わんとしているのか、彼は知っていた。だが知っていたところで、それに従うかといえばまた別の話になる。白が分からせようとしていることに対し、背を向ける彼の頑なさは何処から来るのであろう。根負けしたのは、結局いつものように白の方だった。彼の大きな手が離れると同時に、卓哉が腕を庇うようにして小さくうずくまる。単に黙っていただけで痛覚の方はちゃんと機能していたのだなと、白は今更ながらに彼という存在を認識する。うずくまった背中が小刻みに震えたことに気づき、ぼんやりとした白の認識は確実なものとなった。

「悪りぃ、あんまり強情だからやりすぎた。大丈夫か?」

 別に。という短い返事に、思わず白は笑ってしまう。この頑なで勝手気ままな友のことを、白は決して嫌いではなかった。遠く閉ざされた虚空も、暗く黙した眼差しも、頑なな態度も、仕方がない奴だと思いながら咎める気にはなれない。卓哉の傍に寄ると、汗が蒸発する途中の臭いがした。白が首筋に顔を埋めると、彼はくすぐったげに首を竦める。白の毛先が刺さってくるのだ。首筋に擦れた鼻先は、卓哉に犬の鼻を思い出させた。彼は多少身じろぎはするものの、白を追い払う気はないらしい。いつだったか發が傷口に触れたがったときと同じように、ただ大人しく彼の趣向を満足させるつもりらしい。

 お前らは、一体俺の何が気に入って懐いている。

 ふと、紡ぎ出された卓哉の声。蒸し暑いアスファルトの上で、それは蜃気楼のように波打った。

「何って、お前のこういうところに決まってんだろ」

 物好きだな。とぼやいた卓哉に「どっちがだよ」と白が笑う。首筋にそよいだ生温い呼気に、卓哉が首を縮めた。緩い風が二人の後ろから吹き降りて、路肩に茂った雑草を鳴らして通り過ぎていく。今なら、聞けるような気がした。

「お前はときどき、何かを探してるような目をするな。それですぐに落胆したような顔になる」

 その眼差しの先に、卓哉があってほしいものは何なのか。發とともに隣にいながら、ずっと分からずにいた。ゆっくりと目を閉じた卓哉を、そっと覗き込む。ぼそり、と吐き出された虚空の正体を白は耳にした。

 夜の街にいれば、親父に……警察サツの旦那だった親父に会えるような気がして、それでずっと探している。

 もう、とっくの昔に死んでるけどな。綻びを愛おしむようにすっと微笑んだ卓哉の顔を、白は直視できなかった。熟しすぎた、発酵したような甘い匂い。熟れ過ぎて腐り落ちるよりほかにないような、そんな暖かい感情を卓哉は有していた。固く密閉された冷たい箱の奥で、深く澱んだ軟らかな心情は腐敗している。それを、本人も自覚しているようだった。落ちた果実が腐っていると知りながら、それでもまだどこかにそれが実っているのではと思わずにはいられない。そんな自分を、彼はどうにもできずにいる。そしてそれを白がどうにかできるわけでもなかった。伏し目がちに坂の下を眺める眼差しは、使い古した木炭の色によく似ている。緩く吹いた風に混じって、蒸れた汗の臭いがした。

「お前、疲れてんだろ。こんな時間に徘徊する癖なんかつけんじゃねぇよ」

 それはお前も同じだろうと言い返せば、俺は完全に夜型の生活だからいいんだと白は答える。白に半ば拉致されるような形で、卓哉は彼の家に向かっていた。昼間のバイトの時間まで寝ていけと首根っこを掴まれたのだ。まだシャッターが閉まっている商店街を通ったそのとき、隙間の細道から何かが飛び出した。二人が咄嗟によけたそれは道の真ん中ほどで崩れ落ちる。赤く汚れた短髪を、彼らはよく知っていた。

「發ッ!?」

 二人を視界に捉えた發は、安堵した様子で彼らを見上げた。言葉を紡ごうとした唇からは、はたはたと血が滴り落ちる。声を聞き取ろうと傍にしゃがみ込んだ卓哉の耳に、擦れた發の声が届いた。

 白と一緒に、逃げて。

 その言葉を最後に、彼はすっと意識を手放した。体から意識が抜け、そのまま動かなくなる。卓哉は思わず發の両肩を強く掴んだが、反応はなかった。腹部に傷を負っているらしく、通りに敷き詰められたタイルの溝に赤黒い筋が走っている。卓哉は酷く狼狽する白を落ち着かせ、傷だらけの發を彼に引き渡した。

「大丈夫だ、まだ脈はある。肺を潰されたような怪我もない。お前は發を連れて病院に向かえ」

 卓哉は、と白が不安げに尋ねたそのとき、眼前の細道から何者かが姿を現した。卓哉は素早くそれに反応して身構える。腕を負傷しているらしいその不審な男は、不気味な濃い紫の面をしていた。

 ――、濃い紫の仮面をした、細身の若い男。

 柳が言っていた男に、その特徴は当てはまる。その男は卓哉たちを視界に捉えたのか、不意に言葉を発した。

「おや、クローンの残り二体……いや、手前のお前は違う顔だな。まぁいい、そこの二人を大人しく渡してもらおうか」

 どこに目を合わせればいいのか分からない仮面の男が、卓哉の後ろにいる白を見据える。男は手に折り畳み式のナイフを握っていた。折り畳みといえど、その刃渡りは少なくとも一〇センチ以上はありそうだ。警戒した様子の白を後ろに庇い、卓哉が一歩相手に近づいた。

「何のことか分からないが、断る」

 刹那、卓哉は仮面の男に強烈なアッパーを食らわせた。男が落としたナイフを素早く拾い上げ、相手の脛に力づくで突き立てる。周囲の人間を起こしてしまいそうな叫び声が、まだ大半が眠りに落ちている商店街に響いた。足を押さえて呻くその男が顔を上げるより早く、卓哉と白は商店街を通り抜ける。追いつかれることはまずないだろうが、増援を呼ばれればまず勝ち目はない。何より、動けない發を連れて戦うことは避けたかった。

 緊急外来に駆け込むと、まだ新米らしい若い看護師と遭遇した。卓哉たちとそう歳も変わらない男の看護師は、白の懐にいる血みどろの塊に一瞬怖気づく。突然の患者に慌てた彼は、すぐさま熟練らしい年配の看護師を呼んでくれた。彼らに發を任せたところで、ようやく二人は息をつく。病院の通路はひっそりとしており、建物全体にうっすらと消毒用アルコールのにおいが染みついている。白は先ほどよりは落ち着いた様子で、すんすんと病院内のにおいを嗅いでいた。手術室付近のくたびれたソファに腰を下ろすと、卓哉はふと先ほどの仮面の男を思い出す。あの男は、白と發のことを「クローン」と称していた。そのことについて卓哉は今すぐ白に聞いてみたかったのだが、發の無事が分からない今、彼にそのことを問う気にはなれなかった。

 それなら、中は?

 不意に彼女の存在を思い出し、卓哉は電源を切りっぱなしの端末を起動させる。仮面の男の言葉が何を指しているのか、どういうことなのかはまったく分からない。だが、白と發が標的とされるのであれば、あの末妹も同様に狙われているような気がしてならなかった。中の連絡先を指定し、呼び出しを掛ける。案外、その呼び出しはすぐに繋がった。

『なんだ、どうかしたのか卓哉。まだ夜明け前だぞ』

 普段通りの声に、卓哉はほっと息をつく。先程の出来事を手短に説明すると、中は意外なことを口にした。

『あぁ、その紫のならさっき片づけたけど。發は大丈夫そうか?』

「……片づけた?」

『おぅ、仕事終わりで帰ってる途中に突っかかってきやがったから、ぼっこぼこにして追い返してやったぞ』

 さくさくと端末の向こうで笑う彼女の声に、彼は酷く脱力する。自分で大人しくさせたとはいえ、彼女は相変わらずの狂犬だった。血塗れてこそ麗しい、薄汚れた廃工の悪鬼。そのことに安心しつつ、こっちに来るようにと伝えて通話を終える。ふと、卓哉に白の視線が刺さった。

「今の、中か?」

「あぁ、發のことを知らせた。今からこっちに来る」

 実際、中はそれから三〇分もしないうちに病院に到着した。發はまだ処置の最中で戻ってこない。小さなビニール袋を持った彼女は普段通り元気そうに見える。だが、実際は右の太ももに大きな刺し傷を作っていた。怪我したのか。と卓哉が尋ねると、完全ノーダメージで倒したとは言ってねぇだろ、と中は少し不機嫌そうに唸る。卓哉の隣に腰を下ろすと、彼女は持ってきたビニール袋から小さなコンパクトのようなものを取り出した。どこかで見たことがある、ちゃちな作り。表蓋に印字された「Sewing kit」の白い文字に、卓哉がはっとする。

「お前、それ……「ん? あぁ、こっちに来る途中のコンビニで買ってきたんだ。ほら、これも」」

 次いで袋から取り出された鳥の絵の二〇〇ml瓶を目にし、彼はなんと声をかけていいか分らなくなったらしく閉口する。どうやら彼女、WILD TURKEYで傷口を洗うつもりらしい。ある程度の度数を持つ酒で傷口を殺菌することは、処置としては悪くない。このバーボンの度数では完全に殺菌することはできないだろうが、何もしないよりはずっと衛生的だった。そしてまた以前のように自力で傷口を縫合するつもりなのだろう。白からライターを受け取り、裁縫針を殺菌し始める中。肉に裁縫針が食い込み、肉の中を糸が抜けていく様子を直視したくないのか、白と卓哉は彼女から目を逸らした。麻酔も打たずにそんな真似をする彼女の痛覚を、卓哉は内心疑っている。多分中の痛覚は機能していないのだろうと思いつつ、終わったか?と声だけ恐々とそちらに投げかけた。それに肯定らしい返事が返ってきたため、彼は振り返る。引き締まった白い脚には、黒い糸が等間隔に通っていた。その丁寧な縫い跡を目にし、彼らは傷口が無事塞がったことにほっとする。自らの傷口を洗ったことで、瓶の中身は少し減っている。嵩が減ったウィスキーで喉を潤す彼女を、白が眺めていた。彼女が吐いた息はほのかに酒臭く、病院自体に漂う消毒アルコールのにおいと混ざりあって気化していく。彼女は發が出てくるまで、辺りにその臭いを散らかしていた。


 結論からいえば、發の負傷は生命を危ぶむようなものではなかった。輸血が済めば家に帰れるらしい。朝になり、意識を取り戻した彼に再開すると、白の表情も明るいものになる。ただ、中は發の側に備えつけられた輸血用血液パックが気になって仕方がないようだった。例え人工的な施しを受けていても、それが酸化していない血液であることが彼女の興味を惹く。そわそわと落ちつかない中を目にし、發は愉快そうだった。

「困ったね。この分だと、目を離した隙にパックの中身を飲まれるんじゃないかな」

「あながち間違ってねぇ気がするからよせ。ったく、心配掛けやがって……」

 白にそう言われ「ごめんよ」と困った表情になる發。彼はいつものように無口な卓哉の視線に、目を合わせた。

 僕がここにいるってことは、逃げなかったんだね。卓哉。

 吐き出された声色は重く、白を基調とした病室に暗い影を落とす。名を呼ばれた彼は、静かにそれを否定した。お前を連れて逃げたまでだと、置いていけるわけがなかったと。冷水のような濃い褐色の双眼が、真っ直ぐに發を捉えた。

「昨日の仮面の奴が、お前と白のことを『クローン』だと言った」

 どういうことか、話してくれないか。

 瞬間、發が悲しげに頭を垂れる。きつく握られたベッドシーツが、破れそうなほど引き攣っていた。白がそっと發の肩に手を添える。いずれ、バレちまうんじゃねぇかって覚悟はしてあったろ。なだめる様な声色に傷つけられ、掛布団にぽつぽつと小さなシミができた。

「あんたが聞いた言葉通りだ、卓哉。私たちは三元 龍鳳リュウホウという男のコピー、完全な模造品まがいものだ」

 静かに、だが強かに放たれた言葉を、彼は受け取った。日が差して明るくなった病室に、点滴の水滴が聞こえそうな沈黙が残る。彼女は不敵な眼差しで卓哉を見据えた。同じ顔をした三人が、ただ一人の言葉を待っている。俯いたままの發に向かって、彼は答えた。

 お前らが自分のことを個々の人物だと思っているなら、俺はそれでいい。

「本当に、そう思ってくれるの……? 僕らのこと、一人一人を認めてくれるの?」

「お前は会ったときから發だった、どうして今更それを変える必要がある」

 お前は、お前以外の何者でもない。

 確かに告げられた享受の言葉。穏やかに笑みを零すその男に、發は感情のままに泣きついた。その勢いで輸血パックの台が倒れそうになり、白があわやというところでそれを引き起こす。そして中に「触るんじゃねぇぞ」と念を押した。發が泣き止むのを待って、卓哉は二人を振り返る。その表情は少し険しい。

「中、お前に手を出した仮面の奴はどんな相手だった」

「んー、あんまり覚えてねぇな。なんせ暗かったし。中肉中背の男と、もう一人は多分女だったと思うが。案の定、面のせいで顔は分からなかったぞ」

 そいつらは何か言ってなかったか、と卓哉が尋ねたが、会話らしい会話はしなかったらしい。それは發も同様らしかった。發と中の話を聞きつつ、白は何故自分たちがクローンであることがバレていたのかを不思議に思っているようだ。

「認証コードが嘘っぱちだって気づかれたんじゃない? 情報が漏れるとしたらそこしかないような気がするけど」

 發が言うには、彼ら三人の認証コードは国が発行したものではないということだった。正式な出生届を行わなかった彼らが、正規のコード印字手続きを踏めるわけがない。三人のコードは本物ではなく、偽装された……いわゆるChaffコードというものだ。彼らがクローンだと発覚しないよう、Chaffコードのデータは普通に生身の女性から生まれた兄弟妹だということにしてあった。クローン技術が発達して何十年も経つが、倫理的な観点から人間のクローンは法律で禁じられている。存在を禁じられている以上、安全に日々を送るには真っ当な生まれのフリをするよりほかに方法がなかったのだろう。

「そういや、お前そろそろバイトの時間じゃねぇか?」

 白が時計を指すと、卓哉はあからさまに嫌そうな顔をして沈黙する。いつの間にか時刻は昼前になっており、確かにもう行かなければならない時間だった。何故、彼らが仮面の連中に狙われたのか。その理由がはっきりしないままなのは不安だったが、そうすぐに分かるような問題でもなさそうだった。卓哉は渋々病室を離れることに決め、まだ目尻が赤い發の頭をわしわしと撫でる。家で大人しくしてろよ。と發に告げた後、卓哉は無事な二人にこう言い残した。

 できるだけ、夜は一人にならないようにしててくれ。

 無理かな。とぼやいた中を鋭く睨みつけると、卓哉は病院の廊下を駆けていった。


 三桐からの電話と白からの電子メールが届いたのは、バイトが終わって制服を着替えている最中だった。私服のポケットに引っかかって、上手く端末が取れない。ややあって通話できた電話の内容は、仮面の不審者についての新しい情報だった。端末越しに聞こえる生真面目な声色は、一度しか会ったことがないにも関わらず三桐と分かる。

『卓哉さん、でしたね? 例の事件について、幾つか妙なことが分かったので連絡しました』

 その後続いた内容は、確かに妙なものだった。鉛が喉の奥でつっかえた様な、言い難く不快な感覚。卓哉は情報提供に礼を言いつつ、今朝起きた發の事件について手短に伝える。三桐に「萩猪とやらにも気をつけるよう言っといてくれ」と言い、彼は端末の通信を切った。白からのメールにも目を通すと、卓哉は端末の電源を切ってしまう。寝不足気味の体がふらつくのを感じ、彼は壁沿いにゆっくりと帰路を辿っていく。もう外はすっかり夜だった。彼は疲れてもいたし眠気もあったが、それよりも空腹が酷いらしい。朝飯も昼飯も、不意打ちの騒動ですっかり食いそびれていた。睡眠欲と食欲は三大欲求のうちの二つを占める。今の卓哉は食欲の方が上らしく、そのお蔭で家に帰りつくまでちゃんと起きていられた。

 卓哉がそっと玄関を開けると、玄関以外の電気は全部消えていた。彼の母はもう就寝したらしい。音を立てないようにゆっくり扉と鍵を閉め、スニーカーを脱ぎ捨てる。後ろ向きに靴を脱ぐのは、ずっと昔からの習慣だった。台所の電気をつけると、ラップで覆われたチャーハンと味噌汁の鍋が視界に入る。すっかり冷めてしまった母の思いやりに、卓哉の無愛想な眼差しが緩んだ。ただいま、と囁いた低音は、誰に届くこともなく消えていく。開けっ放しの引き戸の向こうに、居間に置かれた仏壇がちらついた。黒くどっしりとした四角い箱に、彼は忍び足で歩み寄る。父親の仏壇には、金色をした小さな台に乾いたチャーハンが盛られ、いつも通り静かなまま卓哉を待っていた。それを確認し、彼はリビングに戻ってチャーハンと味噌汁を温め直し、食べ始める。晩御飯を食べ終えるころには、卓哉はリビングの椅子でそのまま眠っていた。


「ん、卓哉か。上がりなよ」

 玄関先で遭遇した中は、卓哉をリビングの赤いソファに座らせるとコークハイを手渡した。冷えたグラスの中で濃いブラウンの炭酸がしゅわしゅわと音を立てている。次いで自分の分も作ろうとしている彼女に、卓哉は声をかけた。

 俺に会わせたい人って、誰なんだ。

 先日、白から届いた電子メールを思い出し、彼はソファから中を見上げる。博士、と短い回答を口にした彼女に、卓哉は首を捻った。

 博士って誰のことだ?

「あぁ、卓哉には言ってなかったっけか」と髪を掻き上げる中。白と發が『父親』と呼んでいる人のことだと、中は卓哉がいるソファの肘掛けに腰を下ろした。父親、博士。肉親を呼ぶには違和感を拭えない、「博士」という単語。そもそもクローンである彼らの父親ということは、複製元オリジナル……三元龍鳳のことだろうか。しかし血縁関係がまったくない育ての親という可能性もある。卓哉の脳内にあらゆる可能性がぐるぐると廻った。

「それは、お前にとっても『父親』じゃないのか?」

 ふっと吐き出された問いに中が何か言いかけたそのとき、リビングのドアが開いた。白と發、そしてその後ろに若干眠そうな發と白髪の老人が続いている。老人は卓哉を視界に捉えると、二つの目を動かし、ゆっくりと全体を観察して息をついた。

「ほぅ、お前さんが卓哉か。こやつらから話は聞いていたが、思ったよりまともそうな面だのぅ。拍子抜けしたぞ」

 卓哉はじっと、その老いた瞳を見返す。弾力を失った顔の皮膚には深い皺が刻まれ、背中も曲がっていた。弛んだ瞼の下で光る眼光の鋭さは、強い意志を湛えている。だがその顔や鼻立ちに、三元兄弟妹との共通点は見受けられない。

 違う、この人は複製元ではない。

 卓哉がその男に名を尋ねると、男はやや気にくわなそうな表情で首元を掻く。

「若そうなナリの割には、ちと不釣り合いな眼をしとるのぅ。私は門前 清和メンゼンキヨカズ、この犬っころどもの父親みたいな立場じゃえ。お前さんの後ろにいる跳ねっ返りにゃ、博士と呼ばれとる」

 跳ねっ返りと呼ばれたことが不服なのか、中は膨れっ面になった後コークハイを一気に消費した。それを目にした發が苦笑いを浮かべている。門前博士が黒いソファに腰を下ろすと、白が卓哉の隣に、發が博士の隣の緑のソファに着席した。以前は無人だった黒いソファは、この男の席だったのだ。麦茶のボトルとコップを出してきた彼女に、博士が口を開く。

「レッドアイを入れんか、この跳ねっ返り。まだトマトジュースも残っとったろ」

「やかましいぞ、博士。すぐ酔うんだから麦茶にしな」

 そう答えて卓哉がいるソファの手すりに腰かけた中を、卓哉は無言で見上げる。彼女と眼前の老人との間に走る見えない親しみを、それとなく理解したようだった。やれやれとため息や文句をこぼしつつ、博士は彼ら四人の顔を見据える。ややあって、最初の一言が口をついて出た。

「お前さんを呼んだのは、例のけったいな面構えの連中のことでじゃ。奴らについて知っとることは何じゃえ?」

 卓哉は博士に、仮面の連中が以前から鉱蓮に存在していることと、加えて三桐にもらった情報を話した。殺された被害者に共通点はないが、殺し方には奇妙な点がある、と。

「被害にあった死体は、認証コードがあった右手首の皮を剥がされているか、あるいは右腕ごと持ち去られていると聞いた」

 博士は「ふむ」と短い相づちを打つと、老いた視線をテーブルに落とす。乾いた唇が、擦れるように動いた。

「そいつらが認証コードを剥ぐのは、殺人の理由のせいじゃ。あの濃い紫の連中は、劣性遺伝子をこの世から排除しようと目論んでおる。發や中が標的にされた理由の一つはそれじゃろう」

 刹那、卓哉が強く拳を握りしめる。短く切られた五指の爪は平に食い込み、ともすれば肉に刺さってしまいそうだ。殺気立った彼の気配に、傍らの中が驚いたのか小さく肩を震わせた。隣の白も、彼の眼光の鋭さにぎょっとする。常に感情の起伏が微々たる卓哉とは思えない、彼らしくない状態だった。

「何故、それを知っている」

 わたを穿つような低い声に、向かいの發が身を縮込ませる。抑えられた業火のごとく、静かなまま勢いを増すその感情。それが何ゆえ彼の身を焦がしているのか、はかり知ることは困難だった。

「私は、かつてそこの研究者じゃった。まぁ、昔の話だがの。ちょうどお前さんより少し歳を食ったぐらいのころじゃった」

 博士の表情が思い詰めたものになり、卓哉の殺気が少し和らいだ。その先に続く言葉を感じ取ったのかもしれない。濃い紫の連中に友を奪われたのだと、博士は瞼を塞いだ。褪せた過去を、朽ちた思い出を、ゆっくりと開かれた眼差しが抱え込んでいる。大学院で生物の研究をする仲間だった、その友の名は――。

「三元 龍鳳。それが私の友の名……白、發、中の元となった男じゃ。 奴は、私の生涯の仕事仲間となるはずじゃった。だがあのとき、その可能性は潰えた」

 研究所で実験をしている最中に、博士は濃い紫の仮面をした不審者に出くわした。不審者は龍鳳を殺害した後、一緒にいた博士を脅して組織に引き入れたという。優れた遺伝子だけを後世に残し、人類をより良い未来に導く。連中の理想のために、生物学者は必要な人材だったのだろう。連れてこられた組織で遺伝子の研究をさせられる過程で、彼は三体のクローンを試験的に作り始めたという。そしてそれが人間として産まれてくるほどの状態になったとき、博士は組織から逃亡したと言った。殺気を潜めた卓哉が、こいつらがそうなのかと尋ねると、彼はゆっくりと頷いた。

「そうじゃ。連中の命令では『現時点で最も優れた遺伝子の人間を作る』という実験だったんじゃがの、嫌になってデータを偽装したんじゃけぇ。奴らが劣っていると見なして抹消した、龍鳳の遺伝子をそっくりそのまま甦らせてやった」

 殺されたのは一人なのに三人も作るなよ。と白が突っ込みを入れる。「別にえぇじゃろう、一人作るんなら二人、三人作ったって同じことじゃけぇの」と言い返す。そして中の方を見て、お前を作るのだけはちょいとばかし面倒だったと笑った。

「龍鳳はXY染色体じゃけ、白と發はまぁそっくりそのままコピペしてやればよかったんじゃが、中だけは手を加えてXを増やしたりYを引っこ抜いたりしての」

 暗い色をしていた博士の目に、懐かしさを感じる柔らかな感情が伺える。経緯はどうであれ、確かに彼は三人の父親だった。

「しかし、發と中に狙いが定まったということは、認証コードがデタラメで、私が作り逃げしたクローンだとバレたようじゃの。時間稼ぎにしかならんとは思うが、また作り変えねばならん」

 やれやれと吐き出されたため息は、沈黙の中に消えていく。ふと、黙っていた卓哉が口を開いた。連中の居場所は掴めないのかと言う彼に、發が恐々とした様子で戦うつもりなのかと問いかける。それに対しそっけなく肯定する卓哉は、普段と同じように虚空を見つめていた。そこにはまだ先ほどの憤りに似た殺気が、静かに燻ぶっている。自身を止めようとする發の言葉に、彼は首を振った。

 自分にはそうしなければならない理由がある、と。

 普段から頑なな卓哉を説得することは難しい。言葉を連ねる發を遮り、中は言葉を発した。

「理由を聴こう、卓哉。単に殴り合いたいわけではないのだろう?」

 諭すような彼女の声に、卓哉は目を伏せた。ややあって紡ぎだされた理由は、凛とその場に残る。それは、初めて聴いた彼の内情だった。

 ――、親父が急に死んだことを、俺は今まで受け入れられずにいた。

 口にされた言葉は重く、眼差しに宿る意志は切実で。痛みを享受するためか、身の内には悲しみが滲んでいる。

「右腕が紛失した親父の死体に、強い違和感があった。単なる理不尽だと諦めきれなかった。その理由が分かった今……ましてお前らを失う可能性があるなら、俺は戦わずにはいられない」

 ずっと握りしめられていた拳が、すっと解けた。手の平に落ちた花弁を、傍らの彼女がそっと握りしめる。純粋に他者を傷つけていた悪鬼が、傷ついたまま膿んだ少年の思いを掬い上げた。

 戦うなら、一緒に。

 そう言った彼女を見上げ、卓哉は双眼を瞬かせた。完全に不意を突かれたらしく、その表情は普段の彼より幾分か幼く感じられる。

 何故そんな顔をする、あんたは私の飼い主だろう。一緒に、遊んでくれるのではなかったか?

 首を傾げた悪鬼は、未だ黙している卓哉と目を合わせる。研ぎ澄まされた鋭さを内包していながら、傷心を堪え続ける愚直な思いでしか動けない。深く抉れた傷口を癒せないまま、湧き続ける膿をずっと閉じ込めていた。そんなどうしようもなく不器用な男を、彼女はそっと諭した。

「お前の目はすぐに何もないところを映そうとするな。誰もいない場所を映して、自分しかいないと思って、何処へでも一人で行こうとするのはその両目のせいだ。あまり視野を狭めるんじゃない、卓哉」

 私たちがちゃんといるだろう。と笑いながら、中は兄弟に向き直った。

「卓哉の考えは聴いた。白と發はどうするんだ?」

 逃げるのか、戦うのか、諦めるのか。中の真っ直ぐな眼差しに射竦められた發は一瞬俯いた。だがすぐに顔を上げ、向かいの白と顔を顔を見合わせた。双方が言うべき答えは、もうすでに決っている。

「決まってんだろ、俺も同じだ。分かりきったこと言わせてんじゃねぇ」

「逃げ回ったって、どうせきっと捕まっちゃうしね。それに、卓哉も一緒なら」

 よく似た顔が、そろって卓哉の方を向く。彼はくすぐったそうな表情でそっぽを向いた。様子を傍観していた博士が、ふっと息をつく。コップに残っていた麦茶が、ぐっと飲み干された。

「やれやれ、似とらんようで似とるのぅ。まったく、濃い遺伝子じゃけぇ……。連中の居場所は知らんが、調べる分は協力する。無理はするでないぞ」

 危機に瀕した者たちが手を取ることを、ある者は愚かと笑う。またある者は、それによって生ずる変化を力と呼ぶ。ともに歩いた時間は、彼らの靴底をすり減らしていく。彼らの結束は、どこへ向かうのか。空になったコークハイのグラスが、周囲に水滴を落としていた。


 朽ちたゲームセンターに、日の光がすっと差し込んでいる。相変わらずほこりっぽいその廃屋に、卓哉と中、白が踏み込んだ。積もったほこりが日の元で巻き上がり、そして再び積もっていく。奥のカウンター付近には、三つの人影があった。

「時間通りだな、お三方」

 怪我はいいのか、と中の足の方に視線を向ける柳に、中は「ちゃんと縫ったぞ」と笑う。そうか、と柳が僅かに口角を上げ、ついで卓哉の方を向く。「問題ない」と卓哉は腕を動かした。柳はカウンターに置いていたタバコを抜き取り、白に進める。彼は柳から一本貰い、火をつけた。もわっとした青白い煙が、その場に長くたなびいた。

「卓哉んとこの犬と共闘たぁ思いも寄らなかったが、まぁよろしく頼む。俺はまだ本調子じゃねぇが、なに、そこんとこは萩猪と三桐が上手くやってくれるだろうよ」

「あぁ、こちらからもよろしく頼むぜ。治りたてだってのに悪りぃな」

 白がそう言って、また靄のような息を吐く。彼が中の顔に向かって煙を吐きかけると、彼女は煙たそうにそれを振り払う。そしてそんなことをしてきた白に文句を言うのだった。

 彼らは、例の仮面の不審者を捕獲しようとしていた。連中にすでに一度狙われた柳、中、そして標的にされていることがはっきりしている白の三人を餌に、柳が普段よく使う道を通って連中をおびき出す算段だった。敵が標的を観察して犯行に挑んでいると仮定すれば、向こうは柳がよく使うルートに張っているかもしれない。卓哉と萩猪、三桐は少し離れて三人と行動をともにし、敵襲の際に加勢する。最初から大勢でいると、敵も警戒して出てこない恐れがあった。

「おや、そっくりさんが一人足りませんね」

「ん? あぁ、發は傷口が開きそうだから休みだ。さすがに、あんな生乾きの傷じゃ立ち回んのは難しいだろうと思ってな」

 中の言葉に、三桐は「貴女のそれはいいんですか……?」と不思議そうに首を傾げた。始めるぞ、と卓哉が言葉を紡ぐ。いつもの彼らしく、単調で低い響きだった。

 夕暮れとはいえまだ明るい路地を、彼らは奥へ奥へと抜けていく。長身の柳が白と中を引き連れている様子は、端から見れば舎弟か何かのように見えた。厳つい男が一人と、その後ろに同じ顔が二人。柳はいつものように駅の方へ向かいながら、後ろの白に声を掛ける。卓哉んとこの犬は、一体いつの間に三匹になったんだ?うっせぇ、俺は犬じゃねぇよ。不満気な声色の白に、中がくすくすと笑う音がした。

「なに笑ってんだ、お前のことだぞ駄犬」

 白が睨みつけると、彼女は「わんわん」とふざけた返事を返す。暗夜を掛けまわるうちにその牙は血で潤い、狂犬と呼ばれるようになった彼女は卓哉に圧し留められた。そのことを、中は別段嫌がってはいないらしい。柳にはそのことが不思議でならなかった。

「……なぁ狂犬、お前さんは自由でいたかったんじゃねぇのかい?」

 振り返った柳に、中は言葉を紡ごうとした。だが途中で何かに気づき、柳と白を押し退けて眼前の細道を睨みつける。二人が何か言うより早く、彼女はポケットから引っ張り出した酒瓶を道の陰に投げつけた。僅かに人の声らしき悲鳴がしたと同時に、地面に割れた酒瓶が転がる。僅かに残っていた琥珀色の液体が、地面を汚した。

「おし、ビンゴッ!」

「お前……何で持ってんだ、それ」

 軽く拳を握る彼女に、半ば呆れる白。中が小さな酒瓶を伴っているのは、今に始まったことではない。彼女のポケットには、特別な理由もなく常に二〇〇ml瓶が常備されているらしかった。戦う前から倒されてしまった哀れな仮面の男。その男の後ろから別の人物が姿を現した。濃い紫の仮面をした、五人の男。奇妙さとどぎつさが相まったその連中を目にし、柳は僅かに口角を上げる。どの面かは知らねぇが、こないだは世話んなったな。そう彼が唸ったのをきっかけに、連中は勝負を仕掛けてきた。一番手前の中に刃物を向けた二人を、柳が強引なラリアットで黙らせる。顔面を強打した手前の相手は、その衝撃で刃物を取り落した。だがダメージが少なかった方の相手は、素早く体制を整え後列の白に切っ先を向ける。がむしゃらな小刀の突きを避け、彼は霞むような右ストレートを打ち込んだ。相手の頬に直撃したその一撃は小気味良い音を立て、それだけで虫垂神経をぐらつかせる。落ちた刃物を回収しようとした別の男が屈みかけた刹那、顎を穿つ凶暴な蹴り上げがその男をふっ飛ばす。中の脚は鮮やかな動きで対象を潰しにかかっていた。獰猛すぎる標的を前に、後ろの二人がじりじりと距離を取ろうと後ずさる。それらを後ろから押さえたのは、柳と同じぐらい堅牢な体格の二人だった。三桐と萩猪が無傷な連中を押さえ込むと、足元の三人も沈黙してしまう。

「三人だけだと思って油断しましたね?」

 三桐の勝ち誇った声色に、しかしその仮面の男はこう返した。

「違うな。五人だけだと高を括ったのはお前らの方だ、馬鹿な餓鬼どもめ。所詮は劣性、そんな浅知恵しか浮かばないとは愚かしいな!」

 表情こそ見えずとも、明らかな嘲笑が籠った声色。その声を皮切りに、周囲の細道からぞろぞろと蠢く人影が集まりだした。三桐が驚いて拘束を緩めた隙に、その仮面の男は彼の腕をすり抜けてしまう。ほんの数秒も経たぬうちに、柳たちは濃い紫の仮面に囲まれていた。それぞれが素手喧嘩であったり武器エモノ持ちであったり、一様に同じ仮面でありながら、個々に違う存在であることが認識できる。ざっと見て、三〇人はいるだろう。思わず舌打ちをした白とは対照的に、中の眼差しは軽率な愉しみと好奇心で燃えていた。沈黙したままの稚拙な衝動は、熾火のごとく熱を孕んでいる。その眼光から読み取れる意志はたった一つ、それを分からない白ではない。明らかに自分たちが不利なこの状況で、後先考えずに突っ込んでいくのは避けたかった。だが仮に中を止めたところで、ほかに何か状況を打破できそうな考えがあるわけでもない。何もしないより、この駄犬の紐を敵陣に放つ方がマシかもしれなかった。彼女の双眼に映るその輝きに気づいた彼は、ため息交じりに周囲の同胞と不気味な集団を眺める。

 中が、戦いたがっている。もうすぐ弾けるだろう。何をしようとしてんのか知らねぇが卓哉はいねぇし、あいつがいねぇとなるともう中を止めることは無理だ。俺は、この物騒な犬を止められない。

「おいお前ら、一つ忠告しておく。 駄犬は止めらんねぇぞ」

 狂犬が最初の一歩を蹴りだしたのは、彼がその言葉を言い終わるか終らないかぐらいのときだった。萩猪が押さえていた仮面が、不意にがっくりと首を垂れる。一瞬のうちに、その男は顎を砕かれていた。

「ッ!? おい、無暗に突っ込んでんじゃねぇ! 危ねぇぞ!」

 完全に使い物にならなくなったそれを投げ捨て、萩猪が叫んだが無意味だった。狂犬は外敵に牙を剥き、相手の多さも気にせず四肢を振るう。コンバットナイフで斬りかかってきた相手をかわし、横から割り込んできた別の仮面に膝蹴りを嵌める。後ろから来た敵に反応が遅れ、狂犬の背中が浅く斬れた。弧を描いた後ろ蹴りが、後方の二人を撃破する。肢体に紅を引いた彼女の容姿が、濃い紫の中で際立って見えた。廃工での騒動と同じように、いやそのときよりも砥がれた鋭さで乱闘を開始した彼女の後姿に、柳が愉快気に笑った。

 こりゃぁ、ふてぇ女だ。卓哉が気に入るのも分からなくはねぇ。

「おぉい、狂犬。俺も混ぜろや!」

「ちょっ、柳さん!?」

 明らかに劣勢なこの状況も、負ければほぼ間違いなく殺される事実も、まだ治りたての傷も、彼は即座にかなぐり捨てた。そもそも、自分たちは屑だ。死んだって内輪以外困りゃしねぇ、そんならそれでいいじゃねぇか。刹那を楽しむことを臆して、どうして一生を楽しめようか!

 彼女の勢いに触発された柳が、同じように連中に突っ込んでいく。それによって、路地での交戦は完全な乱戦に変化した。仮面の連中はその無機質な面以外にはまったく共通点がないらしく、年齢は恰好から見て二〇そこそこから中年まで、少数だが女も混じっているように見える。中央に取り残されていた白、萩猪、三桐も、否応なしにその騒動に巻き込まれていく。中が力任せに投げ飛ばした敵が、コンクリートの壁面に直撃して嫌な音を立てた。ざり、と衣服が壁に擦れ、そのままずり落ちる。幾人かがそうして彼女や柳の餌食となっているのが見えたが、全体として押されているのは彼女たちの方だった。個人の実力よりも手持ちの道具や全体の頭数が優れている方が強いということは、基本的な戦いにおいて常に当てはまる。この戦いは連中にとって手段であり、目的ではない。暴力に愉しみを、関わり方の形を見出している裏路地の鼠とは根本的に違う。それ故に、中や柳たちが折れるのは時間の問題だった。

「最初の勢いはどうした? 口先だけの劣等種め。所詮、無鉄砲に暴れ続けることしかできないんだろう」

 脚から多量の出血をしている中を見下げ、その仮面は出刃包丁を彼女の肩口に食い込ませた。重厚な刃物が重力に従い、肉を切断する。白がはっとして中の方へ向かおうとしたが、それは別の仮面によって遮られた。肩から滴る血流は止めどなくアスファルトの凹凸に流れ、その色をより濃くしていく。生乾きの劣化した赤に重なる、鮮烈で艶やかな赤。腕を切り落とすつもりなのか、男が出刃包丁を上から押そうとする。だが肉へくい込んだ出刃包丁は途中で止まった。

「お、お前……何故、笑っている?」

 上ずった声で尋ねた仮面の男に、狂犬はぎらついた眼差しと挑戦的な笑みを持って言葉を紡ぐ。擦れた声が、狂犬の喉でかさかさと引っかかっているようだった。

 理由なんてない。ないが、愉しいから笑ってんだ。あんたみたいなのには一生分からないだろうよ!

 次の瞬間、中が仮面の男に頭突きをかました。腹部を強打された相手は、呻き声にもならないような音を吐いてうずくまる。中のすぐ後ろほどに、体液の脂分でべとついた凶器が転がった。彼女は安定しない浅い呼吸を繰り返し、傷ついた脚のせいで立つこともままならないようだった。景気よく血飛沫をまき散らしたためか、顔色はいつもより青白い。だがその顔色とは裏腹に、狂犬の表情は生き生きとしている。透けて消えてしまいそうな肌色のまま、ころころ笑っている。その常軌を逸した様子に、周囲の無事な連中がじりじりと後ずさった。狂犬が無事な左腕で出刃包丁を拾い上げると、それにより彼らはますます距離を開け始める。それに乗じ、彼女と同じ顔をした男が側に駆け寄った。

「中ッ! お前、腕を「あぁ、心配ない。ちゃんと動く。それより、そろそろ引き上げになりそうだそ、白」」

 上に、卓哉がいる。

 小声でそう呟いた彼女に、何言ってんだ。と白が言いかけたそのとき、打ちっぱなしコンクリートの屋上から茶色の薬瓶が投下された。甲高い音で割れたそれの中からは、透明な液体が零れ、地面に飛び散った中の血液と混ざっていく。ジエチルエーテル。瓶に張られたラベルの文字を見て、白はさっと中を抱き上げた。向こうの壁際に柳たちを見つけた中は、ここから離れるようにと合図を送る。次の瞬間、ごうっ、と熱が上がり路地裏が一気に炎上した。


「お前な、どこであんなもの仕入れたんだよ。物騒きわまりねぇぞ」

 白にそう言われると、卓哉は明後日の方向に視線を逸らした。先ほどから彼にしつこく追及されているが、卓哉はあの薬瓶の入手ルートについて口を割らない。頑ななその態度に、白は何度目か分からないため息をついた。

 高所から仕掛けた卓哉の放火行為によって、彼らは仮面の連中から逃れることに成功し、全員駅近くの廃墟に引き上げていた。無論、この場所は連中に特定されているのだが、今回は普段使うことのない奥地、元ゲームセンターである廃墟の従業員通路に集まっている。旧式とはいえ内鍵が掛かるこの場所ならば、少しは安全だろうと踏んだのだ。通路に持ち込んだ埃っぽいソファに座った中は、自分の血が生地に染み込んでいくのをぼんやりと眺めている。あれだけ出血しておきながら、彼女が気を失っていないことが不思議だった。痛いか、と卓哉が尋ねると、すっかり狂犬のなりを潜めた彼女はふにゃふにゃと笑う。先ほどの大騒ぎでだいぶ満足したらしい。もう帰ってきてくれないのかと思った、と言った中を前に、彼の眉間に皺が寄った。

「……すまない。だがお前なら、最後まで時間を稼いでくれると信じていた」

 予想外だった敵の増員を対処すべく、卓哉は仲間を一時置き去りにした。結果的にそれがあっての引き上げ成功ではあったのだが、余すところなく負傷した彼女を見ると、どうしても申し訳なさが募ってしまうらしい。俯いた卓哉に、中は「心配ないぞ」と笑って見せた。と、不意に扉の外から渡部の声が聞こえ、白が扉を開ける。少し前に買い出しを頼んだのだ。ぼこぼこと歪に膨れたビニール袋を片手に、渡部がするりと通路に入り込む。中がひらひらと手を振ると、彼女はぎょっとしてソファの方へ駆け寄った。

「あんた、また派手にやったねぇ。買ってきた分で足りるといいんだけど」

 携帯用のソーイングセットを手渡しつつ、渡部は袋の中身を確認する。市販のガーゼや包帯が、袋の中で散らかっていた。また例のごとく針を炙りだした彼女を目にし、軽傷の柳が目を丸くする。縫うのか、という問いを彼女が肯定すると、彼は浅く斬れた自らの腕を押さえた。別に、柳の傷を縫ったりはしないぞ。と中は肩を竦める。その様子を目にした萩猪が、小刻みに震え上がった。

「中が傷口を塞いじまうまで、あんまこっち見ねぇほうがいいぜ。柳もだ、気の持ちようでお前の傷が悪化するかもしれねぇぞ」

 彼女が肉に針を通し終わるまで、ほとんどの者はソファを視界に入れようとしなかった。唯一、三桐が興味津々な様子で作業の顛末を観察していたのを除けば。外はすでに夜を迎えており、その暗がりに乗じれば比較的安全に帰れそうだった。路地裏の様子を見てきた渡部によれば、先ほど派手に炎上させた路地一帯は立ち入り禁止となり、警察の捜査が行われている最中らしい。あれだけの人数がいたにも関わらず、例のけったいな仮面の連中は捕まってさえいないようだ。それを聞いた卓哉は難しい顔をして黙り込む。結局、仮面の奴を捕獲することはできなかった。

「じゃあ、俺たちは先に帰るが……また何か情報が手に入ったら知らせる。何か手伝えそうなことがあれば連絡してくれや」

 またな、狂犬。柳の分厚い手の平が、中の背中ほどまで伸びた黒髪をかき乱す。彼女の短い返事を聞くと、彼は三桐と萩猪を連れて外に出て行った。ぼさぼさになった中の髪の毛を、渡部の細い指が整える。あんた、柳と何かあったのかい?と彼女が問うと、「アドレナリンの数値が一致したと思う、多分」と中。その理解に苦しむ表現に、卓哉が僅かに噴き出した。狙われる心配がない渡部を先に帰らせ、卓哉たちは外に出た。人通りが多い道を選んで、彼らは少し遠回りをする。まだ夜は浅く、主要な通りには仕事帰りの人間がまばらに歩いていた。いつもの商店街まで着たところで、白のポケットの内側で何かがチカチカと点滅した。端末の通信を知らせるその明かりは、取り出されるとより明るさを増す。それは發からの通話だった。スピーカー越しの声は、心なしか弾んでいるように聞こえる。

『捕まえたよ、一匹だけだけど』

 夜道に、家にいるであろう彼の声が抜けていった。

 彼らが三元兄弟妹の家に帰ってくると、發が内側からドアを開けてくれた。どういうことだ、と真っ先に口を開く白に、扉を閉める中。見れば分かるよ、と答えた彼に続いて、卓哉たちはリビングのドアを抜けた。

「夕方にサイレンが聞こえたから、きっと白か中が派手にやらかしたんだろうって思って外に出たんだ。そしたら、良いタイミングで見つけちゃった」

 でも、ぜんぜん口を利いてくれないんだよね。必要なことを教えてくれればさっさと逃がすつもりなのに。

 テーブルの上に置かれた仮面は、紛れもないあの濃い紫をしている。だがその不吉な面は右頬の辺りが黒く焦げ、破損していた。そして、床には見知らぬ男が転がっている。重厚な見た目の手錠わっぱや鎖によって、彼の行動は著しく制限されているようだった。染色された金髪が目立つその男は、白、發、中を視界に捕らえるや、鋭く睨み上げる。だがそれ以上のことはせず、罵詈雑言を向けてくることもなかった。この男、發が言うには「大通りに抜ける路地の途中に落ちていた」らしい。男の右頬には軽い火傷痕が見える。それを發が楽しげに指でなぞると、彼はいやがって指から逃れようとした。だが金属がジャラジャラいうばかりでぜんぜん動けていない。薄い焼け痕をじっくり触りたいらしく、發も退く様子はなかった。

「まったく……無理はするなと言ったんじゃけぇ、大人しくしとりゃあいいものを。まぁ、お前さんらが派手にやらかしたお陰で、そこの若造を捕まえられたんじゃろうが」

 黒いソファに腰を下ろし、映写式パソコンを動かしていた博士がため息をつく。白い漆喰に移るパソコンの画面は、若干黄ばんで見える。もっとも、黄ばんでいるのは映写画面ではなく壁の方だったが。壁の細かな凹凸に走るパソコンの文字を、中はちらりと見遣る。増えたり減ったりするアルファベットの羅列は、彼女には理解できなかった。それ何してんだ、博士。今忙しいんじゃけ、あっちへ行かんかい。

「それぐらいにしてやれよ、發。そのうち噛みつかれんぞ」

 白が發を引き剥がすと、男は彼ら二人をまじまじと見上げた。そこに中が合流すると、男の表情が戸惑いを見せる。卓哉が不意に、足元の男に話しかけた。

 こいつらが珍しいか。

 淡々とした低音からは、明確な感情の色を読み取れない。金髪の男は少したじろいだが、やがてぼそぼそと声を発した。

「まさか、本当に実在すると思ってなかったんだよ。食用肉と鑑賞動物以外のクローンなんて。人間からしたら気味が悪い」

 残念、いるんだなこれが。と中が言えば、男はおずおずとした様子で彼女に問いかける。その問いに含まれた意味を感じ取り、卓哉の表情がぐっと険しくなった。

 お前らは、自分のことを人間だと思っていたのか。作られたことを、気持ち悪いとは思わないのか。

 敵の一人である男の思考を目の当たりにし、三人は顔を見合わせる。發が鼻で笑った微かな音が、空気に溶けていった。

「君、随分とおかしなことを言うね。僕らには、そんなことどうだっていいんだよ」

「どうだっていい……?」

「人間だろうがそうでなかろうが、どうせただの動く肉片だろ。だったらいいじゃねぇか、何だって。大した問題じゃねぇだろ」

「私たちはここに生まれてきた、その意味など知らん」

 面倒くさそうに答える白や中を、男は目を丸くして見つめている。まるで言葉が通じない相手を見るような、そんな眼差し。混乱した様子の男に、卓哉がふっと言葉を投げかけた。

「逆に聞く。お前はなぜ自分が人間だと言い切れる。お前は、自分という存在を証明できるのか」

 虚を突かれたように、彼は沈黙する。人間という形に拘らない三体のクローンと、人間が人間であることを疑って考える者。自らが生きていることが、彼らのすべてだった。生存に重きを見出し、それを確かめるために備わったそれぞれの歪み。それは生命の懐深くにはびこった、生命が生命たるがゆえの性だ。

「じゃあっ……お前は証明できるのかよ」

 絞り出すような声が届き、卓哉は瞼を閉じる。彼が黙したのはほんの一瞬だった。

 俺は、自分が確かにここにいると思っている。それだけで十分だ。

「ようやっと見つけたぞ、手こずらせおって。私がいたころとはまったく別の場所じゃったとはの」

 博士の声に、その場にいた全員が振り向いた。男の認証コードから登録情報や履歴検索……雑多な個人情報の山を発掘……をし、仮面の連中の本拠地を突き止めたという。男が重ねて絶望した表情になったが、彼らとしてはそれどころではない。マップ画像に刺さっている緑色のチェス画鋲は、とうに活躍の時期を終え、劣化し耐久性が問題視された廃工場地帯に刺さっていた。それは緩やかな丘一帯を埋め尽くすように存在している。かつてクローン技術が開発されたばかりのころ、輸入にばかり頼っていた自国の状態を改善するために、自給率向上を目的として建てられたものだ。当時は非常に活躍した工場群だったが、今や設備は完全に時代遅れで、工場自体ももう使われていない。だが取り壊しには膨大な手間が掛かるため、鉱蓮の役人はこの丘一帯を完全に放置していた。放置されたコンクリートの群れに目を付けた仮面の連中は、いつの間にかその群れの地下に自分たちの城を築き上げていたらしい。ぶっ飛ばしに行こうぜ!と弾む中の頭を押さえ、卓哉が博士に尋ねた。

「それ、内部構造まで引き出せないか」

「そんな簡単に言うんじゃないわい。こんな下っ端の認証コードじゃあ苦労するんじゃけ。だがまぁ……そうだの、お前さんらが三、四週間辛抱してられると言うんなら、吝かじゃないけぇの」

 分かった、それでいこう。

 悪戯の共犯者を思わせる博士の口ぶりに、卓哉は少しだけ笑った。すぐに動けないことを不満がる彼女に「お前と發は養生してろ」と白が唸る。と、發が足元で青ざめている金髪を指示した。これ、どうする?野に放っちゃ不味いよね。別に構わねぇだろ、下っ端っぽいし。好き勝手言う白と發に混じって、微かに男の声がした。それに気づいた卓哉が二人を一旦黙らせる。か細くなった声は、小刻みに震えているようだった。いっそ殺してくれ。と口走る男に、中がことを察した。

「あぁ、そうか。お前から情報が洩れたってことが分かれば、仮面の連中がお前を制裁しに来るんだろ?」

 連中、惨いことが好きな性質タチか? 皮を剥いだり、内臓モツを引っ張り出すのとか?

 彼女の問いに男の顔が一層色褪せたのを見て、博士が不意に提案を投げかける。その提案は次のようなものだった。

 お前がこいつらのことを黙っているのであれば、Chaffコードを発行してやる。それで何処へとなり逃げるがいい。

「どうせお前さんみたいな若造は、あの連中の思想に染まりきっていない奴じゃけぇな。殺したって仕方ない。潰さなけりゃならんのはもっと上の連中じゃろ、のぅ卓哉」

 どんな組織も、大所帯になればなるほど下の連中の意識は上の理念とはずれたものか薄いものになりがちである。それを圧力によって組織に留めることが大抵だ。そのため、組織を崩すには親玉を破壊するのが一番効果的で手っ取り早い。下っ端を狩り続けたところで、その代わりはいくらでもいる。補充可能な部分を削っても効果はない。

「お前ら、マジで仮面の一団を潰しに行くってのか……? 冗談じゃなく死んじまうぞ」

「逃げ回ったってそのうち殺されちゃうんだから、どっちだって一緒じゃない?」

 上ずった男の声に、發がからからと笑う。兄弟妹の中では一番大人しく見える彼だが、根本にある思い切りの良さは、他の二人に劣らない。君が知ってること、教えてよ。どっちにしたって、僕らは仮面の連中のところに行くからさ。

 發の眼差しは凛として混じり気がない。その手が頬の火傷痕に触ると、彼はやはり嫌がって顔を振った。触んなと唸る金髪頭を、發は面白がっているらしい。「父さん、これしばらく置いといてよ」と發が笑った。


 卓哉が家に帰ったときには、もう日付が変わってずいぶん経っていた。近所の家の鳩も、もう完全に寝静まっている。彼がそっと家に入ると、台所で母親がせっせと手を動かしていた。卓哉に気づくと、袖が破れたシャツを繕いながら、おかえりと息をつく。ただいま、と返事をした彼に、母は少し困った顔を向けた。

「また發君たちと遊んでたんでしょう? いつまで経っても野良猫みたいね、卓哉は」

 ふらっと出て行ったと思ったら、また気まぐれに帰ってくる。母親はそんな卓哉を叱咤するのをとうに諦めたらしい。二、三小言を口にした後、「はいこれ」と繕ったシャツを手渡した。それを適当に畳みながら、ふと彼は母に向き直る。そして、三元兄弟に末妹がいたことを知らせた。母に中のことを話したことがなかったのを、卓哉は不意に思い出したらしい。晩御飯を取り出しながら、母は目を瞬かせた。今度、写真を撮ってきてちょうだい。それで、そのうちまた会わせてね。卓哉は母親の興味に満ちた眼差しに苦笑しながら、それを約束する。ピーッ、と電子レンジが鳴った。

「それじゃ、母さん先に寝るわ。明日は、バイト?」

 午後から。と彼は答え、次いで「おやすみ」と言った。母親が二階に登る音が、しんとした家の中に響く。ラップを剥がした大皿には、薄味のそばめしがほくほく湯気を立てていた。それを租借しつつ、卓哉はそっと居間の方を眺めている。もういない父親の気配が、そこにまだあるような気がしていた。台所の明かりでぼんやりと見える、本棚の輪郭。脚の低いテーブル、座椅子の陰。すべてが父とは関係なく、また関係深くもあった。沈黙した黒い世界。先ほどまでの騒動が嘘だったかのような、緩やかな時間の流れに彼は目を閉じる。

 自分がしようとしていることは、復讐なのだろうか。

 ふっと浮かんだ疑問を、彼は否定する。父の死に憤りはあれど、それを連中にぶつけることで解決したいわけではない。それよりも、ただ――。

 胸の内に滲んだ痛みは、復讐と呼ぶほどの激しさを持たなかった。仲間を失いたくないということとよく似た、しかしもっと切実で、濡れたような感覚。同じ顔をした三人の仲間を、勝気な二人の女を、義理堅い三人の男を、卓哉は思い出す。自由に生きる者が自由に生き、それぞれがそれぞれの価値観を持ったまま、異なる価値観を享受する。それを踏みにじられたくないことに、彼は気がついた。他を廃絶する行為を潰したいのだと。それもまた自らの傲慢だろうが、それでよかった。すべての争いは価値観の違いから生まれる。正しいものなどどこにもないし、正しいものは腐るほどある。そう、人の数だけ。それならば、すでに迷う必要などないはずだった。『精神は肉体の玩具』……かつてのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェはそう記したはずだ……だとするならば、精神の迷いよりこの痛みに従おう。

 ――、戦うなら、一緒に。

 中の声をふと思い出し、卓哉はただ「分かってる」と身の内に答えた。


 深緑が芽吹き始めた初夏。鉱蓮では去年、中との騒動があった廃工場の取り壊しが始まろうとしていた。約一か月前に發が捕獲した男は、Chaffコードを手首に印字され実費でフランスに飛んで行ったらしい。散々發に遊ばれたためか多少なりとも恩義を感じているためかは不明だが、發宛に「健闘を祈る」とだけ書かれた電子メールが届いたという。卓哉が三元宅に赴くと、博士が解析したデータが卓哉の眼前に広げられた。

「なかなかの大仕事だったが、ようやく揃ったけぇの。内部地図とついでに入口も見つけといたぞ」

 壁に大きく映写された地図は、やはり壁の染みで少し黄ばんでいる。その地図の入り口に記された住所を見て、卓哉が目を見開いた。それは近日取り壊しが始まる廃工場の裏らしい。幸いまだ工事は始まっておらず、業者の人間も来ていない。突入するタイミングとしては、解体業者が来てしまう前が最適だろう。仕掛けるなら平日の昼間がいいだろうと、博士は助言した。

「仮面の上部連中は、大抵は仕事に就いとる社会人と隠居人が多いからの。大勢集まるのは休日、逆に平日は人が少ないはずじゃけぇ」

 ただ親玉については情報が見つからず、博士の推測では本拠地に身を潜めているのではないかということだった。卓哉は赤いソファに腰を下ろしている中の肩口に触れる。傷はもう平気かと尋ねる彼に、彼女は「私も發も、もう全快してるぞ」と頷いた。

「近日中に仕掛けようぜ、卓哉。解体業者が集まっちまう前に」

 白がそういうと、彼は静かにそれを肯定する。博士は、彼ら四人を見据えて最後にこう言った。

「くれぐれも気をつけて行くんじゃぞ。それと……本拠地に入ったら、研究室ラボに行ってみてはくれんか。研究者の中には、無理やり連れてこられた者もおるかもしれんけぇの」

 もしそういう者がおったら、逃がしてやってほしい。

 卓哉は「必ず行く」と約束し、切りっぱなしだった端末の電源を入れる。ほかでもない仲間に、協力を呼びかけるために。

 本拠地侵入が決行されたのは、それから四日後のことだった。柳たちが愛用している廃墟に、彼らは集合する。珍しく大勢来たために、廃墟内の埃が大量に舞い上がってしまう。それを、柳は愉快そうに見物していた。卓哉と三元兄弟妹に、渡部と香子、そして三桐と萩猪。柳を入れて九人が、この廃墟に集まっている。

「お前らが来ると、ここも賑やかになって面白れぇな」

「柳、ここ掃除した方がええんやない? 死ぬでこんなん」

 香子がハンカチで埃を余所へ追いやっているのを見て、俺の家ってわけじゃあねぇからなと彼は笑う。テーブルに印刷した地図を広げると、卓哉が全員を呼び集めた。と、中が奥の棚から日焼けした麻雀牌を発見し、それを駒代わりに九つ並べる。卓哉の指示によって、裏口に六つの牌が、左側の非常口に三つの牌が置かれた。

「まず、俺とこいつら、渡部、柳は裏口から建物に侵入し、相手の頭を倒しに行く。具体的な部屋は分からなかったが、安全性の問題を考えると中央の部屋だろう。恐らく連中は俺たちの方に集中するはずだ。その間に、三桐、萩猪、香子の三人は非常口から研究室に向かってくれ」

「ウチらはこっから入って、こっちの部屋に行けばいいんやな?」

 香子がそう言いながら、丸い絵柄の牌で通路をなぞり、別の部屋にそれを置き直す。卓哉は頷くと、香子とその隣で地図を見ていた三桐、萩猪にポケットサイズの箱を手渡した。それは連絡用の通信機で、市販の端末で盗聴がされるリスクをなくすためのものだった。

「何かあったらその都度連絡してほしい。念のため全員が持って行く。そっちが早めに完了したら、こっちに合流してくれ」

 もろもろの確認を終えると、卓哉はコピーしたもう一枚の地図を香子たちに渡しテーブルの地図を畳んだ。そして、目的地に向かう。真昼の太陽が、晴天の青空に眩しく輝いていた。


 立ち入り禁止のテープが張られた正門を乗り越え、彼らは廃工場に侵入する。歪んだ金属のドアを半ば無理やりこじ開けると、その衝撃で鉄錆がぼろぼろと散った。埃と錆、そして腐った水の臭いに、中がやや嬉しそうな様子を見せる。廃工に居ついていた頃が懐かしいのだろうか。何やらよく分からない鉄塊と化した機械や、老朽化によって折れた中空のパイプ。どうにもならないガラクタで埋め尽くされた空間は、時間を飲み込んで虚無を生み出している。無にもなれずに虚無となり、ただ静かに朽ちていく。そんな廃棄物に紛れて、床に四角い蓋がされていた。分厚い鉄の蓋を柳が持ち上げると、むわっとした湿気の臭いとともに階段が現れる。光が差し込んでなお、その四角い穴の奥は漆黒だった。行くぞ、と息を吐いた卓哉に続き、白や發たちも階段を下りていく。じめじめとした暗い地下通路は一本道で、真っ直ぐ進み続けると本拠地の裏側に出た。

「では、また後ほど。こちらも終わり次第連絡します」

 三桐の言葉を最後に、彼らは二手に別れた。卓哉は彼らを引き連れ、裏口に足を進める。認証コード読み取り機がつけられたその入口に、白が右手首をかざした。白とは全く違う人物の名前が読み取り機に表示され、扉がすっと開く。博士が今回の潜入用に、三元たちのChaffコードを仮面の構成員のデータに偽装してくれたのだ。裏口の先には、病院を思わせるリノリウムの通路が続いている。消毒アルコールのにおいはしない。足音をできるだけ押さえてはいるものの、建物内はひっそりとしており靴音がよく響いた。通路には「第六会議室」「用具室」などと表示された扉が幾つか見受けられたが、その名称や部屋の大きさからして、そこまで重要度が高い部屋ではない。親玉がいるとすればもっと奥まった場所か、あるいはもっと連中にとって重要な部屋だろう。人気がない通路をしばらく進んだところで、不意に渡部が卓哉を呼び止めた。

 ここ、何かあるかもしれないよ。

 渡部がそう囁いて、通路の右側にある扉を指し示す。それは「情報管理室」という電子表示がされた、比較的大きめな部屋だった。發がそっと扉に耳をつけてみたが、中からの音は聞き取れない。誰もいないのかもしれないし、もしかすると防音設備が整っていて聞こえないのかもしれない。意を決して扉の開閉スイッチを押すと、中は無人だった。音らしい音といえば、ほっとした渡部のため息と、機械が稼働しているときの控えめなモーター音だけである。この部屋では、何十代ものパソコンが自動検索モードで稼働しているらしい。画面にはあらゆる人間の個人データが移っては消えていく。その青い画面は、どうやら個人情報から遺伝子情報だけを読み取っているらしかった。標的となる劣性遺伝子を見つけ出しているのだろう。中は画面をしばらく睨んだ後、仲間の方を向いた。

「いくらなんでも静かすぎる。連中は私たちが入り込んだことに気づいてるんじゃないか?」

 確かに中の言う通りだった。異様なまでの静けさは、逆に自分たちを引き入れているのかもしれない。だがそうだとして、このまま引き返せるわけでもなかった。あいつらが俺たちを待ってるってんなら、飛び込むしかねぇ。柳がそう言って地図を広げた。

 狂犬、お前ならどこで待ち伏せる?

「多分、ここだろうな」

 あぁ、確かに。そうだろうね、そこしかないよ。白と發がそろって頷いたその位置は、ちょうどこの先、細い通路が終わり、少し開けた場所になっているところだった。どうするんだい、卓哉。突っ込むってんなら覚悟はできてるよ。渡部の問いに、卓哉は口を開く。その声はいつものように、低く静かだった。

「このまま、この地点まで進行する。迎撃されるなら跳ね返すまでだ」

 全員、準備はいいな。

 彼らが頷いたのを確認すると、卓哉は足音を忍ばせることもなく部屋を出た。そうして、そのまま通路を一気に通過する。通路が終わりに差し掛かった刹那、銀色の光を反射する小さな切っ先が、卓哉に向かって飛んできた。彼はそれを反射的に避け、開けた空間に身を晒した。

「そこまでだ、劣等遺伝子諸君」

 四角く開けた空間で待っていたのは、黒いスーツの男だった。歳のころはおおよそ五〇手前。自信に満ちた顔つきの男は、後ろに数十人の人間を従えている。先ほどの投げナイフはこの男の仕業だろう。スーツの男は卓哉たちを品定めするように眺め、再び口を開く。滑らかで発音がすっきりとしたしゃべり方は、優秀な営業マンを髣髴させる。だがその顔つきのせいで、どうにもきな臭い感じが否めなかった。

「ふむ……劣等遺伝のクローン三体と、抹殺を逃れた劣等遺伝の男。後ろの女は特にデータにないが、一番前の君は……あぁ、思い出した。過去のリストにあった東家 荘輔アズマヤ ソウスケの息子だろう。敵討ちにでも来たか?」

 貼りついたような気味悪い男の笑い顔を前に、卓哉は不愉快なのか眉間を縮ませる。言いたいことはそれだけか。と唸る卓哉に、男はべらべらと言葉を連ねた。

「言っておくが、君はもう少しで抹殺対象になりえる遺伝子だ。母親の遺伝子がそこまで酷くなかったから生かしておける水準だったに過ぎない。にも関わらず、君たちは私たちの作業を妨害したばかりか、のこのここんなところまで来てしまった。非常に愚かしい行為……ッ!?」

 不意に宙を舞った空瓶が、スーツの男に直撃する。男の滑るような言葉の羅列はぷっつりと途切れた。男の後ろに待機している者たちのざわめきが、波のように広がっていく。リノリウムの床に砕け散る、二〇〇mlの酒瓶。僅かに零れる琥珀色の水滴。卓哉が振り返るより早く、中が数歩前に歩み出た。

「無駄に御託ばっかべらべら並べんな、もっと簡潔に喋れ!」

 額がガラス片で切れたのか、蹲っていた男は頭を押さえてよろよろと立ちあがる。その眼光は激しく燃えていた。

「劣ったクローン女ごときが、この私に歯向かうなど……ッ! お前は人類のより良い未来にとって邪魔な要素でしかない。身の程を弁えろ、畜生め!」

 血走った男の双眼が、噛みつかんばかりに中を捉えている。だが彼女は気にすることもなく挑発的な態度を崩さない。根拠のない圧倒的な威圧感。廃工の悪鬼が、かつてと変わらぬ風貌で卓哉に背中を預けていた。

「それはあんたの勝手な基準だろう? そんな基準、知ったことではないな。卓哉も私たちも、愚かしいなどと言われる筋合いはないッ!」

 その瞬間、彼女はスーツの男に向かって走り出していた。勢いを加えた上段蹴りをかまそうとしたが、それは男の側にいた別の相手によって防がれる。その接触をシグナルとして、入り乱れた戦いが始まった。混戦となったことを喜んでいるのか、中が嬉々とした表情で数人を蹴り飛ばし、薙ぎ倒していく。その豪快な立ち振る舞いは狂犬の名に相応しい。

「いきなりやらかすたぁ、相変わらずふてぇ女だ!」

 柳が満足げに笑い、彼女が猛威を振るっているところとは別の場所に突進していく。その勢いに、相手は気圧されてしまうようだった。渡部は目を丸くしたが、すぐに彼女自身もその空気に浸透していく。彼女もまた、彼らと同じ裏路地の鼠にほかならなかった。

 俺は左から行く。じゃあ、僕は右からにしようかな。

 別れた兄弟は迷うことなく敵陣に突っ込み、それぞれ倒すべき標的に牙を剥く。發は突っかかってきた相手をさっとかわし、後頭部に強かな肘打ちを落とす。その軽やかな立ち回りと的確な一撃は、少ない力の消費でより多くの相手を倒すことに長けていた。敵の足を引っかけてくすくすと笑う發の振る舞いは、嫋やかに見えて容赦がない。半ば回すようにして壁に投げつけられた敵の首が、鈍く爆ぜるような音を立てた。白は怯んだ相手に容赦なく拳をぶつけ、己の力を乱雑に振り回す。力の赴くまま、無駄が多くしかし純粋な勢いのまま、彼は敵を潰しに掛かった。殆ど死角から来た相手の右フックを霞むようにかわすと、そのまま相手の腕を掴んで引き寄せ、膝蹴りを嵌める。勢いで熨された敵の残骸が床に落ちるより速く、彼はまた別の獲物を視界に定めていた。

 入り乱れた空間の中央で、卓哉は先ほどのスーツの男を探す。途中、何度か拳や脚が飛んできたが、彼はそれらすべてを弾き返した。何人かは後頭部や顎に掌底打ちを決められ、空しくくたばっている。と、目的の人物を発見し、彼は一気に距離を詰めた。飛んできた小さなナイフが頬を霞めたことを気にも留めず、男の腹部に強烈な回し蹴りを食い込ませる。肋がへし折れる確かな手ごたえと、苦痛に対する鈍い音が相手から漏れた。間髪入れずに顎を殴りあげると、ゴツッとした硬い衝撃とともに男は崩れ落ちる。ふっと短く息をついた卓哉は、いつの間にか肘の手前辺りに刺さっていた投げナイフを引き抜く。足元に転がる男はかろうじて意識があるのか、がくがくしながら卓哉を見上げていた。その顔には、まだあのきな臭い気配がくっついている。

「こん、な底辺に……負けるわけに、は……天狼テンロウ様……申し訳、ありませ」

 最後まで言い切れずに、その男はぐったりと崩れ落ちた。卓哉が周囲を見渡すと、動ける敵連中の数は幾分か減っていた。後片付けに加勢しようと卓哉が動いた瞬間、耳をつんざくようなサイレンが鳴り響いた。何をきっかけに起動したか、もしくは誰かが作動させたのかもしれないこのサイレンによって、卓哉たちが来た方とは別の通路から、仮面の連中がどっと押し寄せる。思わず舌打ちをした卓哉に、渡部が声を上げた。

「卓哉、一番右の通路だ! 裏口以外の通路で、そこだけ増援が来ていない」

 彼女の言葉に、卓哉ははっとする。裏口はわざと空にしてあった。そこ以外で増援が来ていない通路があるということは、そこだけは守られているということ、その先に重要なものがあることの証明だ。

「中! 卓哉と一緒に先行け! ここは俺らで抑える!」

「僕らの代わりに行ってきて!」

 中に食って掛かった敵を乱暴に殴り飛ばし、白と發は彼女を後ろに庇う。彼女は一瞬ためらったが、「任せた」と言い残すと卓哉のもとに駆け出した。

「行かせねぇよ、この雌犬がッ!」

 後ろから仕掛けられた一撃に、中の反応が僅かに遅れる。逆手持ちの折り畳みナイフが、彼女の黒髪を散らした。だがそれは首の皮膚には届かず、別の者に阻まれて床に落ちる。刃物が落ちる音に中が振り返ったときにはもう、その敵は柳によって足蹴にされていた。

 リノリウムの床に滴り落ちる、濃い徒花の花弁。

 柳の右腕を染める艶やかな赤に、彼女がぎょっとして口を開く。だが、その唇が言葉を紡ぐより早く、彼は中に言葉を投げた。

「暴れてこい、狂犬! 後ろ傷なんざ、お前には似合わねぇ」

 ただひたすらに、目の前の相手を叩き潰していけ。お前はそういうのが似合う女だ。

 僅かに口角を上げた柳は、彼女の返事を待たずして別の相手に殴り掛かる。血飛沫が弾け飛ぶその一瞬、柳は再び駈け出していく狂犬の足音を聞いた。


「……なんだったんでしょう、今のサイレンは」

「さっきまでここにいた奴ら、全員どっか走って行っちまったぜ」

 非常口から研究室方面に向かっていた香子、三桐、萩猪の三人は、身を隠していた「リネン室」からようやく脱出した。ほんの先ほどまで、あまりに敵が多すぎて隠れているしかなかったのだ。が、突然鳴り響いたサイレンによって、その敵は皆別方向に出て行ったのである。複雑な表情で思考する三桐の肩を、香子が軽く叩く。ええやん、とりあえず卓哉の言った通り研究室まで行こ。ウチらの役目、きっちり果たさな。

「そうだな、とりあえず行こうぜ三桐。道が合ってりゃ、もう少しで研究室なんだろ?」

 そう言って進み始める萩猪の後ろを、小柄な香子がついていく。三桐も渋々それに続いた。

 結論からいうと、辿り着いた研究室はほぼもぬけの殻だった。頗る不気味な研究サンプルがホルマリン漬けになって浮いていたり、何だか理解しかねる機器が継続的に音を立てている空間。香子はその奇妙な雰囲気を怖がったが、それでも「一応、隅々まで見てから連絡しよ」と捜索を開始した。複雑に絡まったパソコン回線や実験器具のコードが、床に幾重にも伸びている。コードに足を取られた彼女が転びかけたそのとき、どこからか忍び笑いが聞こえた。

「だ、誰かおるん……?」

 三桐と萩猪が警戒して周囲を見渡したが、人らしきものは見えない。と、思っていた次の瞬間、小さなロッカーから子供が二人飛び出してきた。

「ごめんごめん、お姉さんの恰好がちょっと面白かったから」

 少し申し訳なさそうに眉尻を下げたのは、黒いくせっ毛の男の子だ。その子の後ろに控えているもう一人の子供と完全に顔のパーツが一致している。違うのは服の色だけで、前の男の子は薄水色の病衣を、後ろの子……服の色からして恐らく女の子……は薄桃色の病衣をそれぞれ着ていた。二人とも裸足で、手首にあるはずの認証コードはついていない。

「お前ら、なんでこんなとこに要るんだ? やべぇところだぜ、ここ」

 萩猪がそう言って近寄ると、二人の子供はぴゃっとロッカーの後ろに引っ込んだ。大柄で目つきが凶悪な彼が怖かったのだろう。三桐は彼を止めて自分が行こうとしたが、自分もそう萩猪と大差ない人相だったと気づいて諦めた。香子が「この兄ちゃんらは怖い人やないで、大丈夫やで」と説得すること、数分。二人はちょこちょこと彼女の前に出てきた。

 彼ら曰く、自分たちはこの研究所で誕生した遺伝子操作クローンだという。どうやらこの研究所から外に出たことがないらしく「外の人間である香子たちが珍しい」と、二人は口を揃えた。

「僕たちは、生まれてからずっとここにいる」

「あたしたちは、これからの人類を作っていくための試験品サンプル

「「あたしたちは、四二番目と四三番目の理想の男女」」

 まったく判別できない二つの声が、交互に、ときに同時に言葉を紡ぐ。淡々としたその物言いは、機械のように発されていた。自らを試験品だと言う男女の双子は、そろって三人を見上げる。無垢な褐色の眼差しは、意外なことを口にした。

 お姉さんは、僕たちをどうするつもりなの?

「え、どうするって……」

 困惑した香子に、もう一人の方が口を開く。その幼い口から紡がれる言葉に、萩猪は目を見開いた。

「だって、お姉さんたちはここの人じゃないんでしょう?ここの人たちは悪い人だって、あたしたち聞いてるもの。お姉さんたちは、外からあたしたちを始末しに来たんじゃないの?」

 きょとんとした表情で小首をかしげる女児に、香子と萩猪はなんと言葉を掛けていいのか分からずに沈黙する。と、様子を見ていた三桐がすっとしゃがんで幼い二人に目線を合わせた。

「一体、誰から聞いたのですか?『ここの人たちは悪い人だ』と」

 組織の中にいる人間が、組織の悪口を言うとは考えにくい。外部からの訪問者でもあったのか、それとも組織の方針に異を唱える者が……門前博士が言っていたという拉致された研究員のような人が……いるのかもしれなかった。すると三桐の問いに、水色の子が「ここで研究していた人が教えてくれたんだ」と答える。三桐がその研究者の行方を尋ねると、二人はそろって表情を曇らせてしまう。しばらくして、男の子の方がたどたどしく三桐のレンズと奥の両目を見つめた。

「ちょっと前まで、その人はここにいたんだ。すごく優しいおばさんだったんだけど……」

 僕らを外へ逃がそうとして、失敗して消されちゃった。

 俯いた子供二人を前に、三人は息を詰まらせる。善良な研究者を助けるには遅かったのだ。予想外の事実に、その場に重苦しい空気が漂い始めてしまう。それをかき消すように、香子は二人の手を握った。

「ウチらと一緒に行こ。ウチらがやっつけに来たのはあのけったいな紫色のお面の奴らだけで、君らじゃないねん」

 彼女の言葉に、二人は顔を見合わせる。そしておずおずと頷いた二人に、萩猪がふと尋ねた。

 そういや、お前ら何て名前なんだ?

 萩猪の言葉に、二人はそれぞれ自らの名前を口にする。珍しい響きの名前に、三桐が感心した様子で眼鏡を押し上げた。

「ほう、『シシキ』に『ヤライ』というと……積尸気シシキは星雲、矢来ヤライも星の名前ですか。また捻った名前をつけたものですね」

「ごめんな、ウチ服の色でしか見分けつけへんけど……青い君が積尸気で、ピンクの子が矢来であっとる?」

 合ってるよ。と青い積尸気が笑うと、後ろの矢来も頷いて見せる。異常にそっくりな異性の兄妹を前に、三桐は三元たちを思い出していた。この双子もあの三元兄弟妹と同じように、どんなに成長してもそっくりなままなのだろうか、と。香子や萩猪、三桐に対しての警戒心を解いた二人は、この建物には香子たちが入って来た通路のほかに、いくつかの非常通路があることを教えてくれた。あれこれと言葉を発する双子の話を聞く途中、ふと香子が声を発した。

「あぁ、そうや。実はな、ウチらの仲間に君らと同じぐらいそっくりな三兄弟妹がおんねん」

 彼女の言葉に、双子のクローンは強い興味を抱いたのか目を輝かせる。「きっと、すぐ仲良くなれますよ」と三桐が笑った。


「中、無事か」

「問題ない、そっちこそ潰されんじゃねぇぞッ!」

 卓哉に返事をしつつ、彼女は眼前の敵の顎を豪快に蹴り上げた。そしてわき目もふらずに別の相手に突っかかっていく。剛を極めた廃工の悪鬼は、血滴けってきを散らして猛々しく吠える。奥の通路に踏み込んだ二人は、一瞬にして仮面の連中に取り囲まれていた。

 卓哉は背にした方から届く中の声にふっと笑うと、右サイドから殴りかかってきた敵を払い、わき腹に膝蹴りを決める。鈍い音とともに崩れ落ちる敵の男に対し、彼は薄く愉しげな眼差しを向けていた。殴りかかってきた相手の腕を掴んで引き寄せ、無防備な首筋や頭部に掌低を打つ。そして別の方向からの右ストレートを右腕で引き寄せ、相手の打撃自体を体の外に流した。着々と潰されていく仲間を目にして怖じけづいたのか、卓哉の周りを囲んだ連中は、微妙な距離のまま近づいてこない。

 どうした、来ないのか。

 静かで重みのある低音、熾火のように静かな眼差しと気配。獲物を前に高揚してはいても、衝動にまかせて牙を剥くことはしない。互いに傷つけあった彼女が狂犬と称されるならば、彼は紛うことなき猟犬であった。彼の身のこなしは、対峙した相手に対して攻撃がすり抜けていくような奇妙な感覚を持たせる。受け流しと攻撃の緩急には無駄がない。

 後方から振るわれた警棒を卓哉がはじき返した刹那、わずかな血潮が床にこぼれ落ちる。先ほどの戦いで負った切り傷からの出血だろう。だがアドレナリンが飽和した今の卓哉に、痛みの信号はほとんど届かない。卓哉は警棒の男の攻撃を警戒したが、その男は彼が直接手を下すまでもなく奇妙な悲鳴とともに吹っ飛んだ。状況が分からず周囲を見渡すと、どうやら中が投げ飛ばした別の相手がその男に激突したらしい。相変わらず荒っぽい犬だと、卓哉は朱染めになっていく中を眺めた。

 通路の脇から湧いた敵をすべて倒し終えると、彼は拳を汚した彼女に歩み寄る。中は汚れた手の甲をズボンで拭っていた。卓哉と同様多少の怪我はあるものの、大したことはない。無菌室を思わせる通路の人工的な白床は、血泥と人間という肉塊で雑然としている。この場において、動いている者は卓哉と中だけだ。彼らはその場を過ぎて奥へと歩みを進める。途中いくつかあるドアを開けて見たが、そこはいずれも無人だった。

 最深部の部屋に足を踏み入れると、そこには巨大な機器が鎮座していた。薄暗く窓一つないその部屋に、その機械を操作する人間はいない。沈黙した空間の中で、ただ機械のモーター音だけが微かに聞こえてくる。

 柳たちは無事だろうか。ふと、卓哉は後に置いてきた仲間のことが気にかかった。だが、ここで引き返すわけにはいかない。

 あいつらが先に行かせてくれたことを、無為にはできない。

 この部屋がこの通路内で一番大きく、かつ奥に位置する部屋だ。ほかの部屋に何もなかったなら、この部屋にいる確率が最も高いはずである。考え込む卓哉に、中がふと問いかけた。

 もしかして、この機械がボスなんじゃないか?

 そんなわけないだろう、そう卓哉は言いかける。だがその瞬間、彼女の言葉に呼応するように機械の一部が点灯した。これは、どういうことだろう。

「お前が、天狼か」

 先ほど、スーツの男が口にしていた名を言うと、今度は本格的に機械のモーター音が大きくなった。ほどなくして、そこから無機質な、しかし意味を持った音が聞こえ始める。

〝そう、私が天狼。君たちは侵入者だ〟

 単調な機械音声が、静かだった部屋に響き渡る。その異質な存在に、彼は目を見開いた。磨き上げられた銀色や、酸化した鈍色の小さな機械が寄り集まり、一つの塊と化している。見上げるほどに巨大なその金属集合体の一つ一つには、細かいスイッチやランプ、ケーブルなどのパーツがびっしりと付属している。仮面の一団を取りまとめていたのは、巨大な人工知能だったというのか。

 突然直面した事実に、卓哉は首を捻る。何故、人工知能が生身の人間の遺伝子にこだわっているのか、そのことがこの人工知能に何をもたらすのか、まったくもってすべてが謎だった。

「機械の身で、何故生身の人間にこだわる」

 卓哉の問いに対し、機械のパーツがチカチカと点滅する。中がその点滅するボタンをつつくと、〝それは君が押していいものではない〟と静かに否定してきた。

〝私は、当初人間の遺伝子研究を目的に使用されていた。人間は愚かしく、学習せず、醜くて仕方がない生物だと理解した。だが、そんな生物によって私は作り出された〟

 そのことが悔しくて仕方がなかったのだと、人工知能は言葉を切る。その声は機械的で淡々としていたが、機械には似つかわしい非合理な感情要素が感じ取れた。

〝だから私は、人間を賢い、優れた別の生物に変えようと判断した。優秀な生物を完成させ、私を、愚かしい人間の道具ではなく、より優れた存在に完成させることを決定した。そして〟

 ――、私は、完璧な人間になろうと思った。

「人間に……?」

〝そうだ。愚かしく脆弱な、しかし私にはないものを数多く持っている。私は人間の、機械とは異なり取り替えが聞かぬ肉と、最前の策を導き出せない低俗な脳味噌を嫌悪し、同時にその非効率的な生き方を羨望した〟

 静かに聞こえてくる電子音に、卓哉は沈黙する。愛憎と呼ぶには傲慢過ぎる人工知能の意志。星の名を与えられ、人を導く道具として活動を始めたこの機械にとって、導くべき対象への憧れは不要なもののはずだ。だが、この人工知能は焦がれてしまった。感情とは沸き起こる不確定な要素であり、効率と合理性、及び理性的な思考とは相容れない。人工知能にそういった不確定な人間の要素を取り入れたことが、この事態を引き起こしたのだ。発達した人間の技術は多くの可能性とともに幾何の傷を生む。それを、誰が悪いと問うことは愚行だろう。幾何の傷は、誰かの理想のために生まれ落ちたのだから。

〝君は、ここの研究室で作られた三九番目のクローン。ただの劣性遺伝子であるとはいえ、純正の人間ではない。人間ではないにも関わらず、何故そうして人間の側に立ち、私の邪魔をする?〟

 天狼が投げかけてきたその言葉に、中は巨大な機械を見上げる。赤く点滅する小さな電極は、静かに彼女の回答を待っていた。

「私は、自分が何者なのかなんて気にしていない。ただ自分がしたいように、正しいと思ったことを曲げずに生きているだけだ」

〝……傲慢な。人類を、この世界をより完璧なものにしていこうとは思わぬのか。そのような刹那的な生き方で、何が得られるというのだ〟

 単調な音であるにもかかわらず、天狼の言葉にはふつふつとした憤りの気配が感じられる。機械の稼働音に混じって、再び人工知能の声がした。

〝私は、星の未来のために君たちを排除する〟

 そう言い終えるや否や、錆びついた蝶番が立てるに似た耳障りな音が響いた。その金属音とともに、機械が集まった人工知能の一部が大きく展開する。そこから顔を覗かせたのは、円筒の集合……グレネードランチャーを彷彿とさせる大口な銃口の束だ。それに真っ先に反応したのは卓哉だった。

「中ッ!」

 卓哉が傍らの彼女を突き飛ばした刹那、爆音が窓のない部屋に響き渡った。薄青い煙と、濃い火薬のにおい。壁に食い込む幾つかの銃弾。それに混じって漂う、鼻腔を疼かせる新鮮な臭いに彼女ははっとして起き上がる。

 床を侵食する、麗しい緋色の体液。その色を、彼女はよく知っていた。

「無事か、卓哉!?」

 生ぬるい海に沈む、見知った生暖かい肢体を掬い起こそうと近づいた彼女は、はっとして眼前の敵を見遣った。銃口は明らかにこちらを向いているにも関わらず、次の攻撃がない。まさか一回分の弾薬しかないということは考えられなかった。機械本体の方に一本の投げナイフが刺さり、幾重にも伸びるコードの一部を切断しているのが見える。それは、先ほどの戦闘で卓哉に刺さった敵の武器だ。赤く染まった床に崩れ落ちていた卓哉が、よろよろと緩慢な動きで上体を起こす。弾丸が腹部を貫通しているらしかったが、彼はその負傷を感じさせない不敵さで微かに笑った。

 これで、もうお前はそれを撃てない。

 立ち上がろうとしてよろける卓哉を、中が慌てて支える。彼女に肩を借りつつ、彼は動きを止め沈黙する機械に近づこうとした。

「よせ卓哉、あんまり動いたら血が「心配ない、それよりあいつのところへ向かってくれ。まだ止まったわけじゃないだろう」」

 断絶したコードからバチバチと火花が散っているのを見つつ、二人は人工知能の前まで近づく。それでもなお反応がない機械に向かって、卓哉は言葉を発した。

「俺は……お前の考えを否定する気はない。だが他を一方的に廃絶すること、その一点だけは受け入れられない」

〝何故だ……君は完璧を求めずに何処へ向かおうというのだ〟

 損傷のせいか若干のノイズが混じったその音に、卓哉は静かに瞬く。彼が再び唇を動かすと、はたはたと血潮が零れ落ちた。

「未完成のものには崩壊と成長の可能性がある。だが、完成してしまったものは崩壊するしかない。そんなものに、俺はなりたくない」

 だから、お前も未完成のままでいればいい。成長の余地は残しておけばいいだろう。血塗れた口元がそう紡ぐと、天狼のライトがチカチカと点滅した。

〝私に完璧を目指すなと、人間と同じ不完全で愚かな生き方をしろと、そういうのか〟

 憤りを思わせるその音に、卓哉は言葉を考えあぐねているのか沈黙する。過度の出血が原因で、彼の意識はぐらついているようだった。人間を導く、人間より上位の立場であるという、人工知能が持つ矜持を変えることは難しく思える。弱り始めている卓哉を支えつつ、口火を切ったのは中だった。

「人間に作られた以上、お前も不完全なはずだ。お前がどれほど憎もうと、お前が人間に作られた事実は変えられない」

 強く断定した彼女に、人工知能はライトを激しく点灯させて反論し始める。だがその言葉は支離滅裂で、天狼が焦っていることが目に見えた。狼狽する人工知能に彼女は再度言葉を投げかける。それは相手を攻撃するような強さを持たない、手を差し伸べるための言葉だった。

「どういうふうに作られて生まれてきたかなんて、そんなに重要じゃない。重要なのはどう生きたかのほうだ」

 だから、そんなこと気にするな。

 中がそう呼びかけても、返事は返ってこなかった。代わりに、機械のライトが異常なほどに点滅し、機械の奥から不穏な音が聞こえてくる。その軋むような音は、確実に酷くなっていた。彼女は繰り返し人工知能に呼びかけようとしたが、不意に肩にかかる重みが増したことにはっとする。見れば、卓哉は完全に意識を手放していた。

「卓哉……っ!」

 一旦彼を床に下ろし、心音を、そして呼気を確かめる。天狼の音が邪魔で聞き取りづらくはあったが、心臓の音とともに若干の呼吸が聞こえた。中がほっとした刹那、巨大な機械の一部が破裂し、灰色の煙が一気に広がる。壊れた機械に隣接した別のパーツが連鎖的に壊れ、火の手が上がっていた。このままだと一気に爆発するかもしれない。彼女は卓哉を抱え上げると、急いでもと来た道を引き返す。途中、彼女は抱えた卓哉の胸ポケットから通信機を引っ張り出し、電源を入れた。通話ボタンを押すと、ノイズに混じって、白と發の声が聞こえる。中は全員に脱出の命令を出し、通話ボタンを離した。


「なんとか、全員無事らしいね」

 廃工場地帯の丘を見下ろせる高い山に、彼らは全員逃げ切っていた。本拠地のボスであった人工知能の爆発によって、丘の一部からどす黒い煙が上っている。もうじき、消防隊やら警察隊が、あの丘一帯に集結するだろう。まったく予期せぬ形で、卓哉たちの目的は果たされていた。三桐と萩猪に肩車をしてもらってはしゃいでいる双子の笑い声が、昼下がりの青空に遠く吸い込まれていく。香子は、このそっくりな双子の顔を見比べて微細な違いを見つけ出そうとしていたが、發に「そんなすぐに見つけられるわけがないよ」と笑われている。渡部や白、柳、中に多少の負傷があったものの、卓哉ほど酷い傷でない。中が麻酔なしの急ごしらえな縫合を施したため、彼の出血は収まっていた。弾丸が貫通していたことがせめてもの幸いだろう。これが体内に半端なまま残っていれば、傷口を縫うこともままならずもっと酷いことになったはずだ。地面に腰を下ろした中は、ようやく目を覚ました卓哉をそっと抱えている。脱出直後は血塗れだった彼だが、中がすっかり血糊を食べてしまったために今は赤みが失せ、貧血気味の青白さが目立っていた。体力を消耗して疲れているのか、卓哉は中に寄り掛かったまま動こうとしない。そんな彼の頭を、白の大きな手がわしわしと撫でまわした。

「お前、気ぃ失っといて正解だったな。中に傷口を縫われてる最中に目覚めでもしたら絶叫モノだったぜ」

「また元気になったら見せてね、卓哉。中が細かく縫っちゃったから、そんなに目立つ跡にはならないと思うけど」

 いつもの調子でからかってくる白と發を、卓哉は半ば呆れたような、しかし一方で安堵したような様子で見上げる。と、すぐ傍にいる中がじっと煙の方を見ていることに気づき、彼は彼女の頬に手を伸ばした。

 中、どうした。

 不意に触れた冷たい手に、彼女は懐の卓哉を見下げる。何でもないと言いかけた中は、不意にその言葉を飲み込んだ。そうして、冷えた彼の手を温めるようにそっと掴む。

「卓哉は、また私と遊んでくれるか?」

 相変わらずだな。と苦笑しつつも、彼はすんなりとそれを受け入れる。澄み渡った青空に、薄っすら白い三日月が浮かんでいた。

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鉄黒の箱庭 獅子狩 和音 @shishikariwaon

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