ようこそ,この素晴らしき世界へ
浴槽から上がり,ほてった身体を冷ましながら身体を丹念に拭いた。今年の夏は特に暑かった。四十度に迫る気温はそれだけで汗が滝のように流れる。エアコンがついた環境で勉強をした後にはグランドの端に設置されたテニスコートでソフトテニスに打ち込む。この夏で引退する私たちは必然的に部活動に熱が入るし,部長を務めているのだから砂埃を受けながら必死になって活動した。
充実感と共に身体に残る疲労を洗い流すように浴びる夏のシャワーが好きだった。その後に湯船につかりながら音楽を聴き,一日を振り返るのもリラックスできる大切な時間だ。せっかく汗を流したのに,バスタオルで汗を拭いている最中にまた汗がにじんでくるのだけが気に入らない。
「カズキー,お風呂あいたよー」
リビングからカズキの部屋に繋がる階段に向かって声を張り上げた。いつもの通り返事はない。どうせまたイヤホンでも付けてゲームでもしているのだろう。まったく,とため息をついて階段をあかった。
「お風呂空いたわよ」
ベッドに寝転んでゲーム機に夢中になっているからか,部屋に人が入っていることにも気付いていない。やれ,とか,殺せだとか汚い言葉を使ってゲーム機に向かって声を発している。
「お風呂って言っているでしょ!」
肩を揺するようにして促すと,一瞬こちらに反応した後にすぐにまた視線をゲーム画面に戻した。その直後に,ゲームの画面に血の斑点のような者が映り,ゲームオーバーと白抜きの文字で表示された。
「いつまでもゲームしてないで,さっさとお風呂に入りなさい。後ろもつかえているんだから」
「うるせえんだよ! 勝手に部屋に入ってくるな!」
ずっと画面を見続けていたせいだろうか。充血した目で叫ぶと同時に持っていたゲーム機を私にめがけて思いっきり投げつけた。きゃっ,と悲鳴を上げて尻餅をついたと同時に,耳元で風を切る音が鳴る。投げつけられたゲーム機は無機質な固い音を立てて,壁にぶつかり床に落下した。すぐ横に落ちていたゲーム機のディスプレイには,雷が落ちたようにひびが入っていた。
階段を駆け上がる音がした。
「どうしたの?」
何事かと切羽詰まった様子でママが入ってくる。
「なにこれ! 壊れているじゃない! 何があったのかちゃんと説明しなさい!」
床に落ちたゲーム機を手に取ったママは,髪の毛を逆立ててカズキに説明を求めた。何も言わないカズキにしびれを切らし,「黙っているなら,ゲームも全て没収するわよ!」と金切り声を上げた。
「うるせえんだよばばあ! 勝手なことするな! せっかく良いところだったのに,姉ちゃんが邪魔するのがいけないんだ!」
二人とも興奮している。肩で息をしながらカズキは言い放った。
「分かりました。リンナはお風呂にカズキを呼んだのだけど,それに応じられなかったのね。ゲームに生活が乱されているじゃない。買ってあげたときに約束したはずよ。ゲームもタブレットも,きちんと扱えないのならもう使わせませんから」
腕を組んで見下ろすようにしてママは言った。そして,ゲーム機を片手に部屋を出ようとした。
その時、カズキがベッドから飛び上がってママに飛びついた。
やめなさい! と叫んだときには,ママは階段から転がり落ちるところだった。
ママは全治三ヶ月の骨折で,数日間入院することになった。物心がついた頃からパパがいなかった私たちの家には,しばらくの間姉弟二人で生活することが強いられた。
「どうしてあんなこをしたの」
家までの帰り道、カズキに話しかけた。唯一会話を交わしたのはその言葉だけだ。きっと,カズキにはその答えは分からない。瞬間的に湧き上がった怒りが思わぬ形で表出したのだろう。ママの背中を押したあと,何か処置をするでも,救急車をヨブでもなく呆然としていた和希の顔は,身体から全ての地が抜かれたかのように青ざめていた。本人にも理解が出来ていないことなのだから,聞いたって仕方が無い。そんなことが想像できたから,問いかけるわけでもなく呟いたその言葉は,二人の間をふらふらとさまよって宙へと消えていった。カズキと私の間のやりとりとも言えない会話は,それが最後になった。
「どうしたらいいんだろう」
明日、ママが退院するというのに,私は思い詰めていた。
カズキが部屋にこもって二日目に突入した。
「ご飯、ドアの前に置いておくからね」
お盆に湯がいたパスタにレトルトのソースを和えただけの簡単な昼食にサラダを添えたものを床に置いた。そして,朝置いたままに放置されたあんことバターが載ったお皿をキッチンへと運んだ。
簡単に自分の食事を済ませて,自分の部屋に戻った。机に座り,目の前に置かれた機械を手に取る。画面が割れたディスプレイ。電源を入れると,割れ目の部分に沿って液晶画面が滲み,しばらくすると電源が落ちる。修理にでも出すか,新しいものを買わないと使えそうにない。部屋にこもったカズキは,もうこの機械には無関心となって別のゲームに没頭しているようだ。
はあ,とため息をついてゲーム機を机の隅にのけようとすると,違和感に気づいた。画面が今までになかった表示をしている。カチカチと点滅したかと思うと,「ようこそ」という文字が黒い画面に白抜きで書かれている。
頭の中で何かが切れる音がした。
「何よ! こんな訳の分からない機械があるせいで私たちの家族はめちゃめちゃじゃない! 返して・・・・・・私の家族を返して!」
気づけば,涙ながらに叫んでいた。
「ようこそ。この素晴らしき世界へ」
不気味な声とともに,私の視界が歪んでいった。
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