第拾六話 彼の物語


 僕は……首を傾げることになった。

 ゆっくりとこちらへ差し伸べられた彼女の手には、一本の万年筆が握られていたからだ。


 これは? と問う間もなく、彼女は厳かに言った。


「これは、世界創造のペン。あたしは世界を託されたの」



 思わず、あたりを見回す。


 いつもと変わらぬ、小さく薄暗い彼女の部屋。

 申し訳程度に付いた小さな窓からは、裏庭の貧相なアオキの植栽が見えるばかり。

 その小さな窓の下に設えられたのは、この部屋で唯一の立派な家具である文机。彼女の唯一の嫁入り道具だと聞いた。重厚な彫刻を持ち重い光沢を放つその机の上には、数本の鉛筆と紙が散らばっている。その脇には簡素な寝台と、揃いのサイドテーブル。

 小金持ちな家の奥方のものとしては貧相過ぎる、質素な部屋。質素ながら、いつもどおり清潔な彼女の砦。でもなんだか、別の次元へスッと移動してしまったみたいな気分だ。



「……わからないな。一体、どういうことだろう」


 いつになく熱を帯びた彼女の眼差しに少々たじろきながら、僕はなんとか声を発した。急に部屋の空気が重くなり密度を増してゆくようで耐え難い。無性に喉が渇く。


 世界を、託された? どういう意味だ? もしや、彼女はとうとう……



「想像力が地球を回す。創造の力が、この世界が続いて行く原動力なの。そして文章力に長けたあたしが、その力を託された。でも」


「ちょっと待っておくれ」

 僕は手にしていたステッキを簡素な寝台に立てかけ、マットの端っこにどさりと腰を下ろした。彼女の視線に圧迫され、息が苦しい。白くぬめらかに光る彼女の目から一瞬でも逃れたかった。


 ネクタイを緩め、僕は大きくひとつ、息をついた。胸のポケットから糊の効いたハンカチーフを取り出し、額の汗を拭う。


「順を追って説明してくれるかい? ゆっくりと」


「いいわ」



 彼女の話は、荒唐無稽としか言い様がなかった。だから僕は、こう思ったのだ。彼女はついに、気が触れてしまったのだと。


 そう思うのには理由がある。


 彼女がこの家に嫁いできて数年、姑にいびり倒されながらも子を産んだが、子供はすぐに全て取り上げられ本家に送られた。夫はよそに女を作って遊び歩いている。そして彼女はひとり、こんな狭く質素な部屋に押し込まれ、頼れるものなど誰一人居ない。

 故郷にあてて書いた手紙さえ、姑の手で検閲された後でなければ出すことも許されない。

 そんな環境で生きていたら、気が狂うのも時間の問題だ。僕はずっとそう危惧していた。だから彼女の心に寄り添い、支えてきたのだ。



「ねえ。あなたは、私の頭がおかしくなったのだと、そう思っているのでしょう」


 彼女が、低く呟いた。湿った冷気に首筋を撫でられた心地がする。だが、僕は彼女の目をまっすぐに見つめ返した。


「そうではないよ。ただ、キミの話はにわかには信じ難い。だって、そうだろう? 『書いたことが現実になるペン』だなんて」



 ことりと小さな音を立てて真珠色の万年筆を文机に置き、彼女は簡素な椅子に腰掛けた。木製の椅子が、微かに軋む。


「あなたが主人を訪ねていらした、最初の日よ。その日の晩、この万年筆がここに突然現れたの。見慣れぬ万年筆だったから、あたしは先ず、あなたの置き忘れではないかと思った。でも、そんなはずはないの。あなたはあの日、この部屋へは来なかった。応接間であたしのお出しした珈琲を飲んだあと、主人と連れ立ってすぐに出て行ったんだもの」



 その日のことは、よく憶えている。


 2年程前の話だ。久々に旧友を訪ねてきたら、その細君にもてなされた。儚気で、どこか哀し気な微笑みを湛えるその女性が、彼女だった。その日はすぐに暇を告げたものの、風に溶けて消えてしまいそうな風情の彼女が気になり、なにかと用事を作っては通うようになったのだ。



「そのペンを手に取った時、頭の中で声がしたの。君には、資格がある。力がある、って」


 頭の中で声がするなんて、完全に病気の兆候だ。しかも、それが2年も前に始まっていただなんて。気づかなかったのは、迂闊だった。僕は彼女の一番近くに居たのに。


「想像力で、世界は回る。頭の中の声によれば、人々の想像力が不足すると地球の回転は止まってしまうんですって。だから『能力者』が物語を書いて、人々の想像力をかき立て続けなければならない………でもあたし、どうでもいいと思っていたわ。世界なんて、勝手に終わればいいって」


 なんとも非科学的な話だが、彼女の声は平静だ。目つきにこそしずかな熱狂をはらんでいるけれど、態度は一貫して落ち着いている。動揺しているのはただ、僕の方だった。


 落ち着こうと、僕は乾いた唇を湿らせた。その動作は、微かにねちっと音を立てる。彼女はそんな僕を見つめたままゆっくりと瞬きをして、ほんの少し、唇の端で微笑んだ。



「気が変わったのは、あなたがその翌日にあたしを訪ねてきてくれたから」


 諸々の後ろめたさからか、愚かなる我が友人は、僕が彼女の元へ通うのを止めなかった。それどころか幾度も苦言を呈する僕に、適当に彼女の相手をしてやってくれと頼みさえしたものだ。昔から、面倒ごとからはとことん逃げる奴だった。



「あたし、あなたが聞かせてくれるお話が、楽しみだった。本当に楽しみだったの。そして、それを参考にして、物語を書いた。この、創造のペンで」



 恐ろしい予感が走った。いや、予感というより戦慄と言うべきか。


 僕のこの気持ち。最初こそ、気の毒な状況に同情しただけだったかもしれない。だが、会ううちに急速に彼女に惹き付けられていった、この気持ちも?

 わずかに手も触れることさえなく、密かに心を通わせ愛を囁きあったあの日々も?

 全て、ペンによって彼女が造り出したものだというのか?


「もしかして、ボクのことも……書いたのか?」


「いいえ」

 即座にそう答え、彼女は文机の引き出しから綴り紐で閉じられた紙の束を取りあげ、僕に差し出した。


「あなた自身については、一言だって書いていない。それに、誰も傷つけてない。大半は、あなたが家に来られる日に都合良く人を払っただけ。全部、あたしが書いた通りになったわ」


 一向に手を出さない僕に業を煮やしたのか、彼女は僕の手に紙束を押し付けた。


「それが、あたしが今までに書いた全部よ。あまり突飛なことは書けないの。いいえ、書くことはできるけれど、この世の成り立ちにそぐわない内容だと文章が消えてなくなってしまう。それに、人が自ら死に向かうようなことも書けない。それは人の生存本能に反するから、ペンで操れることではないの。だからせいぜい、事故死か病死に持ち込む程度ね」



 彼女は視線を外し、静かにため息をついた。その物悲しい風音は、ひそやかに床に落ちた。ゆるやかに纏めた髪の後れ毛が、細い首筋にはらりと揺れる。


「あたしは大切な人を、あなたを、自分に都合よく操ったりしない。そんなこと絶対に、しない」


 彼女に促されるまま、僕はそれらの物語に目を通した。そして、その筆力に瞠目することになった。彼女は登場人物を無理なく動かし、効果的に些細な事件を起こしてはそれを収め、彼らの感情を巧みに盛り立てていた。

 それは、人を操っているに違いないかもしれない。だが、彼らに起きる様々な出来事は、全て最後には温かな気持ちになれるよう結ばれていた。



「……悲しいことは、もう嫌なの。だからあたし、別世界の話を書いたのよ。今ある世界とは、全く別の。そこには意地悪なひとも居ない。大きな争いもなく、みんながゆったりと、仲良く幸せに暮らしている」


 机上に散らばっていた数枚の紙をトントンと纏め、僕に差し出した。そして、最後の頁を指し示す。


「でも、最近おかしな事が起きてるの。書いた文章が消えてしまう。あたしの知識では書ききれない何かが、向こうで起きている。物語が勝手に進みはじめ、そして破綻しようとしている。このままでは、世界が終わる」



 彼女の言いたかったことが、今やっとわかった。


 僕と会う中で彼女は新たな知識を貪欲に吸収し、気力を育て、自信を取り戻した。それはまるで、今にも萎れそうだった花が高く頭をもたげ、美しく復活を遂げる様を見るようで、僕を悦ばせた。

 もうじき彼女は婚家を飛び出し、遠く離れた地で生き直すのだ。そのためならいくらでも力を貸そうと、僕は思っていた。



 でも、そんな次元の話じゃなかった。距離の問題ではなかった。


 彼女の言う、。そこへ、僕について来いというのだ。



 陶然とした表情で、彼女は卓上の美しい万年筆を取り上げた。


「あたしたち、創世者としてあの世界へ降り立つのよ。あたしが書き上げた、別の世界へ。そこであたしたちは、神になるの」


 万年筆のキャップを外し、彼女は繊細な模様のあしらわれたペン先をうっとりと見つめる。


「あたしは彼らを愛してる。あたしが生み出した、あたしの物語子供たち。そして子供たちは命を繋げ、世界は美しいまま、ずっと続いていくの。あたしはあの世界に責任がある。このまま消えさせは、しない」



 謳うように呟く彼女の白い肌を、夕日が緋く染めあげる。自らの熱で焼かれるかのように。


 ずっと謎だった。彼女がボクなんかのどこに惹かれたのか……

 彼女は、愛する対象を欲していたのだ。思うさま愛情を注げる相手を。

 夫に去られ子を奪われ、孤独な日々。そこへ突然現れた、僕と、世界を創る謎のペン。彼女は切実にそれを愛し、狂おしく熱望した。叶わなかった、幸せの代わりに。



 彼女は、たとえ独りでも行くだろう。


 その行き先が、彼女の言う通り異世界の神として昇るのか、このまま狂気の淵に堕ちていくのかは、わからない。ただ、彼女はこの世界を見限り、自らが作り上げた世界に飛び込みそれを護ることを選んだのだ。


 だから、これだけはハッキリしていた。

 ここで彼女の手を離してしまったら、僕たちの縁はそれまでだということ。


 ……いっそ、強引に彼女を奪い出奔してしまおうかと思った事もあった。だが彼女は気高い人だ。不貞行為とは、己ばかりか愛する相手を貶めること。そんな関係を、高潔な彼女は許さない。

 だから僕は手をこまねくばかりで、何もできなかった。こんなに近くに居ながら。



「一緒に来て。あたしが世界を立て直すのを、あなたに手伝って欲しいの。そして」


 彼女は言葉を飲み込んだ。そこには今までとは一転、怯えの混じった懇願の瞳がある。喪失と悲しみ、理性と狂気、愛情と渇望。全てがそこに凝縮されている。僕の瞳にもきっと、同じものが映っている。熱く昏い炎が舐めるように心臓を焦がす。


 僕も、ずっと思っていた。ここではない、どこか別の世界でなら………



「そして………あたしを、愛して」


 彼女は僕を見つめ、それからゆっくりと手を伸ばしてくる。



 僕は……彼女の綴る、優しい物語の数々を思った。そして、彼女の望む、ここではない優しい世界を。ふたり寄り添って生きられる世界を。


 その細い手を取り、そっとくちづける。

 近かろうが遠かろうが、正気だろうが狂気だろうが、構うものか。彼女が狂っているのなら、僕も一緒に狂うまでだ。僕は、この手を離さない。



「一緒に行こう。どこへでも」



 そうして僕たちは手を取り合い、そこへ飛び込んだ。

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