第19話 緋い眼のエマトール



 驚いて目を見開いたエマトールが、さっと顔を伏せて体の向きを変えた。狭い部屋の中にはたくさんの荷物が積まれており、あまり身動きは取れない。


「エマトール、あなた……」


 両腕で顔を覆い隠し、エマトールは完全に背を向けた。

「見ないでくれ……」



 目があった一瞬。


 そこに見えたのは、あかく透き通った瞳だった。昏い炎のような、燃える夕焼けのような、滴る血のような、あか



「その目……」

「今朝起きたら、こうなってた。泉に映った顔を見て、驚いたよ」


 驚いた、なんてものじゃないことを、ハスミュラは知っていた。エマトールの感じた恐怖と悲しみを、そのほんの一部を、ペンダントを通じて自分も感じたのだから。


「もう満足したろ。帰ってくれ。そして両親に言ってくれよ。お前らの息子は化け物になったって」


 エマトールの背中が、小さく震えていた。ハスミュラはそっと近づき、その背中を柔らかく抱きしめた。


「そんな風に言わないで」


 背中に額を押し付け、低く語りかける。この気持ちが、背中から伝わるように。

「あなたは、化け物なんかじゃない。ただのエマトールよ。将来、私の夫になる人」


 エマトールは両腕を上げ、ハスミュラをそっと振りほどいた。

「馬鹿言わないで、もう帰ってくれ。ここへは二度と来るな」


 拒絶されたハスミュラは、エマトールの背中を見つめたまま静かに離れ、入り口で立ち止まった。

「いいえ、また来ます。毎日、この時間に。私、諦めないから」



 ハスミュラは踵を返すと、小さな部屋を出た。置いてあったバッグから、食糧や衣類を全て取り出して、入り口の脇にまとめる。


「かあさまがいろいろ持たせてくれたの。よかったらこれ、使って。明日も食べ物を持ってくるわ。温かいものがいいわね……そしたら、今日より少しだけ、遅くなるかもしれない。いいよね?」


 やはり返事はない。


「とりあえず、このことは誰にも言わない。ううん、やっぱりオババには相談してみようか」


 その沈黙を「好きにしてくれ」という意味に、勝手に捉えることにした。


「じゃあ、今日はこれで帰るけど………ねえ、エマトール。あと2ヶ月もしたら、ウグイスカグラの実がなるわね。透き通った、真っ赤な実。あなたの眼、その色に似ていて……私は好きよ」




 翌朝、宣言通りハスミュラは洞窟の奥に居た。扉の奥のエマトールに語りかける声は、普段の彼女となんら変わらない。


「オババに言われて私、麓の「知の蔵」へ行ったの。キシネリコのお兄さんが、書の管理をしてる蔵、知っているでしょう? 話には聞いてたけど、実際に見たらすごい所だったよ。目が回るくらいすごい数の書が保管されてた」


 ハスミュラは瞳を輝かせ、興奮を抑えきれない様子で続ける。

 

「私の好きそうな、薬草や染料の書もあるんですって。読んでみたかったけど、それは後回しにしたの。だって、まずはシキミのことを調べなくちゃ。そうでしょ?」


 相変わらず返事はなかったが、構わず話し続ける。


「前にシキミが現れたのは百年以上も前。そのシキミも、あなたと同じくマガリコを亡くしたそうよ。そして緋い眼を得た。それでね」


「緋い眼を、得た? 僕は、こんな眼なんか欲しくなかった」



 初めてエマトールが発した声には、憤りと悲嘆が滲んでいる。気の毒にも思ったが、ハスミュラはやめなかった。


「私が言ったんじゃないわ。書に、そう書いてあったの。それってつまり、シキミの存在は善きものとして捉えられてたってことじゃない? 私はあれを読んでそう感じた」

「知らないよ、そんなこと。書がどうだろうと、シキミは皆に怖れられて忌避されたんだ。言い伝えじゃ、そうなってるじゃないか」



 ふぅむ……とハスミュラは鼻を鳴らした。


「たしかに、言い伝えではそうみたいね。でも、少なくともあの書を記した人は、シキミを嫌ってなかった。そして私も、あなたを怖がったりしない。絶対に」


 岩の扉の向こうで、エマトールが身じろぎした気配がした。ハスミュラは声に力を込める。


「ねえ、自分の目で実際に見てみたらいいわ。書の貸し出しは禁止だから、一緒に調べに行こう」



「……僕は行けない」


 短い沈黙の後、そう言った声には残念そうな響きがあった。


「この眼になってから、光が眩しくて仕方ないんだ。太陽の光も、火の光も。逆に、暗い中ではよく見えるんだけど……」


「まぁ、そうだったの……」ハスミュラも声を落とす。


「だからさ、あの……その灯りをもっと遠くへやってくれたら、ここから、出られるかもしれない」



「…エマトール!!」


 さっと立ち上がると目にも留まらぬ速さでランプを掴み、ハスミュラは泉の向こうまで走った。ランプを床に置き、光をバッグで遮るようにしたので、帰りは暗い中を慎重に歩を進める。


「できたわ。ランプは遠ざけた」

 


 ごとり、と小さいけれど重たげな音がして、空気が揺れた。扉の影から、エマトールがおずおずと姿を表す。ハスミュラは物も言わず、エマトールの首に飛びついた。


「ちょっと苦しいよ、ハスミュラ」

「あなたが悪いのよ。エマトール」


 少しだけ離れて、ハスミュラはエマトールの目を覗き込んだ。


「眩しくない?」

「うん。大丈夫」

「じゃあ、もっとよく顔を見せて」


 エマトールは少し困ったように微笑んで、ハスミュラを見つめ返す。


「前よりちょっと、痩せたね。でも、その眼は素敵よ。あなたの黒髪によく似合う」


 恥ずかしそうに眼をしばたかせ、エマトールは視線を少し逸らした。その時、メジロがハスミュラの髪をそっと引っ張った。


「え? ヒタキ? そうね、エマトールの綺麗な黒髪と緋い眼は、ヒタキの瑠璃色ともよく合ったでしょうね」


 メジロはぶんぶんとかぶりを振って、エマトールの腰にある皮袋を指差した。


「そこに、ヒタキが……いる? 違う? って、どういうこと?」


 最後の言葉はエマトールへ向けたものだ。メジロは興奮し過ぎていて、言う意味が上手く伝わらない。



「ああ、これ……」


 エマトールはメジロを気遣わしげに見ながら、皮袋からそっと白い小石を取り出し、見せた。


「オババに教わった通りに、ヒタキの亡骸を泉に葬ったんだ。そしたらあっという間にこんな風になっちゃって……思わず、掬いあげてしまった。それが正しいのかどうか、わからないけど……どうしても手放す気になれなくて」


 メジロはエマトールの手のひらに飛び移り、白く滑らかな小石に顔を寄せた。目を閉じて、小石にそっと頬ずりする。



「メジロ……」

「ありがとう、メジロ。ヒタキもきっと喜んでる」


 エマトールの腕を登って首にぎゅっとしがみつくと、メジロはハスミュラの肩に飛び移り、エマトールが皮袋に小石を収めるのを見守った。



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