第3話

 二人の校長が「卒業証書」の言葉に続いて名前を読み上げ、「以下同文です」と僕に証書を差し出す。

 だがそこで僕は面食らってしまった。

 二人ともが、ババ抜きでもするみたいに裏返しで三枚ずつ、僕の前に差し出してきたのだ。

 予想外のことに呆然としている僕に、「どうしました?」と奥側の校長が言う。

 自分の身に何が起きているというのか。ますますわからない。

 得体のしれない恐怖が纏わりついてくる。

 とにかくその場から逃げ出さなくてはと、証書を一枚ひったくり、そのまま体育館から走り去った。


 屋上への扉に体当たりをすると、なぜか手応えなく開いてしまった。

 勢いそのまま、つんのめってうつ伏せに倒れてしまう。

 およそ現実とは思えない出来事に見舞われているというのに、打ったり擦りむいたりという痛みはしっかり感じるらしい。

 荒くなった呼吸を整えようと仰向けに寝返った。

 青白い空が拡がっている。

 ヒュウヒュウと風の音が寒々しい。不意にカシャンと、緑色のフェンスを誰かが揺らしたような音がした。

 驚いて飛び起きると、音のした先、フェンスの向こう側で、ひとりの女子生徒が校舎の縁の高くなっている所へ足を掛けて登ろうとしているのが見えた。

 顔は見えないが後ろ姿に見覚えがある。

 なんとなくピンクがかったセミロングの髪。ブレザーの裾からハミ出たキャメルのカーディガン。短いスカートからこれみよがしに伸ばしている細長い脚をさらに強調するような短い丈のソックス。

 直接面識があるわけではないが、学校内では有名な女子生徒に違いなかった。


「伊奈さん!」


 駆け寄りながら叫ぶと、彼女は振り返った。

 僕はフェンスをよじ登ろうと金網を掴む。

 だがその手を目掛けて、彼女は飛び蹴りを放ってきた。

 驚いて飛び退いた僕は尻餅をついてしまう。


「来んじゃねぇ!」


 ものすごい剣幕で彼女が言い放った。

 目が血走っているというか、まるで怒りが全て黒目に凝縮されているみたいだ。

 美人でも本気で怒ると恐ろしいのだと、僕は生まれてはじめて知った。


「い、いやその、違くて。なんというか、僕も、そこから飛ぶから」

「はぁ?」

「あ、じゃ、じゃあ僕が先に飛び降りるんで。それから、伊奈さんが飛ぶかどうか決めるってどうだろうか?」

「なにお前。キッモ」


 なんでそんな事を言われなければならないのか。つくづく厄日だ。

 とにかく再びタイムリープするにしても、伊奈さんの飛び降りを止めるにせよ、向こう側にいかなくちゃならない。

 恐る恐るフェンスに手を掛けてみる。

 キックは飛んでこない。

 どういう心境の変化かわからないが、とにかく再び危害を加えられることは無いようだった。


「あたしに近づいたら殺すからな」


 そう言うと彼女は校舎の縁に上り、両足を街並みの側へ投げ出すようにして腰掛けた。

 フェンスを乗り越えた僕も、あまり近すぎない所で彼女と同じようにして座る。


「で、あんた誰?」

「あ、えっと、四組の丹野、おんなじ学年の」

「知らねー」

「ま、まあ伊奈さんみたいに有名ではないから」


 言ってからしまったと思った。

 伊奈さんに対して”有名”というと、学校内では二通りの意味がある。ひとつは可愛いだとか美人だとか目立つ容姿について。もうひとつは、いわゆるビッチと揶揄される所以となっている数々の噂について。

 案の定、舌打ちが聞こえてきた。

 またあの目で怒られはしないかと横目がちに彼女の様子を窺う。

 だが、僕の方には目もくれず、真顔でずっと遠くの方を見つめていた。少し猫背気味に、縁に据えた両腕をつっかえ棒にしながら。鼻歌でもうたってるみたいに、ふよんふよんと膝下を上下させて。

 少し強めに風が吹いた。

 絹糸のような彼女の髪がたなびく。

 滑らかな顎のラインが顕になる。

 口ぶりからは予想外なほど柔らかそうなその質感に、僕は思わず呼吸を忘れた。

 恋だろうか? そうではない気がする。そういう部分もあるかもしれないけれど、違う。美しいと思った? それはそうかもしれない。

 とにかく、彼女は飛び降りて死のうとしている。それだけは絶対におかしい。世界の法則に反している。

 自分の事なんて完全に棚に上げて、そんな事を考えていた。


「早く飛びなよ」

「へ?」

「待ってんだけど」

「あ、ああ……、うん」


 眼下には常緑樹とアスファルト。裏門から昇降口の方へと向かう通路だ。

 二度も踏み出しているせいか、さほど恐ろしいとは感じない。そもそも、いまさら未練がどうこうという話でもない。どうせ時間は戻るのだ。

 ただ、やっぱり落ちたら痛いのだろうとは思う。まだそれぐらいの想像はまともに出来るらしい。


「伊奈さんは、怖くないの?」

「は? ……ちょっと何、ビビってんの?」

「い、いや全然! び、ビビってない! ホントに!」

「はぁ……。ったく」


 苛立たしげに眉根を寄せた彼女は、おもむろに立ち上がった。

 風でスカートがはためく。

 下着が見えてしまっていることなど気にも掛けず、両手を裏向きに組んで大きく伸びをする。「ん、ん」と悩ましげな声の後で、「はあっ」と息を吐きながら脱力した。


「よし」


 両手を腰に当てて威張るようなポーズを取る。

 表情はまるで徒競走にでも挑むみたいに気合に満ちていた。

 飛び降りるというよりも、ここから飛び立とうとでもしているみたいだ。


「ちょ、ちょっと待って!」

「ああもう、うっせえ! 時間の無駄! ドーテーは勝手にひとりでイッってろ!」

「ど……、はあ!?」


 さすがの僕も立ち上がって、抗議の姿勢を示す。

 いや、図星だから抗議のしようはないのだけれど、今ここで童貞呼ばわりされる筋合いはない、はずだ。


「え、嘘……、違うの? ドーテー要素しかないのに……?」


 彼女は戸惑うように顎のあたりに手の甲を当てて、なよっと体をくねらせた。

 僕の脳裏に、少女漫画かなんかに出てくる令嬢がショックを受けている絵が浮かぶ。

 彼女が今どういう感情なのか皆目見当もつかないが、とにかく馬鹿にされているのだけはよく分かった。


「ち、違わない、けど! それとこれとは話が違う!」

「そうかそうか、可哀想に。ドーテーのままご臨終か……。お察し、お察し」


 彼女に拝まれてしまった。

 恥ずかしいやら、腹立たしいやら。

 でもせっかく付いた勢いだ。このまま聞くべきことを聞いてしまいたい。


「ドーテーだって、君が死のうとする理由ぐらい聞いたっていいだろ!」


 伊奈さんは急に真顔になった。

 上空を滑っている風のような冷たい声が、艷やかな薄桃色の唇から流れてくる。


「ちゃんと、死んでみたいから」

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