第15話

 履き揃えられた玄関に「ただいま」と呟くと、「おかえり」の代わりに怒号が飛んできた。肩が露骨に跳ねて、水気を帯びすぎた靴を脱ぐ。感情の発露に慣れていないその声色で、怒号の主が誰かわかった。

 父と和明がダイニングテーブルを挟んで対峙していた。父は呼気の荒いまま、極端な音量で怒気を強めている。一方の和明も大概は黙って、しかし時折過激な語気で応戦した。テーブル中央部では緩衝地帯のように置かれた烏龍茶が彼らの声のたびに微かに揺れていて、台所で立ちつくす母の身体の揺れと同じリズムを刻んでいる。

 僕はそそくさと二階に逃げ込もうとした。こういう面倒事は好まないということもあるのだけれど、それよりも、画材屋から引きずったこの憂鬱な感情に油を注ぎたくはなかった。二階に籠って、合唱曲でも聴きたい気分だった。

 しかし僕がドアを閉めようとすると、和明の視線が僕にぶつかった。冷ややかで、呆れたような目つきだった。僕は瞬時、しまったと思ったけれども、和明が相手だということもあって、たまらず睨み返した。リビングで三角を描くように、僕と和明の間に不可視の一線が結ばれた。

 お前はいいよな、気楽で。僕とは違い大きくくっきりとした和明の両目はテレビのコメンテーターよりも雄弁だった。視線を通して僕の胸元に奴の唾が飛び、和明の卑しいにやけ面がもうそこまで来ているようだった。

 僕はその唾を払いながら、だんだんと苛立ちが膨大になるのを感じ、なら聴いてやるよ、と僕は閉じかけたドアをもう一度開いてソファに座った。テレビを眺めるふりをして、和明に背中越しで反論を語ったつもりだった。顔なんて見ていないのに、和明の鋭い口元がちらついた。

 どうやら僕は喧嘩の大きな山場に来たらしく、二人とも断片的なことを生の感情でぶつけている。おかげで何の話かはわからない。けれどもその怒鳴り合いの起伏は、聴きようによっては曲の構成に近いものがあった。

 次第に互いの感情の純度が高まる。どっどっどっ、と連鎖的に言葉が投げ出される。窓に勢いの良い父の起立が写る。瞬間の沈黙。サビがくる。


「お前もか……」


 サビにしては振り絞るような声だった。力なく父は椅子にもたれ、母の啜り泣きが轟き、和明はさらに怒り狂って言葉を放つ。ソファーは硬さを増して、烏龍茶が揺れた。モザイクの世界が僕に蘇った。

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