hako 〜たった一つの宝物〜

@kyoushi

高校1年・冬

I always wish your happiness.


彼女に宛てた最初で最期の手紙だった。


「もう会わない」

突然のことで、全く予期していなかった彼女の発言に私が言葉を失っている間に彼女はそそくさと人ごみの中へ姿を消して行った。私は追いかけることも、呼び止めることも出来ずに、ただその場に立ち尽くし、背中まで伸びた彼女の長く黒い髪の毛が去って行くのを呆然と眺めていた。人の賑わう並木道には木の葉の絨毯が敷かれていた。

 16歳。高校1年生の冬だった。失恋は初めてではなかった。今までにもこうして別れを告げられたことはあった。今回も互いの関係がそこまで冷え切っていたことにすら気がつかなかった。

 一方で私の心は冷静だった。今まで交際した女性の全てが、女性の方から別れを告げてきたからだ。いつも女性の方から告白してきて、去って行くのも女性の方だった。従って私はまだ一度も女性に告白をしたことがない。今回もある意味お決まりのパターンなのだ。


 私の家は祖父の代から商売を営んでいる。この辺りでは老舗の部類に入る写真館だった。昭和の初期から祖父は写真を撮り続けている。私の父もまた祖父の後を継ぎ写真館で働いている。家には大きなカメラが沢山置いてあり、沢山の肖像写真が飾られている。私はそこの三男坊として生まれた。

 長男は堅実、真面目を絵に描いたような人物で、長男として親の期待を背負い、私が高校入学と同時に海外留学して行った。次男はこれまた学業がよく出来て、県内でも1、2を争う、両親の母校でもある進学校に入学した。

 幼い頃から私は二人の兄たちとは相容れないところがあり、私は特に父の店で遊んでいる時間が長かった。

 店には様々な客が訪れ、遊び相手には事欠かなかった。アルバイトのお姉さんや、いつも酒臭いおじさん、カメラマン志望のお兄さん、近所のおばさんや、いつも犬の散歩の途中で寄るおじいさん。11月は同年代の子供たちが綺麗な衣装を着て写真を撮る。1月には振袖のお姉さんが写真を撮りに来る。出産、お宮参り、家族写真、証明写真に普段のスナップ写真の現像。写真館にはいつも人がいる。

 私は、誰にでも臆することなく遊んでもらえる子供で、人見知りを知らない性質だった。子供心に父の職場は楽しかったのだと思う。沢山の人がいて、訳の分からない照明器具や撮影機材、カメラが並び、兄たちと過ごす2階の自宅よりも居心地が良かった。一度興味本位で、暗室の中に父と入った時に現像液の入ったタンクをひっくり返してしない、しばらく店内立ち入り禁止を食らった。そうだ。

 実は、私には、小さい頃の記憶がほとんどない。今までの話は両親から聞いた話。10歳よりも前の記憶はほとんどない。なぜかはわからない。

 ともかく、そんな幼少期を過ごした私は16歳で普通の県立高校に入学した。入学してからも私は年上の先輩たちと行動をともにすることが多かった。交際する女性も年上の女性ばかりで、同い年や年下と付き合うことはなかった。別段、苦手意識があったわけではないけれど、歳上の一緒にいる方が楽だった。この頃の1歳違いは、自分よりも沢山のことを経験していて、すごく大人に見えた。自分が幼くても、愚かでもそういう歳上の人に甘える環境に居たかった。

 同学年の中にはそんな私を批判する人もいたが、私は気にも留めなかった。言いたい奴には言わせておけばいいと開き直っていたし、「虎の威をかる狐」のような行いもしていないし、他人に迷惑をかける訳でもない。私はただ、自分が魅力的に感じた相手を一緒にいるだけで、批判的な人間はきっと嫉妬しているただの精神年齢の低い奴だ。三男には三男の苦労がある。うちは三匹の子豚のように三男が優秀ではないが。

 私は、高校入学と同時に一人暮らしを始めた。学校近くのアパートに部屋を借りてそこから通学していた。幸い、家の商売の方はうまく行っているみたいで、経済的に厳しいということもなかったようだ。むしろ、留学している兄のように家を出てくれた方が、共働きで忙しい両親にとっては有り難かったかもしれない。一人暮らしを申し出た時、勉強を疎かにしないことだけを条件にあっさりと承諾された。私は、同年代の皆が思うように、早く大人になりたかった。人に一人前として認められ、自由になりたかった。そこには責任がついて来ることも自覚していた。

 私は自分の身の回りのことをするのが好きだった。アパートから学校までは自転車で3分だった。アパートと学校の間には坂道と林があるので、学校からアパートを見ることは出来ない。毎朝、一人で起きて、朝食を作り、洗面をし、学ランを着て登校する。家に帰れば、掃除、洗濯、アイロンがけまでこなす。同年代が経験していないであろうことを自分は経験しているという優越感が私を動かしていた。

けれども、常に大勢の人の中で育った私にとって、初めて経験する孤独というものは耐え難かった。部屋に帰ると、誰もいないのに、「ただいま」と言ってしまう。「おかえり」と言ってくれる人のありがたみを知った。一人でいると独り言も多くなった。一緒にいることが当たり前だった家族も離れて見ると、客観的に見ることが出来た。いつも私の身の回りの世話を焼いてくれた母、たった一人で海外にいる兄、私は彼らの苦労を何も知らずにいたのだ。

 高校入学してしばらくすると、私は仲良くなった先輩やクラスメイトを部屋に招くようになった。彼らをもてなすことが好きだった。血筋だろうか、人が喜ぶ姿を見るのは楽しかった。このころお酒の味も覚えた。一晩中、お酒を飲みながら語り明かしたりして、徐々に人の輪が広がっていった。部活の先輩や、地元の中学の先輩、その友達、高校1年生から3年生まで様々な人たちが私の部屋を訪れていった。

 一方で私は親との約束も律儀に守っていた。無遅刻無欠席で、学業の方もまぁ平均並みはとっていた。

 一人で困るのは、病気の時だった。風邪で高熱が出て寝込んでも栄養価の高いものを食べられず、なかなかよくならない。それでも忙しい両親に連絡せず、学校も休まず、バイトも部活も行った。病気の時や、台風の時などは一段と孤独の寂しさが増す。

 そんな自由な一人暮らしの中、何人かの女性とお付き合いしたが、アパートに泊まりに来たがるような女性を私は意図的に避けていた。私は今の自分の生活を気に入っていたし、毎日着実に成長していくことに充実感を持っていた。特定の人物に生活空間を乱されたり、束縛をされたりすることは望まなかった。綺麗にしているキッチンを汚されたり、朝なかなか起きて来なかったり、お気にりの朝の一杯のコーヒーを違うものがいいと要求されたり、物がなくなったりするのは、誰かが泊まりに来たというたまにしかないイベント時ならば我慢できる。しかし毎日のこととなると話が違う。彼女を家に泊めることはしない。必ず夜になると彼女を送った。私は昔から、女性に対しては控え目で、女性の半歩後ろを歩く位がちょうどいいと思う人間であったが、その部分だけは頑固に譲らなかった。ところが、私は、スキンシップに関して言えば、大胆であった。人前で手を繋ぐことも、肩を抱いたり、抱きしめたり、くすぐりあったりすることに関してなんの抵抗もなかった。彼女にもよく注意されたが、私は理解できない。仲が良くなれば、スキンシップすることは当然のことで、大人が考えるような性的意図など皆無であったし、そんな目線で見たり、そのことで嫉妬することの方がよっぽどいやらしいと感じていた。私はそこから派生する性的な誤解や、批判といったことについて考えを改めなかった。

 そんな私にいつも適切なアドバイスを与えてくれるのが、

中学時代からの親友、|森谷茂《もりたにしげる》だった。

「里中君の行動力には感心するけど、女性に対しては少し慎重になった方がいいよ。」

 女性のように優しく、穏やかな口調で話す彼の話し方がとても好きだった。同い年なのに、彼は落ち着いていて、人と話す才能がある。身長160cmで小柄でおとなしそうな彼だが、彼は人に流されない、自分の意見を持っている。自分のことは自分で決めるし、親友の私にもの滅多に頼らないし、愚痴も言わない。そういう頑固なところも好感が持てた。

 私は、彼のいう通り、「思い立ったらすぐ行動」ということが度々あった。思慮深さが足りない、単細胞。

 ある時、「海が見たい」と思い立って、リュックひとつで自転車に飛び乗り、夏の太陽に焼かれながら、60km先の海まで行ったことがあった。当然、帰る気力がなくなり、親に迎えに来てもらうという始末。またある時は、「旅がしたい」と思い立って、夜行列車に乗って、一人で600km先の京都まで行って親に心配をかけたこともある。

そんな無鉄砲な私の話を聞いても、森谷は

「里中君は、AB型で、A型の几帳面に自分の身の回りのことができる真面目さと、B型の自由奔放な行動力を両極端に備えていて、いいね。AB型の人は変な人もいるけど、天才や芸術家の人も多いしね。うらやましい。」

と私を肯定してくれる。だからかといって彼が、そんな私と無謀な行動を共にすることは一度もなかった。彼は常に冷静沈着だった。彼は客観的な傍観者であると同時に、親身に相談に乗ってくれる良き理解者でもあった。

 彼は彼でそんな私の行動力には憧れを抱いているようであった。彼の家は古い農家で祖父母と両親、それに3人の姉と大家族だった。彼は末っ子にして長男という両親にしてみれば待望の跡取り息子であった。彼への両親の期待は大きく、躾の厳しい家のようだった。彼は朝から家の畑仕事をしてから登校する。彼のたっての希望で、高校は農業高校ではなく、普通高校に行かせてもらったという。その影には3人の姉の涙ぐましい説得が両親に対して行われたという背景があった。だから彼は野球部でものないのに、年中丸坊主だった。彼は、なるべく、学校や部活の用事を作っては意図的に帰宅時間を遅らせていた。また、3人の姉がいるせいか、彼の交友関係には女性が多かった。男子の友人など、私以外には数えるほどしかいない。ほとんどの男子がこの話を聞くと、彼に対して羨望の眼差しを送るであろうが、彼には、異性として女性から見られないという悩みがあった。従って彼は、彼女いない歴そのまま年齢という男子高校生だった。

そんな彼はよく、

「里中君と友達になれて、本当に良かった。おかげで僕の世界は広がったよ。」

と本気な顔で言う。彼は真面目なのだ。間違っても誤解してはならないのは、彼はゲイでもホモでもない。ちゃんと女性が好きなのだ。なのに男女の仲という距離が彼にはうまく作れないのだ。私は彼の悩みも含めてそういう純朴さが好きだった。私はたくさんの友人、知人がいたが、彼のような純粋で、個性の強い人間は他にはいなかった。私と彼との間はつかず離れず。必要以上にベタベタしないし、かと言ってお互いにずっと連絡をしないわけでもない。そんな距離感がお互いに心地良かったのだろう。

 彼とは中学の部活で知り合い、同じ高校に進んで付き合いも4年になる。なのに彼とは生涯一度も同じクラスになったことはない。けれど、男友達の少ない彼はよく私のクラスに顔を出したし、私もまた彼のクラスに顔を出した。きっと周囲からは奇異に映ったことだろう。私の友人の中にも

「なんであんな面白くもない奴と一緒にいるんだ。」とか

「お前らホモだろう。」

と失礼なことをいう輩がいた。そんな時私は微笑み、なんの答えも返さない。彼の魅力を話してわかるのであれば、彼には今頃たくさんの男友達がいるだろう。他人に彼との関係を理解してもらいたいとは思わない。だから彼と会う時はいつも二人きりだ。

 高校入学時に私たちは別々お部活に入部した。私は陸上部、彼は水泳部。私たちの母校の中学にはどちらの部活もなかった。互いにそれぞれ初めての部活。

 当然、始めのうちは、経験者と初心者でだいぶ差があったが、球技のように特別な技術や経験を要する競技ではなく、どちらの部活も全身持久力運動で、しかも個人競技で本人の努力による成長が望める。そうした選択をするあたりも私たちは似ていた。

 入学してから知ったのだが、この高校は県内でもスポーツが盛んな高校で、「体育科」なるものがあり、「文武両道」を掲げていた。体育の教師も多く、体育教師用に、「教官室」なるものが、職員室とは別に設けられていた。男の教師たちはほとんどが進化の途中のゴリラばかりで、女の教師はメスゴリラのようだった。臆病な私はそんなゴリラたちの機嫌を損ねないように、気を配っていた。生徒の中には、ゴリラの激昂に触れ、「ゴリラパンチ」だの「ゴリラキック」だの「ゴリラビンタ」だの「ゴリラちゃぶ台返し」などの芸当を見事に引き出す者もいた。

 そんな動物園のような賑やかな学校であるが、体育を除けば、どこにでもある普通の田舎の高校だった。特に校則も厳しくなく、これと言って不良のヤンキーが集まるわけでもなく、平凡な高校生活がそこにはある。あたりは田んぼや畑が広がり、高い建物もな、天気の良い日には富士山も見える。最寄りの駅までは自転車で15分ほどかかり、ゲームセンターがあるような駅まで60分ほどかかる。刺激もないし、不便でもある。それでも普段からスポーツで鍛えている我々は60分かけて便利で刺激のある都会まで自転車を漕いで行く。

 一人暮らしで学校の近くに住んでいる私は、朝早く起きて、家の周りを散歩する。自然の中を鳥の声を聞いたり、羊の鳴き声を真似してみたり、のんびりと緑の匂いを味わいながら、高校から始めた趣味である写真を撮る。森谷には、

「うちのおじいちゃんと一緒じゃない。里中君はいくつ?」

と笑われたりもする。

 私は早朝や夕暮れ時の時間帯の刻一刻と変化して行く空の表情や寂し気で透明感のある空気が好きだった。特に朝焼けの少し前の夜から朝に変わる時間のことを「サイレントタイム」と勝手に名前をつけてはその時間のことをこよなく愛していた。

 祖父や父の影響でカメラを持ち始めた。サイレントタイムの中にいると、神妙な面持ちになる。時々自然が見せる表情に驚き、感激し涙を流すことすらあった。私は一人の時間を自然の中で過ごすことが好きだった。荒川の土手で寝転んで空を眺めたり、緑の中で写真を撮ったり、田畑の中をゆっくりジョギングしたりしていた。家の中でコーヒー片手にテレビを見たり、雑誌を読んだり、流行りの音楽を聴いたりすることよりも、自然の中に身を置く方が心が落ち着く。林の中で生物が動く音、木々の葉が擦れる音、水の流れる音を聴き、緑や鮮やかな花が揺れる様を眺めてマイナスイオンたっぷりの空気を肺に取り込むだけで十分満たされた。

 

 そんなマイペースな私はよく失敗もした。ある日、いつものように荒川の土手で昼寝をしていたら、手元にあったはずのバックがない。今月の生活費が入ったバックだった。その月は悲惨だった。家賃は親が出してくれていたので、私はバイトで自分の食費を賄っていたのだが、次の給料日まで食いつながなくてはならない。毎食菓子パン一個で、三食で300円生活を10日間続けた。育ち盛りで部活をしている高校生にはとても辛いことだ。

 私は困った時は親ではなく、先輩に相談した。先輩の家に泊まりに行って夕食をご馳走になったこともあった。先輩の母曰く、

「ゆうき君は、すごく美味しそうに食べるから、こちらも料理しがいがある。」

だそうだ。それはそうなのだ。実際空腹の私には、白いご飯だけでも十分に美味しかったのだから。

 皆は私のことを「ゆうき」と呼ぶ。里中という苗字で呼ぶのは、森谷くらいだ。私のことをよく知らない人間は私の苗字が「結城」だと勘違いする人間もいる。

 私は陸上部でもよく先輩と一緒にいた。特に小川先輩にはとてもお世話になっていた。陸上部の一つ上の2年生で、部長ではなかったものの、実際のところ彼の発言権は強く、影の部長であったと思う。先輩たちはそれぞれ個性的な先輩が多かった。根暗な先輩もいれば、協調性の塊みたいな先輩、貧乏な先輩や、女好きの先輩もいた。それぞれの個性がバラバラでも、皆がそれぞれの距離を保って付き合っているのが私の目には大人に映った。

 小川先輩の専門は短距離で、私は長距離。普段は一緒に練習することはないけれど、小川先輩は自分が入部した当初から自分を好いてくれていた。よく部活帰りには、他の先輩たちと一緒にビリヤードやボーリング、カラオケに連れて行ってくれた。私は高校一年生の時は、ほとんど先輩たちと過ごしてばかりいた。甘えていた。だから、失恋の痛みなど、ほとんどが先輩たちとの楽しい時間の中で薄らいでいった。別れた彼女の友人とも未だに交流はあるし、今度はその友人の紹介でまた別の友人と知り合ったりして、新しい出会いを経験し、先輩たちと出かけては色々な遊びを教えてもらったりとしていくうちに、元彼女のことなどほとんど思い出さなくなっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る