第101話 抱擁の水
「あたしは……
リアトリスの顔が苦痛に歪む。頭に痛みが走っているかのように。
「
「……戻り始めているのか?」
記憶。マキナ・オルケストラの一件が脳裏をよぎる。彼女は魂を移しかえることで、記憶を保ったまま人間の身体を獲得しようとした。事実、彼女は不安定ながらもマキナとしての記憶を持ったまま別の肉体で活動していた。
それを思い出した瞬間、ノエルの中で仮説が立った。
記憶とは脳に保存されるものであり、同時に魂にもバックアップが存在するのではないか。
そして、恐らくルシルの手によって組み込まれた怒りや憎しみ、楽しみといった心をきっかけに、魂に保存されていた記憶が蘇りつつあるのではないか。
ルシルはこの現象を予測できたはずだ。では、なぜわざわざ消した記憶が蘇るようにしたのか。それはきっと、リアトリスの中に秘されていたノエルに対する怒りや憎しみを引き出し、ノエルの心を折るため。
「…………リアトリス。君と出会って、オレの世界は変わった」
誤算があったとすれば――――
「今更、君以外の人を愛することなど考えられない! 勝手に突き放されてもオレは諦めることなどできそうにない!」
――――ノエルの持つ、リアトリスに対する迷い無き愛情。
「オレは未来を諦めないと誓った! 前に進むと決めた! そこに君がいるのなら、諦めるつもりはない!」
「黙れ……!」
炎と水の剣戟。リアトリスが激昂のまま叩きつける刃の尽くを、ノエルは真正面から受け止めていく。彼女の中に在る思い。その全てを受け入れるように。
「もっと吐き出せ、リアトリス! 君の怒りを! 憎しみを! 哀しみを! 楽しみを!」
「黙れ!」
「その全てを受け入れる! 受け止める! オレは絶対に、君を諦めない!」
「黙れって、言ってるだろ!」
リアトリスが目の前から掻き消えた。だが、
「今度は見えているぞ」
「…………っ……!? なんで……!」
「周りをよく見てみろ」
広間に敷かれた魔法陣。そこから燃え滾っていた憎悪の焔は、既に勢いを失っていた。
その原因は、室内に降り注ぐ――――雨。それがいつの間にか周囲の焔、そしてリアトリスが全身に纏う加速の黒炎すらも沈静化させていた。
「この雨は……さっき、炎で溶かした氷の……?」
「そうだ。オレが放った水の魔法……。自らの陣地となる魔法陣を展開し、能力を飛躍的に向上させる。それが君の『
「君の力は氷のはず! それがどうして!」
「いいや、違う。氷というカタチより解き放たれた水こそが、本来の『ウンディーネ』の力だ」
「なっ……!?」
「これまで氷の力をとっていたのは、オレの未熟さ故……契約者であるオレの精神の影響を受けていたからだ。君を失い、心を凍てつかせてしまっていたからだ」
「…………!」
「だが、既に覚悟は決めた。君の全てを受け止め、君の全てを愛する覚悟。オレの中に滾る愛という名の焔が氷を溶かし、『ウンディーネ』を本来の姿に戻した」
足元の魔法陣を掌握。輝きは紅から蒼へと変わり、魔力の水が噴出した。
大量の水は広間を満たし、リアトリスの足元を拘束する。
「あ、ぐ……!」
「覚えているか。このペンダントは、君がくれたものだ」
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ! もう黙れ!」
「アルフレッド……オレの友から教えてもらったんだ。七つの魔法石が交じり合った特殊な石に込められた言葉は『未来』。扉を開ける鍵の形と合わせ、『未来を切り開く』という意味になるそうだな」
「目障りだ! 頭に響くんだよ!」
「君は最初から未来を諦めるつもりはなかった。だからこれを贈ってくれたんだろう?」
「う……る、さい……!」
「オレが切り開きたい未来は、君がいる未来だ。君と共に在る未来だ」
「…………っ………………!」
「だから……帰ってきてくれ」
炎が、止んだ。
「………………………………………………ノエ……ル……」
泣きじゃくったようなその顔は紛れもなく。
ノエルが知る、リアトリス・リリムベルそのものだった。
戻ってきた。記憶も。忘却の彼方に消えていたはずの、婚約者も。
「オレはもう、君と離れることに耐えられそうにない」
「あたしは………………」
「帰ろう」
もう、言葉など要らなかった。ただ手を差し伸べるだけでよかった。
「ノエル…………あたし……」
そして。リアトリスの手が、ノエルの手に重なろうとして――――
「…………ぐっ!?」
――――瞬間。リアトリスの全身から、漆黒の焔が息を吹き返した。
全身に迸る熱は拒絶の業火。この部屋に満ちた水の魔力すらも焼き尽くし、蒸発させていく。指先一つ触れただけで遍く生命を灰塵に変えるであろうもの。
「ぐっ……がぁ……ぁあああああああああああああっ!?」
否。それは、使用者本人の生命すらも、灰にするほどの力。
際限なく膨れ上がる熱は、リアトリス本人でさえ燃やし尽くそうとしていた。
「炎が……制御? できない? なんで…………!」
「リアトリス!」
魔力が暴走している。黒い炎の根源。リアトリスの中で邪悪な輝きを放つ、禍々しい四つの何か。四つ――――哀しみ。怒り。憎しみ。楽しみ。
(ルシルの仕掛けか……!)
その推測は用意に立った。最初からこうするつもりだったのだ。
消した記憶を敢えて呼び覚まさせ、ノエルの心を折ろうとしたのもこのため。恐らくこの仕掛けの起動条件は、記憶を取り戻すこと。そうしてノエルの心を折り、倒せたのならそれでいい。倒せなかったのなら、諸共に壊してしまえばいい。
「離れて……ノエル!」
泣きじゃくりそうな顔。ぽろぽろと零れ落ちる涙は、伝う傍から蒸発してゆく。
「離れるものか!」
「なに、を……!?」
燃え盛るリアトリスの全身を抱きしめることに、雫ほどの躊躇いもなかった。
「くっ……!」
いかに真の姿に覚醒した『ウンディーネ』の魔力といえども、これだけの黒炎を鎮静化しきることはできない。抑えきれなかった熱が抱擁するノエルの肌を徐々に焼き焦がし、苦痛となって全身を侵食していく。
「もうやめて! 離れて!」
「言ったはずだ……離さないと…………!」
「死ぬつもり!?」
「オレは死なない……! 君も死なない……! 頼れる妹が、いるからな……!」
ノエルの行動の意図を察していたのだろう。『ジャックフロスト』のベールに蓄積されていた魔力がノエルに供給され、水の魔力が黒い炎を抑え込んでいく。
「ノエル……!」
「オレもマリエッタも諦めてなどない! だから君も諦めるな!」
爆発的な炎の魔力。そ鎮火させることができなければ、暴発した魔力はノエルとリアトリス諸共、この部屋を、マリエッタすらも焼き尽くす。
「共に未来を生きよう! リアトリス!」
炎と水がせめぎ合う。苦痛と鎮静が互いを喰らう。
明滅する視界。霞んでいく景色。それでも、抱きしめる腕だけは離さない。
意識が徐々に遠ざかり、どちらのものかすら分からない魔力の光が溢れ、目の前が真っ白に染まり――――――――
☆
――――――――雨が降っている。
光を失った闇の中でそう思ったのは、頬に雫が滴り落ちていたからだ。
「…………ノエル」
ずっと聞きたかった声に導かれるように、瞼を開く。
「リアトリス…………」
「……ばか。死んじゃったかと、思ったでしょ……」
「……言ったはずだ」
よろめきながら立ち上がる。もう大丈夫だと、伝えるために。
「オレは死なないと」
「……変わったね。ノエル」
「そうだな……
ぼんやりと頭の中に浮かんだのは、リアトリスと同じ黒い髪を持った第三王子。
「友達、できたんだ」
「ああ。……感謝しなければな。あいつのおかげで、君のことを……君と生きる未来を、諦めず、手を伸ばし続けることができた」
目の前にあるのは、ぼろぼろと涙を零しているリアトリスの顔。
熱は失せ、涙を消し去るものはどこにもない。目の前の顔に手を伸ばす。頬に触れる。伝わる温もりが、たまらなく愛しかった。
「………………」
だけどリアトリスは、どこから躊躇うようで。後ろめたいようでもあって。
「…………ねぇ、ノエル。さっきあたしが言ったこと……全部、本当なんだ」
「…………ああ」
「ルシルに与えられた心の力。それがあたしの心をかき乱して、暴走させていたのは本当。でもね。嘘はなかった。ノエルの婚約者になってから辛いことがたくさんあったよ。なんでこんな哀しい思いをしなくちゃいけないんだろうって」
「わかってる」
「理不尽な思いをしなくちゃいけないんだろうって……心の中でノエルを憎んでた。怒りを抱いてた。そんなノエルを傷つけることを……あたし……楽しんでた………………せいせいしてた……でもね……あたし……!」
「わかってるさ」
自然と、愛しい人を抱き寄せていた。
「わかってる。あれが君の本心だったこと。……それだけじゃなかったことも」
「ノエル……」
「確かに哀しみがあった。オレを傷つけることを楽しんでしまうほどの、怒りや憎しみがあった。……でも、オレたちの日々はそれだけではなかったはずだ」
「…………うん」
「多分、これからもオレの婚約者であることで、君を哀しませてしまうのかもしれない。理不尽なめに遭わせてしまうのかもしれない。……それでもオレは君といたい。これはオレのエゴだ。どうしようもない、子供のようなワガママだ」
「うん…………!」
「オレから君に、何をあげられるのかもわからない。だがそれでも、全力を尽くすと誓おう。オレの全てを君に捧げよう。だから……リアトリス・リリムベル。オレと共に、未来を歩んでほしい」
「…………一緒にいよう。あたしも、ノエルと一緒にいたい」
少女は背中に手を回し、二人はお互いを腕の中に抱きしめる。
伝わる吐息。鼓動。その全てが愛おしい。
取り戻したかったもの。それが今、ようやく――――戻ってきた。
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