掌編小説・『キス』

夢美瑠瑠

掌編小説・『キス』

(これは去年の「キスの日」にアメブロに投稿したものです)


        掌編小説『キス』


 小説家の、野部 栗鼠人(のべ・りすと)は、三年間かけて執筆してきた大長編小説の、「大観音峠」、を、いよいよ結末をつけて締めくくろうとしていた。

 これは「椅子・虎夫」という主人公がふと街の雑踏の中で見かけた女性に一目ぼれして、すぐ後を追うのだが、見失ってしまい、それから20年間延々とその女性の行方を探し続けるという人生遍歴の物語なのだ。


 しかし元々全く雲をつかむような話そのものであって、虎夫は様々な事件やら困難に遭遇直面するのだが、あまりにも女性の面影に恋焦がれているので、彼は絶対にあきらめない。およそ超人的なまでの彼の努力と執念が天に通じたのか、その挙句についにお目当ての女性に出会うことができる。


 虎夫はこれまでの長い年月の苦難やエピソードを全て赤裸々に告白して、愛を打ち明ける。


 女性は仰天するが、やがてその情熱と愛の深さに感動して、夫を離縁して虎夫の求婚を受け入れることを決意する。


 そうしてその、晴れて結ばれることになった、二人の初めて接吻する場面がクライマックスの終幕の場面の予定なのである。「ここが全編の圧巻、というよほどの秀逸というか卓越したような文学的表現を探し出さないと締まらない感じだなあ・・・」と、栗鼠人は少しぼやいた。

 「とにかく書いてみるか」キーボードを叩き始めた。


・・・「虎夫は真知子を激しく抱擁した。真知子の華奢な全身が撓(しな)った。『ああ、どんなにか私はあなたにこうしたかったことか・・・!』嵐のような衝動を

そのまま全身に漲らせて、幾星霜の想いをこのただ一度の接吻に込めるべく、花のように可憐な唇を、虎夫は奪い、貪(むさぼ)った。

『ああ・・・虎夫さん・・・そんなにも私のことを想っていてくれたのね・・・』

 真知子も虎夫の情熱にほだされて、無我夢中で応えて、甘い接吻の悦楽の極致に悶えた。

 いつしか二人はこの世界には他に何も存在しない、そうした究極の愛の恍惚境に浮遊していた。

『僕たちの愛は永遠です』、『ええ、勿論ですとも』

 唇を離した二人は厳粛に誓い合うのであった。

・・・こうして一対の一見平凡な夫婦が誕生した。

 しかしそこには宇宙に一回しか存在しえない、奇跡的な天の配剤、無数の偶然というものが他のあまたの夫婦と同じく介在していたのであった。

 だから、この大観音峠で二人が交わした一期一会の接吻も、二人以外には全くありふれた愛の交歓にしか見えないに違いない・・・<完>」


「ま、これでもいいか」

 栗鼠人はこうして「大観音峠」を完成したのだが、実は彼自身はまだ童貞で、キスすらしたことがないのであった。


 ま、この世の現実というものは大体案外そういうものかもしれない・・・


<終>

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