第十二話 君子の貞によろし。

翌日、五月二十五日の十五時のことである。


厨房の冷蔵庫から一冴はプリンを取り出した。


牛乳瓶を半分ほど短くしたような硝子の容器が四つ――その中に、薄茶色のプリンが固まっている。チョコレートの成分が浮いたため、上部は焦げ茶色だ。


ためしにゆらしてみる。


ぷるぷるしているが、どろどろしていない。


「で――できたっ!」


三度目にして、ようやく固まらせることができた。


もう、失敗作のプリンを無理に食べることもない。


梨恵が口を開く。


「ヨシ! じゃあ、最後の盛りつけいかぁか!」


「うん!」


ホイップクリームを軽く載せ、半分に切ったいちごをそえる。ミントもそえると、いちごの葉のように見えた。削ったチョコレートをそこへ散らす。さらに蓋で密封し、色紙とリボンでラッピングした。


これならば蘭も喜んでくれるはずだ。


完成したプリンを冷蔵庫へとしまう。


入れ替わりに、プリンを固まらせている間に作ったチョコレートバーを取り出した。乾燥いちごやくるみなどを、チョコレートやホヮイトチョコレートで固めた物だ。万が一、チョコレートプリンが失敗した場合はこれを渡そうと思っていた。


セロファンの袋とリボンでチョコレートバーをラッピングする。


そして、ちらりと食堂の端に目をやった。


一時間ほど前から、窓辺の席には彩芽が坐っていた。先日と同じように珈琲を飲みながら新聞を読んでいる。時には筮竹を取り出し、卦を立てた。


三角巾とエプロンをしまう。


チョコレートバーを手にし、梨恵と共に厨房を離れた。


彩芽へ近づき、一冴は声をかける。


「高島先輩。」


彩芽は顔を上げた。


「あの――私、一年の上原いちごと申します。」


「うちはルームメイトの伯伯伎梨恵です。」


彩芽は首をかしげ、何、と言う。


「いえ――その、高島先輩、占いをされるんですよね? それで、よろしければ一つ占って頂きたいことがあるのですけれども。」


彩芽は溜息をつく。


「そんなふうによく頼みごとをされるわ。けど、そうそう簡単には受けつけてないの。女の子って占いが好きだから――あれを占えとかこれを占えとか、鬱陶しくてたまらないわ。」


「その――差し出がましいようですが――」


チョコレートバーを一冴はさしだす。


「珈琲のお供になればと思い、作ってみました。」


チョコレートバーを受け取り、まじまじと彩芽は眺める。


そして、前の席を視線で示した。


「坐りなさい。」


一冴と梨恵は着席する。


「それで――何を占ってほしいの?」


「いえ――あの――私の、好きな人のことなんですけど。」


「恋がかなうかどうか――どういうこと?」


「はい。」


ふぅん――と言い、彩芽は筒から筮竹を取り出す。


「それじゃ――占ってみましょうか。」


蓋を立て、一本の筮竹を立てる。そして筮竹をさばき始めた。さばくごとに、漢字を紙に書いてゆく。それを六回くりかえした。


坤艮坤震坎震


☰☷ 天地否てんちひ

☰☲ 天火同人てんかどうじん


彩芽は少し考える。


「天地否が天火同人に変わったわ。」


「テンチヒ――?」


「このシマシマ模様は、貴女の運勢を示すバーコードのようなもの。右が天地否、左が天火同人。とぎれていない線は陽。とぎれている線は陰。陽は極まれば陰となり、陰も極まれば陽となる。一番下の線と下から三番目の線は極まったから変わったの。」


そして、天地否の卦を彩芽は指し示した。


「まず、天地否の上の三本(☰)は天を表し、下の三本(☷)は地を表す。天と地が分かれて交わらない――否定の意味ね。卦辞に曰く、『否はこれ人にあらず。君子のてい不利よからず』。つまり、どれだけ頑張っても上手くいかない。」


一冴は身体をこわばらせる。


「けど――不安になることはないわ。」


そして、天地否の最も下の線を彩芽は示す。


「この線は『こう』というの。まず、最初に変わった爻――ここにはこうある。『ぼうを抜くにじょたり。そのたぐいを以ってす。とおる』。簡単に言えば――連なった根っこによってかやが一斉に抜けるように、仲間と協力すれば困難を乗り切ることができる。」


続いて、下から三番目の爻を指し示す。


「続いて、三爻にはこうある。『はじつつしむ』。つまり、恥ずかしい秘密を隠しているということ。もしも貴女にとって上手くいかないことがあるとすれば、それは仲間に隠し事をしているためね。」


胸の中に何かが奔った。


恥ずかしい隠し事があるという点では、完全に当たっている。


そして――と言い、隣の卦を彩芽は指さす。


「天火同人。上の三つの爻(☰)は天。下の三つの爻(☲)は火――『日』という漢字と似ているように、太陽も意味する。天地否と違い、仲間同士でお互いになじみあっている卦ね。『同人』は『仲間』という意味。」


「仲間――ですか?」


そう――と、彩芽はうなづく。


「卦辞に曰く、『同人、野においてす。とおる。大川たいせんわたるによろし。君子の貞に利し。』広々とした野原のように、隠し事なく仲間と共に協力すれば、大きな川も渡ることができる。」


一冴は少し考える。


天地否の卦が示す通り、蘭との関係は上手くいっていない。だが――自分のこの隠し事を周囲に打ち明ければ、上手くいくというのであろうか。


「初爻にはこうある。『同人、門においてす。とがし』。つまり、心の門を今こそ大きく広げるときということ。――それ自体に悪いことはない。」


それ自体には――と彩芽は復唱する。


「ただ――三爻に曰く、『じゅうもうに伏す。その高陵にのぼる。三歳おこさず』。兵士を草むらに隠し、高い処から敵を観察するように――そして三年のあいだ静かにするように――慎重に行動しなさいと。身のほど知らずの野心は必ず失敗する。」


「つまりは――どうすれば?」


「相手のことは慎重に偵察するくらいで。今は無理でも、仲間が助けてくれるわ。けれども、あくまでも高望みは駄目よ。きっと――貴女にとって相手はとても難しい人だから。」

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