第七話 それぞれの夜

夕食の時間、食堂に一冴の姿はなかった。


菊花は暗澹とした気持ちとなる。自分は蘭に何も言っていない――しかし原因は作ってしまった。一冴の心情を察すると、食事も喉を通らない。


紅子は困惑した顔をしている。


「なあ――同志タヴァーリシ梨恵、いちごちゃんは?」


「うーん。――なんか、色々と難しいみたい。ご飯も食べられんって。」


肩身がせまくなった。


大丈夫なのか――と紅子は言う。


「なんか、昼間から元気がなさそうだったが。」


「よう分からん。話してくれんだが。」


「そうか。」


うなづき、紅子は菊花へ顔を向ける。


「菊花は、何か知ってるか?」


食事を摂る手が止まった。


涙が出そうになるとき、胸から何かが上がってくる感覚がある。それが今やってきて、言葉でさえ上手くは出ないのだ。


ややあって、分からない、とだけ答える。


「――そうか。」


  *


三人の席から少し離れた場所――三年生の席で蘭は食事を摂っていた。


菊花からほほを叩かれたときの痛みと、死ねという言葉が胸に刺さっている。自分の行ないを今さらながら後悔した。


菊花が教えたと言ったのは、最初は、一冴に動揺を与えるためだった。だが、やがてそれは薄汚れた心へと変わった――菊花と一冴の関係が破綻してくれたならばという願望へと。


他人から望まれる姿を自分は常にふるまっている。しかし、誰よりも薄汚れた心がその裏側にはあるのだ。それどころか、一冴の前で露わにした感情は、自分でさえ無自覚なものであった。


自分はこんな人間だったのかと、今さらながら恥ずかしくなる。


隣から彩芽が声をかける。


「蘭、どうしたの? 元気ないよ?」


その言葉で、箸が止まっていたことに蘭は気づいた。


「いえ――何でもありません。」


やや冷めたご飯を口に運ぶ。


そして、先週から父から言われていたことを思い出した。


菊花と顔を合わせることが少し辛い――それは、自分の失敗を見せつけられることと同じなのだから。菊花との関係は修繕できないのかもしれない。たとえ逃避であっても、少しだけ時間が欲しい。


なぜ自分はこんなふうに生まれたのだろう。普通、女性は男性を愛する。そうでないなら、なぜ月に一度、自分の腹部は痛むのか。この性質は本当に変わらないのだろうか。


頭に浮かぶのは、一人の男の顔だ。


人としての魅力を彼は全て持っている。


――あの方ならば、ひょっとして愛せるのだろうか。


どうあれ、菊花から与えられた痛みは消えない。


食事を終え、トレーを返却すると、厨房にいる朝美へと蘭は声をかけた。


「あの、朝美先生――少しよろしいでせうか?」


朝美は首をかしげた。


  *


ベッドに横たわったまま一冴は何もできなかった。


午後の授業でさえもよく受けられたと思う。寮に帰って来てからは、ずっとベッドの中にいる。蘭を想い続けてきた三年間のことや、菊花から女装の指導を受けたこと、この学校での日々のことが思い浮かんでは消えた。


蘭へ捧げた時間は全て無駄だった。いや、どれだけ時間をかけようとも、どれだけ苦労しようとも、自分は女の格好をした男だ。こんな存在を蘭が愛するわけがない。――分かっていたはずではないか。


食事の時間が終わり、梨恵が部屋に現れる。


「いちごちゃん、元気出した?」


一冴は顔を上げられない。


ただ、小さな声で、うん、とだけ答える。


元気が戻っていないことに梨恵は気づいたようだ。


「とりあえず、今日のお風呂掃除当番は他の人に代わってもらうけえ――。その代わり、明後日は別の人にやってもらうけんね? それでええ?」


途端に申し訳なさを感じた。


しかし、何の気力も湧かず、うん、と再びつぶやく。


この部屋にも監視カメラがある以上、梨恵にも今は相談できない。

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