第九話 一〇八号室

深夜のことである。


寮長室で、ふっと朝美は目を覚ました。


目覚まし時計へ目をやると二時を廻っていた。同時に、尿意を覚える。襦袢じゅばんを乱さないようベッドからそっと降り、寮長室から出た。


トイレへ向けて歩き始める。


窓から差す月光の他に光はない。物音もしない。ただ、樹々のざわめきが微かに聞こえる。


そんなとき、人の声らしきものを聞いた。


消灯時間を過ぎても起きている寮生はいる。中には、一つの部屋でパーティーを開いている者もいる。そういった者を指導するのも朝美の役目だ。


耳をすまし、その細い声がどこから聞こえるのか探した。


どうやら念仏のようだ。


朝美は眉をひそめる。この寮内で、念仏を唱える者は一人しかいない。一年生の中には、一〇八号室から夜な夜な念仏が聞こえると訴える者もいる。


菊花を注意するために、一〇八号室へ向かおうとした。


寮を囲うのは深い樹々だ――墨のように森は暗い。そんな中、念仏の声が少しずつ大きくなる。


ふっと、窓の外に目をやった。同時に、闇の彼方で動く物が目に入る。真っ暗な森から、白い墨を落としたような何かがやってくる――しかもいくつか。


白い物であっても闇の中では見えない。どうやらそれは青白い光のようだ。最初は羽蟲のように小さかった。しかし大きくなるにつれて人影に見えだす。


念仏の声が強まった。


身体が強張る。


闇の中で光る人影など存在しない。


しかし、自分は寮生を指導する者だ。ふざけたことなど考えず、非常識な行動を夜中にとる者を叱りつけなければならない。


朝美は窓から目を逸らした。


強張る足を動かし、一〇八号室へ向けて、一歩、二歩と進む。


玄関の前へさしかかったとき、気這けはいを感じてドアへ目をやった。


ドアの上部についた摺り硝子の窓――真っ暗なその向こうから何かがやって来る。


刹那、総毛立った。


ドアをすり抜けて、真っ白な着物をまとった老婆が這入ってくる。脚はない。続いて、同じ格好をした人々が二、三人ほど這入ってきた。彼らは朝美の前を横切り、二階へ向かって階段を昇りだす。


彼らに続いて這入って来たのは、餓鬼であり、くだんであり、全身の皮がむけて肋骨あばらぼねが露わとなった者であった。生前の行為によってしかるべき処へ行った者までもが――帰って来たのだ。


そんな彼らも朝美の前を横切る。


朝美の記憶はそれまでであった。

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