第七話 過ぎた水脈
文藝部での活動は、意外なほど上手くいっていた。
プロットは四月末までに作り終え、五月は執筆にはげんだ。パソコンは文藝部に三台しかない。ゆえに、原稿用紙での執筆である。
五月の中旬には、第一稿が完成した。
五月二十日・火曜日の放課後のことである。一冴は部室で原稿を修正していた。隣には紅子もいる。菊花の姿はない――今ごろ寮で執筆しているのだろう。
第一稿は、赤ペンでの修正で埋められている。それを見ながら、新しい原稿用紙に文章を書き写してゆく――さらなる修正を加えながら。
しばらくして蘭が来た。
「ごきげんよう――みなさん。」
「あ――ごきげんよう、です。」
言って、一冴は立ち上がる。
「お茶、淹れてきますね。」
「まあ――いつもありがたうございます。」
一冴はポットを手に流し台へ行き、新しい茶葉と熱湯を入れる。
蘭の前にカップを置き、紅茶を注いだ。
そして、自分の席へ戻る。
早月へと蘭は顔を向けた。
「早月先輩――来週の月曜日のお昼、部室をお借りしてもよろしいでせうか?」
「え、部室? 何で?」
「実は――来週の月曜日は、わたくしの誕生日なのです。それで、わたくしの誕生会を開きたいと友人たちが申してをりますの。けれども、適当な場所が他に見当たらないので、ぶしつけながら部室を使はせていたゞきたいのです。」
「あー、誕生会? 何すんの?」
「さあ――。お誕生日を祝ふといふ以上は、わたくしにはよく。」
「ケーキ出る?」
「用意してくださるさうですよ。」
「あ、じゃあ私にも食べさせて。それならいいよ。」
「はい。ありがたうございます。」
そして、一冴と紅子にも顔を向ける。
「お二人も、来られますか?」
一冴は少しうれしくなる。
「いいんですか――行っても?」
「はい。――できれば、菊花ちゃんも誘ってほしいのですけれども。」
薄闇が胸にさした。
蘭が誘いたかったのは、本当は菊花だけだったのであろう。
しかし、明るい顔でほほえんでみせる。
「ええ。菊花ちゃんも誘ってみます! 来てくれるかどうかは分かりませんが。」
「まあ――それはよかった。」
紅子は少しつまらなさそうな顔をする。
「私は、行けたら行くって感じです。」
「さうですか――。けれども、よろしければいらして下さいね。」
「はい。」
そして紅子は考え込む。
「けれど――来ますかねえ。菊花ちゃん、そっちの気ないと思うんで。」
「あら、さうですか?」
言い終えたあと、しまった、というような顔を蘭はする。
「えーっと、そっちの気って?」
「今さら誤魔化さなくてもいいよ」と早月は言う。「菊花ちゃんに蘭が入れ込んでることくらい、この部室のみーんなが知ってるから。だって、あんな大きな声で言ってたんだもん。」
部室が凍りつく。
「あ、あー、言ってましたっけ?」
「言ってたよ!」
紅子が口を開いた。
「失礼ですけど――菊花ちゃんにそっちの気がないんなら、もっと別の人を好きになったらどうでしょう?」
「別の人――ですか?」
「ええ。菊花ちゃんなんかより、蘭先輩のこと好きな人がいると思うんですけど。」
「まあ――紅子さんもわたくしのことを?」
途端に、紅子は激しく首を横に振った。
「いえいえいえ! いちごちゃんです!」
言ったあと、紅子は失言に気づく。一冴が告白したことを知らない者もこの部室にはいるのだ。
こちこちに紅子は顔を固める。
「ご――ご免、いちごちゃん。」
「いや――いいよ。どうせ、あんな事件あったばっかりだし。」
蘭は首をかしげる。
「――あんな事件?」
「いえ――」
ぽつぽつと、先日の動画の事件について一冴は説明する。
早月は顔をしかめた。
「そりゃ酷いな。」
「幸い――今はもう動画は削除されてるんですけどね。」
紅子が口を開く。
「中庭が映ってたってことは、やっぱり校内の人がやったんでしょうかね?」
早月は首を捻る。
「多分――そういうことかな?」
「私が言えたことじゃないですけど――誰がLGBTかを晒すなんて、あってはならないことなんですけどね。」
蘭が口をはさむ。
「愛の告白をネットに晒すなんて、異性愛者でも駄目なことでは?」
「いや、異性愛者とLGBTとでは違うと思いますけど。」
「同性愛者で駄目なことは、異性愛者でも駄目ですよ。」
紅子は再びつまらなさそうな顔をする。
「どうあれ――菊花ちゃんはそっちの気はないと思うんです。LGBTの人にこう言うのはどうかと思うんですが――その――好きではない人に好きだと言われるのは、あまりいい気はしないと思うんです。だから――」
途端に、一冴は申し訳ない気持ちとなる。
菊花にばかり蘭が熱中していることを、紅子は気にかけているのではないか。だから、菊花のことは諦めて、一冴へと振り向くべきだと遠回しに言っているのだ。
だが、自分は男だ。蘭が愛する性別ではない。
蘭と同じ「LGBT」ですらない。
そこまで思い、かすかに何かが引っかかった。
蘭は静かに口を開く。
「誰が誰を好きになるかだなんて――その人にしか分からないものですよ。ある人を好きになってはいけないので、別の人を好きになって下さいといふのも無理じひです。」
その言葉により、一冴は再び失恋した。
「それと――『LGBT』といふ言葉は、あまり遣はないでいたゞけますか?」
紅子は首をかしげた。
「――はい?」
「『LGBT』と言はれると、自分ではないもののやうに思へます。わたくしはゲイでも、
「そう――ですか?」
さうですよ――と蘭は言う。
「そも〳〵、『LGB』と『T』では違ひます。
「それは――」紅子は少し考える。「同性を愛するという点では同じだからでは?」
「いえ――
レズビアンにとっては迷惑です――と蘭は言った。
「挙句、体が男性でも心が女性なら女子トイレを使はせろとか、女子更衣室を使はせろとか――そんな主張をする人もゐる。けど――同性愛者といふだけで、なぜ、そんなことにまで賛同しなければならないのでせう?」
後ろめたい気持ちとなった。
白山女学院へ入る前、一冴が女装して外出したときは多目的トイレを使っていた。むしろ今の状況が「極めて」異常なのだ。
「それどころか、日本は遅れた国だとか、差別が
そうかもしれませんけど――と紅子は言う。
「差別を受けた人だっていますよね?」
「それは、さうです。」
「いつだったか『LGBTに生産性はない』って言った政治家もいましたよね?」
蘭は無表情となった。
「あれにしろ、問題はないと言った当事者も多かったのですよ。」
紅子は意外な顔をする。
「そうですか?」
「えゝ。子供を産めないカップルより、産めるカップルのはうへ積極的に税金を遣ふべきではないか? といふ意味だからです。もちろん、『生産性』といふ言葉を
そして軽く溜息をつく。
「わたくしも、彼女の論文は実際に読みました。をかしいと思へる部分はいくつもありましたが、共感できる部分も同じくらゐありました。」
「と――いうと?」
「差別なんかより、親が理解してくれないことが辛いのではないか――といふところです。親が子供に望むことは、孫の顔を見せてくれることですから。なので子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。」
蘭は再び溜息をついた。
「確かに――そのとほりですよ。誰が同性愛者であっても、それが他人である以上、日本人は気にしません。けれども――親は違ひますよ。」
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