峠越え

阿部 梅吉

峠越え

 私、空木玲子が28の生涯を閉じた直接の原因は車のガソリンが少なかったことだが、それだけではない。

 前日2ヶ月ぶりに旦那と寝たことと、朝お気に入りのファンデーションが切れたことも要因だ。

 原因はたくさんあるが、結果は同じだ。


 車で1時間半近くかかる仕事場に向かう途中で私は死んだ。なんのことはない、こんな雪道で80キロを出していたのが悪いのだ。

 前日に夜ふかししたせいで少し遅く起きた上にコンタクトレンズもうまくはまらず、化粧のりも最悪だった。

 そんなわけで私は死んだ。


 私と旦那のいる町は雪国のとても小さな町だった。誰もが誰もを知っており、昨夜誰の家が喧嘩し、誰の家で愛し合ったかさえ筒抜けな町だった。

 私の旦那はこの町で唯一の内科医だった。いや、そんなわけで、患者からは今度の選挙では誰に投票すべきとか、奥さんの機嫌が最近悪いとか、そんな他愛もない話さえも彼はよく相談に乗っていた。旦那は町の皆から頼られているようだった。


 この町にきてからまだ2年目の私たちは、愛し合うことを憚った。どこにいても何をしていたのか、噂になるようなところだったから。

 私達は月に一度、海に出かけた。町から車で2時間近く。近くの安いホテルで二人で寝た。みんなには隣街に買い物に行くと言って。




 私達の間に子供はなかった。旦那は度々子供を欲しがったが、私にとってはどちらでもいいことだった。そういうのって、なんていうか、宝くじみたいに、当たれば嬉しいみたいなものでしょう? 

 しかし結局は、こうあるべきだったのだろう。今となってはこれが良かったと思いたい。


 ともあれ、昨日で空木玲子の生涯は終わった。少しばかりのお金が入った通帳と中古のタントだけが残った。

 私はそれだけを持って一人、懲りずにまた車を走らせた。


 私は延々と走った。ひたすら走った。道は一本で、ただただ畑が広がっている。それ以外には恐ろしいほど何もない。同じ景色だけが永遠に続く。


 何時間走ったのだろうか、朝なのか夕方なのかもわからなかった。ただただ走り続けていた。



 私は誰もいない道の駅を発見した。やっと現在地を掴める。中は暗いが、自動販売機にだけ、ちゃんと電気がついている。


 寒かった。おそらく今は3月くらいだろう、山の上では雪がまだ残っている。町にまで降りれば流石にもうみんなコートを脱いでいるだろうが、ここは少しばかり勝手が違うのだ。


 熱いココアを飲みながら目を山の遠くに向けると、観覧車が見えた。ああ、遊園地だ。今はまだ雪があるから少しばかり制限があるが、夏はよく人で賑わっている。山の中の、遊園地。ということは、あと1時間半ほどで町に出られるのか。


 わたしがぼおっとベンチで一息ついていると、隣に女の子が座った。見たところ小学校低学年くらいだろうか。結構寒い日だったが、ロングTシャツにジーンズだけを着ていた。

 彼女は座りながら足をぶらぶらさせた。彼女は一人だった。 



「お姉さんは誰?」

 あどけない声で彼女は私に聞いた。初めて聞く声だった。


「昨日までは空木玲子って名前だった。今日からはわからないけど」

「なんで?」

「死んだから」

「死んだら名前変わるの?」

「うん」

「じゃあ私もかな?」

「さあ?」

「でも私には名前ないよ」

「そう?」

 にこ、と笑うくらいしかやることがなかった。

「うん」

「名前、つけられなかったから」

「じゃあ私、つけていい?」

「うん、つけてつけて!」彼女の頬がパッとバラ色に染まる。

「じゃあ、温子(ぬくこ)」

「ぬくこ?」女の子は不思議そうな顔をする。思ったものと違ったらしい。

「うん」

「……できればカタカナの名前がいいんだけど」

「じゃあヌシャールド•フランソワ」私は適当に言った。

「フランソワ。かわいい!」

「うん。いいんじゃない、ヌシャールドフランソワ温子(ぬくこ)。」私は勝手にミドルネームを足す。

「ありがとね、お姉ちゃん」そんなことはお構いなしに、にっこり満面の笑みの温子。

「あんた、ここらへんに住んでんの?」

と、言いかけて、気づいた。

 彼女の足は透明で、透けてる。足のあるところから、灰色のコンクリートが、向こう側が若干透けて見える。


「温子って、歩けるの?」私は恐る恐る聞く。

「温子じゃなくてフランソワって呼んで」彼女は間髪を容れずに言う。

「うーん、移動はできるよ?」

「そう。フランソワ」と私は訂正する。

「お姉ちゃんは歩ける?」

「私は歩ける。それと私、今日から名前は大地温子(だいちぬくこ)だから。あなたは温子2世。わかった?」

「わかった。これからお姉ちゃんはどこに行くの?」意外と聞き分けがいい。

「この下の町で一生を暮らすの、手始めにプチ整形とかしてね」

「ね、私もついてっても、いい?」温子が即座に聞いてくる。私は笑った。迷うことなく答える。

「もちろん!」


 私は車を走らせる。温子二世は「瑠璃色の地球」を歌っていた。たまに透ける足をバタバタさせて。


夜明けの来ない夜はないさ

なんて歌詞を小学生前後(?)の女の子が歌っているのはちょっと変な感じがする。



 空は白い。山も白い。まだ、雪が残っているのだ。


「ねえ、雪が降るまでにここを抜けないとだめだよ」と温子2世が言った。

「そうみたいね」と私は言った。

「でも大丈夫。80キロくらい出してれば大丈夫」

「良かった」私はギアを上げる。

「『あの人』が追いかけてきてるから。雪が降るまでに山を抜けたら大丈夫だけど、もうすぐ雪が降ってしまうと、この山に取り残されちゃうよ」

温子が私に警告する。私は何も考えない。

「飛ばすわよ、どうせ死んでるんだから、一度」

「うん!飛ばそー!!!!」

 キャッキャと温子が笑って両手を上げた。



 白い靄(もや)の中で私はふと、一度だけ月経でもないのに大量の血が出たことを思い出した。

 4年前、私と彼はまだ山の下の街にいた。彼は研修医で、大学病院に勤務中だった。私は家で家事をしていた。

 私達はあの頃、週に2度寝ていた。金曜日と土曜日。研修医の頃はかなり大変そうで当直も多かったが、週末の夜はなんとか時間を空けてくれた。あの頃、彼は昼夜の別なく働いていた。私はよく、彼の病院にお弁当を届けた。


ある日私は、

「ねえ、血が出たんだけど」と彼に言った。

「月経? 玲子さんは毎回重いよね」

「そうなんだけど、今日はまだ一週間も早いの」

「婦人科に行くかい?」彼は私の方を見ずに言った。深夜、すでに日付は変わっていた。

「そうね、とりあえず様子見かな、明日また同じ感じなら行く」

「うん、そうしなよ」と彼は優しく言った。しかしついぞ、私の方を見ることはなかった。




 今となっては彼の顔は思い出せない。思い出そうとしても靄がかかる。ぼやけてのっぺらぼうに見える。

 昨日車で死んだとき、記憶までどっか行ってしまったみたいだ。





「何人かの人が追ってきてるよ」温子は呟く。何かの啓示のように。

「白い、ベンツ? っていうのかな? 多分ベンツだよ」

私はアクセルを踏む。メーターは100キロ近く出した。既に命など惜しくなかった。


「もうすぐ山を抜けるね」と温子の声がどこからか聞こえた。




 ただ走り続けた。何も考えなかった。記憶はない。ただ今は前だけを見るんだ。前だけを。新しい街だけを思って。



 ミラーに映る山は白く、ドドド……と滝のような音が流れる。

 雪だ。

 山の上から、雪が降ってきているのだ。


「あともう少しだね」温子の言葉を返す暇もなく、私は100キロを超えてアクセルを全開にする。


「いっけえええええええええええ」


 キャッキャと温子2世は笑った。まったく、こんな山に一生閉じ込められるのだけは死んでもごめん。

 死んでるけど、死ぬのは嫌。



「捕まっててえええええええ」私は叫ぶ。

「きゃー早い、面白い、面白い」

 温子2世は呑気だ。私は120キロを出す。どうせ警察なんかこんなとこにいやしないんだから。



「あ、雪」



私達の車の後ろで雪が降った。雹が落ちてきた。


ぼとぼどぼどぼど


「あっはっはっはっは」

 温子2世は笑う。後ろのミラーは、白のベンツを捉えた。ベンツは雹に直撃していた。


「振りかえんない方がいいよ、お姉ちゃん」

「わかった」

 私はそのままトンネルに入る。少し先に、明かりが見えた。ここを抜けたら、まず服を買って、プチ整形して……。

 振り返ってる暇なんか、ない。


 私はそのまま壁に向かって車を走らせた。光が見えたが、それが明るいのかはわからない。ただ確実に出口が見えて、その外には白い世界が待っているのだ。



〈了〉



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