エージェント・クロス ~外務省直轄第五世界特別捜査官~

手島トシハル

第1話 ガクチカ、なにはともあれ



   §



 簡素な椅子と、横並びの机。小さめの窓は分厚いカーテンで閉じられ、日光に代わり室内を照らすのは、ジジジ、と低く唸る蛍光灯の類だった。


「それでは、お名前、ご年齢をお願いします」


 礼服に身を包んだ面接官がそう促すと、はい、と短い返事を伴って、対面に座るひとりの青年が静かに立ち上がる。いかにも自然な佇まいといったふうなその所作には、焦りや気負いの色は感じられない。


黒須くろすがく、25歳です。本日はよろしくお願いいたします」


 お辞儀はやや深めの45度。きっちり3秒で上体をあげた青年──黒須は、そのまま直立していた。


 面接官の名乗りと、着席の促し。いかなる面接も、これらを待たずに始まろうものか。それが黒須の認識であり、また一般に多くの就活生、ならび社会人の心と身体に叩き込まれているであろう常識であった。


 ただし、今この局面においても自分の常識が通用するのか、黒須にはやや自信がなかった。


「よろしくお願いします。本日面接官を務めさせていただく、ビァルタといいます。……まあ、そんなに固くならないで。面接といっても、キミの人となりを知りたいだけなんだ」


 なんせ、溌剌とそんなことを言う面接官が、礼服を着た巨大なハエ・・・・・なのである。


「とはいえ、履歴書には一通り目を通しておいたんだけど。すごいね、トゥクーバ大学なんて、名門じゃない」


 ビァルタ面接官は、礼服の袖からからほっそりと伸びる前肢──いや、手か──を高速で摺り合せながら言った。


 ハエが手を摺るのを命乞いと喩えたのは小林一茶であるが、黒須には目の前のハエ男がゴマを擦っているようにしか見えなかった。


「光栄です」


「で、大学時代は何を? ごめんね、社会学類なんて言われてもピンとこなくてさ」


「いえ、そう思われるのも無理はありません。主専攻まで書いていないかった私の落ち度です。社会科学に該当する分野の中でも、私が主として研究していたのは──」


 それから、よどみなく学生時代の研究内容をそらんじながら、黒須は思った。


 これは、なんというか、存外なんとかなるかもしれない。


 完全に成り行きで受けることとなった採用面接とはいえ、ここでの内定は、彼の目的へと一足飛びに至る、いわば特急券のようなものだ。



 つまりそれは、魔王領での潜入調査。



 『魔王』なんていうイカつい字面と市井の風聞から、どんな魔境かとばかり思っていたが、なんてことはない、人が暮らし、人が治める、人の国である。……喋る巨大なハエを人と言っていいならばの話ではあるが。


 しかし、言葉が通じ、そこに理があるということは、黒須にとっては追い風だった。


「なるほどね。よくわかりました、ありがとう。そしたら……そうだな、特技とか、聞いてもいいかな」


「はい。私の特技は、人と人との──」


「あーごめん、そういうことじゃなくてね」


 黒須の言葉を遮るビァルタの表情は推察できないが、それも仕方のないこと。黒須は人の顔色を窺うのは得意だったが、未だかつてハエの顔色を窺ったことはなかった。


「『神託ギフト』とか、『天啓スキル』とか、いろいろあるでしょ、最近? 私個人としては、きみみたいな利発そうな若者はもう一発で上に通したいんだけどさ。一応、わかりやすい根拠をもらえると助かるかな」


 困った。東京都杉並区に生まれ育った黒須に『神託ギフト』とか『天啓スキル』とか、あるはずもない。


 やはりメラゾーマのひとつでも習得しておくべきだったかと答えに窮する黒須に、ビァルタが助け舟を出す。


「そんなすごいスキルを言わなきゃいけないわけじゃないよ。なんなら、簿記とかでも」


「簿記」


「うん、簿記。複式簿記」


 黒須は面食らった。関連資料によれば『スキル』は、『ライジングスラッシュ』やら『メテオバースト』やら、MPを消費しそうな字面のものが大半であった。そのならびにあって『簿記』……『簿記』かぁ。確かに、『資格スキル』には違いないけれども。


「日商でよろしければ、2級です」


「え、そしたら、決算書BS/PLとか読めちゃう?」


「一通りは」


「いいね! そしたら経理もいけちゃうかもな」


 日本商工会議所の定める検定範囲が魔王城下でも正しく伝わっていることに戦慄する黒須であった。そうか、魔王領、決算書あるのか……。


「そういう『資格スキル』でよろしいのであれば……TOEICスコア等でも大丈夫でしょうか」


「なに、英語もできるクチなの!?」


 英語。英語ときたか。まあそうだよな、この面接官ハエもビァルタなんて名前だけどバリバリに日本語喋ってるもんな、英語くらいあるよな……。


 釈然としない面持ちで黒須は己のTOEICスコアを申告した。


「890点です」


「すごいじゃない! それ最初から言ってよ!」


 ビァルタは興奮して背中の翅をさざめかせた。その音が、ジジジ、ジジジ、と蛍光灯の唸りと奇妙な共鳴を上げ、机上の書類(おそらく黒須の履歴書等だ)をわずかに震わせる。


「ウチは昔からわりと地元志向なんだけどね、ここだけの話、最近販路の拡大とかも目論んでるんだ……そうだ、そんな点数なんだったら、もしかして留学経験とかもあるのかな」


 黒須はなんとなく思った。大きめの中小企業の採用面接ってこんな感じなんだろうなあ……。



   §



 その後、一次面接はつつがなく終わった。


 そしてどうやら、本日中に二次面接をも済ませてしまうらしい。しばらくここで待て、と案内された部屋は、どうやら来客対応用の応接室であるらしく、黒須は面接会場の椅子より数段豪奢な革張りのソファに浅く腰かけていた。


「虫は聞いてないよ、虫は……」


 呟きながら浅く呼吸を繰り返す黒須は、特段虫が苦手というわけではない。ただ、それが、あまりにも巨大でかつ明らかに人間然としてふるまっている姿には少なからずショックを受けたようだ。


「肌の色ごときでピーピー言ってる連中に見せてやりたいもんだな、全く」


 というか、あの身体構造でどうやって発話してるんだろう。黒須は生物学には明るくないが、それでも虫が口から声を発するタイプの生物ではないということくらいは常識として知っている。いやまあ……虫じゃないんだろうな。あれはヒトだ。どう見ても複眼だったし節足だったが、きっとヒトなのだ。


 そうだ、多様性ダイバーシティが叫ばれる昨今、見た目が多少・・虫っぽいくらいでなんだというのだ。なんなら黒須の学生時代のゼミの教授は、カマキリと言う他ない顔立ちをしていた。カマキリ教授が居るならば、人事バエが居たところで何らおかしくはない。


「おっ、クロス黒須も一次通ったん? やーるぅ」


 だから、部屋に入るや軽薄な調子でそんなことを言う者が、完全無欠に骸骨スケルトンであっても、黒須は動揺することはないのだ。


 いや骸骨ってなんだよ。生き物ですらないが。


「……ファリオ。きみこそ、自信満々だっただけはあるんだな」


「ったりめーじゃん! この日のために、どんだけ鍛錬してきたと思ってんの」


 骸骨は黒須の肩を軽くどついた。本人的には気安さを込めてのことなのかもしれないが、硬質な骨の殴打をモロに食らった黒須は、鈍い痛みに顔をしかめる。


 骸骨──ファリオは、魔王城の採用試験に向かう道中で右往左往していた黒須に救いの手を差し伸べてくれた、気さくなスケルトン……ということになっていた。実際のところは勘違いも甚だしいが、黒須にとっては都合の良いことこの上ない誤解であったため、彼はこれに乗じて魔王城へと至ったのである。


「……もしかして、君の言う鍛錬というのは……簿記とかなのか?」


「いや、聞いて驚け……俺は先月、ついに『弁理士』の天啓スキルを授かったんだ!!」


 ……………………。


 いや、すごいとも。確かにすごいが。弁理士と言えば、知財のプロフェッショナルとでも言うべき士業だ。日本においては難関国家資格の一角を担っており、その合格率は10%を大きく割りこむ。でもそんなことはどうでもよくて、


 ──調査資料には、武力がモノを言う弱肉強食の世界とあったはずなんだが。


 この場合の『弱肉強食』はまさか、資本主義社会の暗喩ではあるまい。だが確かに、資料の不確かさは、魔王領へ到着以来黒須が抱いていた違和感に対する解答でもあった。


 ……事の発端は、2ヶ月前。まだ黒須が日本で事務職ホワイトカラーをやっていた頃にまで遡る。

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