第30話

 食費も家賃も光熱費も要らない。そのことを鑑みても、この給与金額は厳しい―。

 提示された勤務形態と金額を受け入れざるを得ず(ダブルワークの職を探すという案も、結局このご時世では容易でなかった…)、帰る道すがら依里子は何度も自分の今後の収支バランスを考えた。


『税金は、若干安くなる。けど、保険料、通信費はそのままでしょ。美容院代とか、身なりを整える費用もそうそう変えられない。積立貯金、これもできれば金額を変えたくないけれど、でも見直すとしたらここかしら。

 …仕事を減らして楽しようとは思ったけど、ここまでとは。料理は、もう私の仕事って確定したようなものだし、また何かとびしびしやられて、ストレス溜まりそう…でも、やるしかないのよね』


 どうやって自室に戻ったのかさえも記憶にないまま部屋の机に向かって考えに考え続け、最後にそう結論付けると、依里子は両手でパンっと頬を叩いて気合を入れ立ち上がった。


        ***


 サンルームで少し遅めの午後のお茶を飲みながら、貴禰はぼんやりと窓の外を眺めていた。だが、目に映るものは何一つ、その意識には上っていない。心は、これまでの、そして、これからの暮らしへの想いに占められていた。先ほど帰ってきた依里子は、あらおかえり、と声をかけてもてんで気付かず、どこか思いつめた表情で部屋へ消えた。あの顔、15年前を思い出させる。そう、あの子は―。


 そのとき、扉を控えめにノックする音がした。噂をすれば影、かしら。そんなことを考えながら、お入りなさいと声をかけると、果たして依里子が神妙な顔を覗かせ、戸口に立ったまま息を1つついて話し出す。


「あの、今、お時間よろしいですか?」

「いいわよ。そんなところに突っ立ってないで、お入りなさい。お茶、いかが?」

「いえ、あの、だいじょうぶです。あの、私の、今後の勤務スケジュールについて、お伝えしておきたいと思いまして、あの―」

 そう言いながら近づいてきて示したモバイル画面には、『勤務スケジュール 週間予定』と題したカレンダーが表示されていた。


「あら、随分と勤務時間を減らしたのね。だいじょうぶなの?」

 そう言いながら親指と人差し指で円を作ってお金を示すしぐさをすると、依里子はやや沈んだ顔で口を開いた。

「正直、ここまで減らすつもりは無かったんです。ですが、勤務時間を削減したいと伝えたら、AIやロボット導入で人件費を削減したい施設の担当者から、これ幸いとばかり減らされてしまって。人間の勤務者数と時間が基準を割り込むと困るから別の施設で続けてほしいとは言われたんですが、その別の施設というのが、何と言うか、あの、手のかからない方が多いんです」

「? そのほうがいいんじゃないの?」

「ええ、でも、今までいた施設は、それで給与の他に諸手当が付いていたので…」

「ああ、なるほど。施設側は、その諸手当の分も減らしたいってことね」

「はい、はっきり言われたわけではないですけど、そういうことだろうと思います。人間を雇うより、そうした手当が不要なAI介護ロボなんかで対応したほうがいいというのが、本音でしょうね。今までがんばってきたのは一体何だったのかな、なんて思ってしまって」

「そうなの…」


 しんみりした声につられて、貴禰も思わずしんみりした声になるが、

「でもね、ものは考えようよ?」

 次の瞬間、依里子を慰めるかのように明るい声を出した。

「考えよう?」

「そう! それでも、収入がゼロになったわけじゃないわ。お小遣いくらいは稼げるでしょう? それに、その分時間ができるわけだし、もっといろいと教えてあげられるわ。お掃除やお料理だけじゃなく、食べ方も―そうそう、あなたのお箸の持ち方が、ずっと気になっていたのよね―、それに、習い事もできるわよ。着付け、着物での立ち居振る舞い、お茶にお花、書道、あと、そうね、習いごとじゃあないけれど、衣服の管理なんかもね♪」

「!!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る