第26話 貴禰と依里子、それぞれの思惑

 翌日の帰宅の道すがら。依里子は貴禰から『戻ったらダイニングにいらして。お話があるの』というメッセージを受け取った。何かしら? 家事を増やされるの? 何かを仕込まれるの?

 昨日の貴禰の言葉を思い返し、依里子は知らず身震いをした。だが次の瞬間、頭を強く振り嫌な考えを振り落とした。…負けられない、私にも考えがあるのよ。そう、『悠々自適な生活』の件。何としても認めてもらって、楽をさせてもらうんだから! ―そんなことを考えながら帰宅してダイニングに行くと、貴禰はすでにそこにいて、緊張感を漂わせる依里子に向かって楽しげにこう告げた。


「さあ、本契約も済んだことだし、これからは遠慮なしよ。お掃除だけじゃなくて、お料理、お作法、その他諸々、徹底的に叩き込んであげますからね。とりあえずは、お台所のことね」


 またも指をぽきぽき鳴らさんばかりの勢いで言われて、依里子はたじたじとなる。これからは遠慮なしよ、ですって? 徹底的に叩き込む、ですって?

 一体何が始まるっていうの? ていうか、掃除や料理からお茶を飲む際のマナーに至るまで散々あれこれ言われてきたあれ、あれで遠慮していたってこと?? あんな調子で、振り回されるのは、絶っ対! ごめんだわ。

 …とはいえ、今の自分一番の課題は、介護施設での仕事を辞めること。この仕事がある限り、優雅な生活はほど遠い。辞めたら辞めたで、時間ができてよかったわとか言ってお屋敷でいろいろ叩き込まれる恐れも増えるけど、これはまあ、何とかうまく回避するとして…。

 ―そんな心の中の思いは被った猫の皮の下にぎゅうぎゅうに押し込んで、依里子は遠慮がちに切り出した。作戦その1、開始よ。


「すみません、あの、ご相談したいことがあるのですが」

「あら、なあに?」

「今後のことなのですが、近々、今の職場を辞めようと考えています。貴禰さんと、できるだけ長く一緒に過ごしたいですし」


 職場で大勢の年寄りに振り回されるよりは、家でばあさん1人の相手をする方が―たとえちょっとばかり頑固だったり、教え魔だったりしても―楽に違いない。今まで散々忙しい思いをしてきたんだもの、ここらで少しのんびりしても、罰は当たらないでしょ。執事の矢城野さん(執事なのに、ヤギ。最初に気づいたとき、思わず笑ってしまった)もそうしてほしいみたいなことを言っていたし、いろいろ教えると言っても、まさか四六時中ということはないでしょうし。


 そう、仕事を辞めたら、ここでの暮らしはこんな感じ。

 朝9時の朝食に合わせて、ゆっくり8時に起床して準備。食事を終えたら、掃除、洗濯。これは最新の家電導入でお任せ♪ ―これ、作戦その2ね―午後にばあさんのお茶の支度をして、お茶に付き合っておしゃべりして、夕方には、買い出しついでにカフェに寄ったりなんかしちゃって。夕食は宅配サービスで、片付け含め家事はノータッチ。せいぜい食後のコーヒーの準備くらい。ね、かなり優雅に過ごせるわ。

 慎ましやかな猫の皮の下で皮算用をしていると、貴禰が、そうねえ、と言った。



「夜勤を減らして昼間の勤務メインにするとか、時短にするとか、そんな感じで変更してもらえるなら、そのほうがいいわね。職場に相談してらして。やっぱり、生活のリズムが合わないといろいろ不便ですものね。でもね、仕事は続けないと。でないと、あなた、自由にできるお金が無くなっちゃうわよ」

「えっ?」

 甘い夢想を打ち砕く貴禰の言葉に、依里子は、顔に張り付けていた微笑みを瞬時に硬化させた。お金が無い? どういうこと?

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