3.
完全に理解を越えた悪夢そのもののような光景を前に、綾城は立ち尽くしていた。
ドロドロに溶けた異形。長い身体に沢山の脚を生やした異形。昔見た、物理演算の狂ったゲームのキャラのように首を振り乱す異形。そして、蹲って泣きじゃくる田村に手を伸ばす目玉の無い異形。
綾城にはもうそれを眺めていることしかできなかった。どうやらこれが、人間の限界だったらしい。国家権力も、警察の威信も、結局のところ”話の通じる相手”にしか意味をなさないのだ。
愛する人だったものに手をかけられようとしている田村を見つめながら、綾城は自分のこめかみに銃を突きつけた。
正気を失うことが出来たならいっそ楽だったのかも知れない。
冷静にそんなことを考えながら彼は引き金に指を掛ける。
ふと視線を落とすと、首振りが田村に触れようと手を伸ばすところだった。何をするのか分からないが、苦しい死に方なら流石に止めてやるべきか。
銃口を伸ばされた腕に向ける。
──血色の悪い腕が目の前にぼとりと飛んできた。
何が起きたか分からず目を白黒させていると、首振りが金切り声を上げた。右の二の腕から先が消え失せ、黒い血が噴き出している。
澤田奈緒だったものがゆっくりと振り返り、異形たちの前に両腕を広げて立ちはだかる。
「奈、緒……?」
彼女は答えない。
しかし、無い筈の両目は確かに”敵”を捉えていた。
「──綾城さん!」
現実離れした状況とは不釣り合いな声に振り返ると、泣き腫らした顔の妹分が文字通り飛び込んで来るところだった。
「千尋……無事だったのか!」
「良かった……間に合った……!」
抱きついて胸に顔を埋める彼女の背後には、よく見知った姿もあった。
「お前……橋田、か……?」
「……あたしは今のところそう思ってます」
彼女は複雑な笑みを浮かべ、二人を通り過ぎていく。その視線はただ一点を見つめていた。
「やっぱり、ここにいたんだね。その様子だとフラれたんでしょ? 綾城部長に」
彼女は真っ黒な塊の前に立ち、話しかける。周囲の異形に物怖じもせず、友達か何かのように。
意外なことに、”それ”は黙って聞いている。先程のように苦しんだりもしない。言うなれば呆然と、立ち尽くしていた。
「もうやめな。ここにあんたの欲しいものはないんだ。……ないんだよ」
「恵子……」
顔を上げた千尋が呟く。色々と聞きたいことはあるが、今はこの体温が何よりも愛おしかった。
誰も物言わず、ただその場に立っている。
怖ろしいような、優しいような。そんな奇妙な静寂を、大きな葉擦れの音と共に視界の端から侵入した何かが破った。
綾城はハッと辺りを見回し、周囲の闇からいくつもの長い腕が伸びていることに気づく。
視線で辿った先に見えたのは木々と同じくらい背の高い、引き伸ばされた人の影のような身体。
しかし迫り来るそれらに表情や感情の類は一切感じられない。
「なんだ、こいつら……!」
「さっきも見た……何なの、一体!」
全部でどれだけいるのかは想像もつかない。
ただ、木立の隙間という隙間から溢れそうなほど頭と腕を出すその様は。
人があらゆる闇に対して抱く”恐怖”そのものに見えた。
「わぁっ、く、来るな! 来るなぁ!」
田村のもとに影の手が殺到する。
力を振り絞って後ずさる彼の前に異形となった澤田奈緒が立ち、押し寄せる手を見えない壁で弾く。
同様に他の異形たちも伸びてくる手を掴んでは千切り、放り捨てていく。
「戦ってる、のか……?」
綾城は困惑しつつも千尋を庇うようにして銃を構える。
効くとは思えない。しかし今重要なのは恐らく、生きていようとする意志だ。こんな豆鉄砲でも、それを示す道具くらいにはなるだろう。
否、なってもらわないと困るのだ。
「橋田、こいつらは何なんだ!」
「分かんないですよ……ただ少なくとも、生きてようが死んでようがお構いなしって感じ」
橋田が困ったように呻く。その後ろではあの黒い塊が怯えた様子で縮こまっている。推測だが、これはそう見えるだけではない。こいつもまた怖れているのだ。
「どうしたらいいの……このままじゃ皆……!」
千尋が小さく呟く。
気づけば影に対峙するもの達は背中合わせとなり、広場の中心に追い詰められていた。
抵抗むなしく、ドロドロの異形が影の手に捕まって闇に消える。続いて片腕を失っていた首振りが、間を置かずして百足が。
伸びてくる腕は尚も数を増し、今や周囲の木々すら見えない。
そして、残る全員を守って戦っていた澤田奈緒もとうとう右腕を掴まれた。
「──っ、ダメだ!」
田村が咄嗟に彼女の身体を抱きとめる。
「……!」
彼女は一瞬だけ彼を見て、すぐに顔を背ける。
「もう、もう離さないぞ……! 絶対に! どんな姿になっても奈緒は奈緒だ! 俺の、大切な……!」
「…………」
彼女はやはり何も言わず、左手を彼の腕に添えた。
影の手の力は強く、全体重を掛けた田村ごといとも容易く引き摺り込もうとする。
「耐えるんだ、田村くん!」
「行っちゃ駄目よ!」
綾城と千尋が二人の身体をしっかりと掴み、力の限り踏みとどまった。
「無茶だよ! 二人まで連れて行かれちゃう!」
橋田が叫ぶ。
分かっている。
それでもただ見ている訳にはいかなかったのだ。
生き延びるために。
絶望に呑まれぬために。
必死の抵抗を見せる三人を嘲笑うかのように、無数の手が伸ばされた。
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