最終章 陽仰
1.
「恵子……無事だったんだ、よかった……!」
肩を担がれたまま、息も絶え絶えに千尋が言う。
「そうね、お互いに。足は大丈夫?」
恵子は冷静に背後を確認しつつ答える。追われている様子こそないものの、激しい木々のざわめきが否応なしに焦燥感を駆り立てていた。
「大丈夫、歩けるよ。それより……どうしてここにいるの? 捕まってたんじゃ……」
「……分かんない。気付いたらここにいた。周りに誰もいなかったしとりあえず歩いてたんだけど、千尋の声が聞こえたから」
「そっか……あっ!」
思うように動かない足がもつれ、千尋が躓く。恵子に支えられていたお陰で二度目の転倒は辛うじて避けられた。
「大丈夫?」
「ご、ごめん……声聞いたらなんか力抜けちゃって」
「タイミング早いってば。相変わらずどんくさいんだから」
恵子が呆れたように笑う。
「分かってるよ……厳しいなあ」
「何を今更。初任科時代からずっとでしょ、あんたがドジしてあたしがごまかすのは」
「そういえばそうだね……私、恵子がいなかったら卒業出来てなかったかも」
「それはないでしょ。あんたあたしと違って優秀だし、真面目だもの。結果は変わんないよ、きっと」
「なあにそれ、皮肉? 主席卒業からの?」
「あーあ、拗ねちゃった。本心だって」
そう言って恵子がカラカラと笑う。昔と何一つ変わっていない。
彼女は優秀だった。
座学の成績も、体力も、職務に懸ける思いも。千尋が勝てるのはせいぜい几帳面さくらいのものだった。
配属先だって本来は彼女が刑事課に行く筈だったのである。
それを『事件捜査みたいな繊細な仕事は千尋の方が絶対向いてます。それに、あたしはずっと"町のお巡りさん"になりたかったので』と一蹴し、交番勤務の道を選んだのだ。
互いの道を歩み始めた後も、彼女は影に日向に千尋の助けになってくれた。
心の支えになってくれた。
だからこそ。
今度は自分が助ける番だと思ったのだ。
「ありがとうね、恵子」
「……何よ、急に」
助け、たかったのだ。
「ごめんね、ごめん。私……」
「ちょ、ちょっと泣いてるの? どうしたのよホントに」
嗚咽を漏らして立ち止まった千尋の目尻に、慌てた彼女の指先が触れる。
本当は気付いていた。
認めたくなかったのだ。
彼女の身体が、氷のように冷たいことを。
「ねえ、教えて。……何があったの?」
決意を込めて、千尋が問う。
「…………」
恵子は黙っている。
「さっきのはどう考えても生きてる人じゃなかった。失踪事件はあいつらの仕業なの? ……あなたも、それに巻き込まれたの?」
「…………」
やはり恵子は悲しそうな表情で推し黙っている。オカルトや都市伝説のことなら何でも喜んで教えてくれた彼女が初めて、沈黙で答えようとしているのだ。
「……あなたが本当に恵子ならお願い、教えて。これ以上犠牲者を出したくないの」
溢れる涙を拭いながら、絞り出すように千尋は続ける。
警察官として。彼女の友として。その想いだけが千尋を両の足で立たせていた。
「……刑事になっても、泣き虫は変わんないね」
恵子は微笑む。
「だいたい千尋の想像通りだよ。この町で人を攫ってるのは得体の知れないなにか。それから……今ここにいるのはもうあんたの知ってる橋田恵子じゃない。多分ね」
千尋はその場にへたり込みそうになったのを必死で堪え、彼女を見据える。
「"あれ"がなんなのかはあたしも知らない。けど、実際触れてみて分かったことはある」
上空の闇を眺めながら、ゆっくりと思い出すように続ける。
「あたしたちは、食べたり殺すために連れて行かれたんじゃない。……声をね、聞いてたの。連れて行かれてからこの森で目を覚ますまでずっと。『寂しい人、怖がってる人、助けてあげて、連れてきて』ってね」
「どういう、こと……?」
「さあね。目的は分からないけど、とにかくあれに攫われた人は"攫う側"にされるみたい」
彼女はこちらに向き直る。嘘を言っているようには見えなかった。
「どうしてそんな、手間のかかることを……」
「自分の体験からの推測でしかないけど……あれとあたしたちは多分、本来はお互いに見たり触れたり出来ないものなんだと思う。だから人の考えてることを読み取って、一番気を引けるもの……大抵はその人が一番怖がるものになることで、”気づいてもらう”んだ。可聴域を超えた音の周波数を下げてくみたいにね」
「つまり……きっかけが必要、ってこと?」
「多分ね。攫った人間の身体を使えばある程度その手間を省けるのかも」
「……じゃあ、私のところに恵子が来たのは」
「千尋が望んだから、なんだろうね」
自分の手を眺めながら恵子が答える。その様子に千尋は胸の痛みを覚えた。
「悪いことばかりじゃないよ。こうなっても、どういう訳かあたしはあたしのままだった。だから助けられたの」
「……私、恵子が、死んじゃったなんて思えなかった。生きてどこかに捕まってる、また会えるって思ってた」
「今話せてるってことはそういうことだろうね。……半分は叶わなかったけど」
「恵子……」
「そんな顔しないでよ。死んでもなお市民を……友達を助けられたんなら、警察官としては及第点じゃない?」
そういって彼女は笑った。
それはあまりにいつも通りの笑顔で、彼女が死人であるなどタチの悪い冗談としか思えなかった。
「けど、まだ終わってない」
「え……?」
一点して真剣な目つきになった恵子が続ける。
「千尋の言う通り、このままだと被害は出続ける。原因を何とかしないと」
「でも……どうやって? もう私達じゃどうしようも……」
「それは──」
──そのとき、乾いた破裂音が暗い森に響いた。
「い、今のは!?」
千尋が慌てて周囲を見渡す。
「銃声……?」
「まさか……綾城さん!」
「いけない、急ごう!」
言うが早いか、二人は音のした方へ駆け出す。
遠くの方で、空が白み始めていた。
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