第2話 私が私として存在するということについて(後編)


 私の個性というものは、私の外面性と内面性から成り立つ。そして私の内面性というものは、私が生きている限り、私自身でのみ観察することが可能な個性の一部分である。では私の死後、私という個性は、内面性の欠如によって破綻してしまうことになる。そう考えると、私という個性が破綻した私の死後に、私という個性の欠如した存在を、個性と呼ぶのは余りにも乱暴な気がしてならない。


 私は私という在り方には二通り存在すると考える。それは立体的在り方と平面的在り方である。立体的在り方とは、私がこの世に存在していて、私というものを自覚している状態での在り方である。一言で説明するならば、三次元空間にて存在する私だ。しかし、ただ三次元空間にて存在していればいいという問題ではない。三次元空間にて己の自己像を自覚できる意識があって、初めて私は立体的私として存在することができる。すなわちその意識を失った私は、立体的私ではないので注意して頂きたい。


 次に説明するのが平面的私だ。平面的私とは、他者の記憶に依存することで成り立つ私の存在のことである。私の死後、他者は記憶という脳内の記録領域で、私という自己像を映し出すことによって、私という存在をこの世に存在させるのだ。このときの私とは、私を記憶する他者の内面性に存在する。それは比喩的に表現するならば、他者の心的画面上に映し出された平面的私である。


 私は立体的私のことを準完成自己像、平面的私のことを不完全的自己像と呼ぶ。

 

 準完成自己像とは、完成に最も近い自己像のことである。ここで完全という言葉を使わないのは、私が今取り上げている問題が、自己像の完成というような自己同一性の問題を解決するためには、余りにも物足りないからだ。


次に不完全的自己像とは、自己像として私自身が解釈するには、言葉通りに不完全な自己像のことである。


 準完全自己像も不完全自己像も私の自己像であるということには違いない。しかしこの二つの在り方は、似ているようで全く異なった在り方であるのだ。どちらも私をという存在的意味を持つ。しかし真に存在的であるのはどちらかと考えると、やはり準完全自己像の方であることは言うまでもない。


 まずは不完全自己像について考察する。不完全自己像とは、私以外の他者が、平面的私を認識することによって存在する私自身の自己像である。これは先ほども述べたが、他者の記憶に依存することで、初めて他者から存在として認識される。要するに不完全的自己像とは、他者の記憶の一部でしかないのだ。そして他者の記憶の一部である私の自己像とは、もはや他者の印象でしかなくなってしまう。他者は己の持つ印象を組み合わせることでしか、私という人間を認識することができない。私はこれを印象的認識と呼ぶ。いったい印象的認識というものが、私の内面性をどれ程までに観察できるというのだろうか。印象は印象でしかなく、その認識を頼りに存在肯定をするとき、その存在が私としていかに不完全なことか。ただしその存在がどのような存在であれ、存在しているといことには変わりないので、私はこの私という存在のことを不完全自己像という存在として、存在していることを肯定はする。ただし準完全自己像に比べると、余りにも非力な存在の仕方であることに変わりはない。


 次に準完全自己像についてだが、これは他の誰でもない私自身が、立体的私を認識することによって存在する私の自己像である。不完全自己像は印象的認識によって存在したが、準完成自己像は自覚的認識によって存在する。自らが自分自身の内面性を自覚することによって、私は初めて私という個性の存在を最も正確に認識することができるのだ。当たり前のことではあるが、私の準完成自己像を認識することができるのは私だけである。自覚的認識自体は誰しもが持つ共通意識であるが、その対象は常に必ず自分自身であるということが重要なのだ。


 全ての人間が自覚的認識を行う能力を持つが、誰しもが自ら以外の人物を対象に、自覚的認識で存在を観察することはできない。自覚的認識を行えるのは、私が私を観察するときだけである。そして自覚的認識は私だけに限定されて行われるので、自覚的認識によって存在する私は一つの存在として存在している。逆に他者が印象的認識によって私を観察するとき、私という不完全自己像は、私を知る他者の数だけ存在することになる。更にその不完全自己像はどれを選び取って並べてみても、幾つかある不完全自己像が完全一致することは絶対にない。そもそも印象的認識という働き自体が、その観察者に限定された心的行為であるため、その観察対象である私という存在と、比較することさえもが不可能なのだ。要するに印象的認識で他者の存在を把握するということは、その試み自体が余りにも主観的なものであって、おそらく無限的で答えのない問題になってしまうということだ。


 では私が私として存在することとは、いったいどういったことであるのか。上記の思考結果から考えてみよう。


 私という存在を観察対象とするとき、私は自覚的認識を行うことで、他者の記憶に依存しない立体的私を、これが準完全自己像であるとして、最も真理に近い私の存在について語ることができる。


私達は似ても似つかない二種の自己像を理解することで、私が私として存在することについて、どのような手段を行うよりも明確に把握することができるのだ。


 私が考える私という存在とは、私は私であるという意識を前提にして、他者の記憶に依存することなく、自らの個性を認識可能なときに、初めて具体化することが可能な概念のことである。


 私が私として存在するということは、私が私として生きている限りは、準完全自己像という私自身の人間性を、何者にも汎用されることは許されないという、私という個性に与えられた、かけがえのない自由を主張するということである。

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