あいさつはしっかりとっ!
逢雲千生
あいさつはしっかりとっ!
子供の頃に教えてもらうあいさつを、皆さんはどれくらい覚えていますか。
私が幼い頃は、人が家に来たら「こんにちは」、外で人に会ったら「おはようございます」など、とにかくあいさつをしなさいと言われていました。
今になって思えば、あれは親だけなく、大人たちからの教えだったのだと思うのですが、今の人たちは、それをどう考えるのでしょうか。
タツミという名前の私は、ごく普通のサラリーマンの家庭に生まれました。
幸せといえば幸せで、可もなく不可もなくという幼少期を過ごしてきたのですが、唯一厳しかったことはといえば、あいさつだけはしっかりしなさいと言われ続けていたことくらいです。
人というのは不思議なもので、毎日顔を合わせていて、仲が深まってくると、その人がいるのが当たり前だと思ってしまいます。
そこにいるのが当たり前。毎日会うのが当たり前。現代ではテレビ電話もできるので、なおさら身近に人を感じられるからかもしれません。
私自身、成長するほどにあいさつがおろそかになっていき、思春期も重なってか、あいさつというものを軽く考えるようになっていました。
家族とはほとんど会話せず、友人たちとは簡単なあいさつだけで済ませ、目上の人には表面だけきちんとしていたくらいです。
社会人になった今では、顔から火が出るほど恥ずかしい行動ばかりでしたが、当時は若さもあり、怖いものなしと思っていたからかもしれません。
ですが、そんな態度で過ごしていた私にも、考え直すきっかけが訪れたのです。
私が高校二年の夏です。
あと少しで夏休みだという時に、担任だった女の先生が産休に入るため、送別会をすることが決まりました。
終業式なら全員で集まりやすいし、午後は丸々空くので、どこかでパーティーを開こうと、幹事役を任された私と田中は、お店探しをするために、休日を使って街に出ました。
田中という人は、真面目そうな見た目に反して明るい性格で、普段は難しそうな本を読んでいるのですが、話しかけると普通に会話してくれます。
大騒ぎするタイプではないので、合わない人もいますが、それほどはしゃぐことが好きではない私には、彼くらいの明るさがちょうど良かったくらいです。
けれど、ほとんど会話したことがなかったからか、お互いに無言で歩く時間の方が多く、二、三軒回った頃には疲れ始めていました。
ひとクラス四十人、そこに、
できるだけ安く済ませたかったので、どこか大きな会場を貸し切るという選択肢は初めからなく、町内の店なら受け入れてもらえそうだと軽く考えていたことが
それなりに受け入れてくれそうなところはありましたが、お店を休んでまで受け入れるのは難しいと言われることもあり、私たちはとりあえず、お腹を満たしてから考え直そうと、一番近い喫茶店に入ったのでした。
古い感じの喫茶店内は、ゆったりとしたクラシックとジャズが交互に流れていて、とても落ち着ける場所でした。
お店自慢だというサンドイッチを注文すると、冷たい飲み物を飲みながら、照りつける日差しから解放された気がして、思わずほうっと息が漏れました。
「このあとどうする?」
私が聞くと、田中は町内の地図をテーブルに広げながら考えます。
地図には×印が付けられていて、事前に調べておいた大人数対応の店の半分を、赤い丸ごと候補から外していました。
「とりあえず、近い店からあたっていこう。ダメならもう一度みんなで相談して、学校のどこかを借りれないか聞いてみるのもありかもしれないね」
「そうだね。そうなったら残念だけど、会場が決まらないよりはいいか。あーあ、せっかく先生に楽しんでもらえると思ったのになあ」
私たちの担任は、気さくでとっつきやすい人だった。
相談しやすく話しやすい人でもあったため、クラス以外の生徒からも好かれている先生で、結婚したと知らされた去年の秋には、一部の男子が泣いたという噂までたったほどだ。
さすがにそれは……と思ったが、クラスメイトに落ち込んだ人がいたので、ないわけではないだろうと考え直したのは記憶に新しい。
私自身、進路について相談にのってもらったことがある。
先生は私達と十歳くらいしか違わないから、他人事だと思えなかったので、元気な赤ちゃんを無事に産んでほしかった。
そして、少しでも楽しい一学期だったと思ってもらいながら、産休に入ってもらおうと必死だった。
いずれは戻ってくるつもりだと言っていたけれど、育休もとっている先生が、私たちが二年生の間に戻ってくるのは無理だとわかっている。
当然、来年も担任になってくれるかわからない。
だからこそ、先生が大好きな私たちは、恩返しも含めて頑張っているのだ。
田中が地図を見ながら店の場所を確認していると、注文していたサンドイッチがきた。
四十代くらいの女性が笑顔で置いていくが、田中は夢中で気づかない。
嫌な人だと思われたくなくて、私が精一杯の笑顔で対応していると、ようやく気がついた田中がお礼を言うが、彼女はさっさと厨房に戻っていってしまった。
「夢中になるのは勝手だけど、お礼はちゃんと言わないと。失礼だよ」
「ご、ごめん……」
落ち込む田中に料理を押し付けると、私は自分の分を前に両手を合わせた。
「いただきます」
熱々の具材を、しっとりとしたパンと共に口に放り込むと、もう至福の時間だった。
美味しいサンドイッチを次々と頬張っていると、驚いた顔の田中が私を見ていることに気がついた。
「何? こっちが食べたかったの?」
そう言って食べていない分を指差すと、彼は慌てて首を横に振る。
そして照れくさそうに頭をかくと、意外だなと言いながら話してくれた。
「お前とかクラスの奴らって、あんまりあいさつとかしないからさ、なんか意外だなって思ったんだ。食べる時も人に会った時も、何もしないんじゃないかって思ってたからさ。失礼だよな。ごめん」
私こそ、意外な話に驚かされた。
幼い頃から口酸っぱく言われていたので、人とのあいさつはともかくとして、食事の前後ではきちんとあいさつをするのが当たり前だったからだ。
これは両親だけでなく、祖父母たちからも厳しく言われていたので、癖になっているのかもしれないが、高校でできた友達にも「びっくりした」と、最初にお昼を食べようとした時に言われたことを思い出した。
中学も高校もお弁当で、給食だった小学生時代ならまだしも、大人の見ていないところでは、そこまで細かくやろうとは考えないだろう。
驚いていた友達も小学校の給食以来だと、私を真似して言うようになったが、たしかに周囲の人で、きちんとあいさつをしている人はいなかった。
田中は恥ずかしそうに自分のサンドイッチを見ていて、私も食べるのをやめて、うつったように顔を赤くした。
「……私の家、昔からあいさつには厳しかったんだ。食事の前後もそうだけど、人へのあいさつをきちんとしなさい、お礼をちゃんと言いなさい、断る時も礼儀正しく断りなさいとか、他にもたくさん。だから、今でも食事のあいさつだけは欠かせなくて、これをしないと食べた気がしないんだよね」
「そうだったんだ。なんか、素敵だな」
そう言って笑った田中は、視線を下げたまま話を続けた。
「俺んちはその逆で、あいさつなんて適当だったし、食事の時も好き勝手食べて終わりだったんだ。だから、小学校で給食が始まったら、いつも俺だけみんなと違うなって思わされて、いつも先生に注意されてた。何でこんな簡単なことができないんだって叱られたし、クラスメイトからも笑われたよ。それが嫌で、マナーとかあいさつとか勉強しようと、図書室で本を読むようになったんだ」
「今もそうなの?」
「いや、今はそれ以外のを読んでる。いろいろ読んで調べてたらさ、今ってあいさつとか礼儀作法とか、けっこう適当な子供が増えてるらしいんだ。親がちゃんとしたことを教えてても、世間的にはウケるからって変なあいさつが流行ったり、有名人がやってるからって失礼なことを平気で言ったりするらしい。それを親が注意しなかったりすると、子供はそれが普通なんだって思っちゃうことがあるんだってよ」
「そうなの? なんか、意外だな」
「うん、意外だよね。子供の頃にさ、きちんとした礼儀作法を学んで、それが当たり前だって思っていれば笑い話にできるけど、まだまだ勉強途中の子供が、ちゃんとしたことを知っている大人の冗談を当たり前に思っちゃうから、なおさらだと思うんだ。今はネットも普及してきて、子供でも簡単に動画を見たりできるから、それが怖いなって感じたんだよ。そして、人のせいにしてしまう大人が多いってことにもね」
田中は拳に力を入れ、強い声で言った。
「何で大人って、『普通』の考え方を変えちゃうんだろうな。自分たちが当たり前に思うことを、どうして子供も当たり前に考えられるって思うんだろう。自分たちだって、親たち大人から散々教えられてきたのにさ。ほんと、それが悔しくて、辛いんだ……」
絞り出すように言い終えた彼は、クラシックの流れ出した店内に溶け込みそうなほど静かになってしまった。
すっかり冷めてしまったサンドイッチを食べる気にはなれず、近くにいた若い店員さんに持ち帰りたいと伝えると、笑顔で持ち帰り用の一式を渡してくれた。
お礼を言って受け取ると、私と田中の分をそれぞれに詰めながら、自分のことを考えてみる。
私が子供の頃に、当たり前にしてもらっていたことは、大きくなってくると嫌なことばかりに思えていた。
けれど、少しだけ視点を変えてみると、それがどれだけ大事で温かいものだったのか、悔しいくらい違って見えるのだ。
もしも私が、きちんとしたマナーを教えてもらっていなかったらと想像すると、背筋が寒くなる。
当たり前みたいに思っていた考え方が、この時初めて、揺らぐのを感じた。
落ち着いた田中に声をかけ、私たちは飲み物だけを飲んで会計に向かった。
会計にはあの女性店員がいて、普通に接してくれていたが、田中だけは気まずそうだ。
私たちは自分の分をそれぞれ支払うと、そのまま帰ろうとしたが、田中は何かを決心したように息を吐き、振り返って女性に頭を下げた。
「あの、さっきは料理を持ってきてくれてありがとうございました。お礼も言わず、すみません。料理、美味しかったです」
女性は驚いた顔を、一瞬で笑顔に変えた。
「やーね、そんなにかしこまらなくていいのよ。料理はうちの旦那が作ってるし、私は運ぶだけなんだから」
「で、でも」
「君だってやることがあったんだし、別に気にしないで。でも、わざわざありがとうね。嬉しいわ」
そう言ってレジの横にあった飴を数個つまむと、田中に渡し、笑顔で「またきてね」と言ってくれた。
二人して外に出ると、夏の日差しが容赦なく照りつけてくる。
手をつけていないサンドイッチが入った袋を田中に渡すと、彼は泣きそうな顔でそれを受け取った。
「さあ、午後も頑張りますか!」
そう気合いを入れて見つけた会場は、満足するほど充実した時間をみんなに与えてくれた。
幹事役の私と田中が、提供者にお礼を言って褒められるのは、これから数週間後のことになる。
そしてまた田中が泣きそうになるのを、この時の私はまだ知らない。
あいさつって大事ですよね。
大変な時こそきちんとあいさつをして、当たり前のことをしていないと、どんどん変わっていくだけだと、社会人になった今は思います。
いつかまた、当たり前の日常に戻れたら、皆さんも身近な人にあいさつをしてみてください。
それが続けば、何かが変わるかもしれませんよ。
私と彼のようにね。
あいさつはしっかりとっ! 逢雲千生 @houn_itsuki
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