第101話

 宿屋の看板娘、ミセリは街の異変に気付いた。しかし、気付いた時には遅かった。


 息を殺し、窓から宿の外の様子を伺う。


 母親であるクラナに知らせ、宿の入口に施錠をし、それだけでは心許ないと思い、一番大きな食器棚で扉を塞いだ。


 今朝まで何の変哲もない街の風景だった。


 変わり果ててしまった外の風景を眺めながら、ミセリは思い返す。


 酒屋通いの酔っ払い。大した理由もなく始まる喧嘩。


 街を訪れたばかりの旅人相手に、洗礼とばかりに金を巻き上げるならず者連中。


 決闘場で賭けに負けた腹いせにどこかの店の窓ガラスが割られる音。怒声。罵声。


 子供の泣き声。気の触れたような笑い声。


 店先の掃き掃除中、尻を揉んできた通りがかりの不届き者は、彼女お得意の魔法を使って改心させた。


 今朝まではそうだった。


 他の街の者の中には、ミセリの住むこの街で金目の物を持って夜に一人で出歩くのは、「生肉をぶら下げて魔物の巣くう森の中を彷徨うようなもの」だと評する者もいるが、物心ついた時からこの街に住み、外界を知らず母の宿を手伝うだけの毎日だった彼女からすると、この環境が彼女にとっての〝普通〟だった。


 そんないつも通りの平穏だった街の日常が、不可解な暗い霧と共に一変した。


 窓から見える視界に、彷徨い歩くグールの姿を認め、視線を合わせる前にミセリは慌ててカーテンを閉める。


 彼女が異変に気付いた時にはもう遅かった。


 宿の外にはアンデッドの群れが溢れ、今更簡単に逃げられる状況ではない。


 宿の宿泊客の中の数人は危険を顧みず既に外へ逃げて行ってしまい、残った者たちは部屋に閉じこもっている。


 ミセリは閉めたカーテンに指を入れ、僅かに隙間を作ると片目で再び外の様子を伺った。彷徨うアンデッドたちの足取りは街の酔っ払いに似てデタラメであったが、その視線は狂った動きで次の獲物となる生者を求めていた。


 ミセリにとってアンデッドの魔物を見るのは初めてだった。近くの廃墓所に時折出現するという噂を知っているくらいだ。


「ミセリちゃん……」


 ミセリの傍らには今にも泣き出しそうな表情を向ける母親の姿。


 恐怖の中で、それでも必死に母親としての役目を全うしようとするクラナは、そっとミセリの肩を抱き寄せる。しかし、ミセリの身体には母親の微かな震えが肌を通して伝わっていた。


 ミセリは母親に抱かれながら人知れず決意していた。


 母親を守れるのは自分しかいない。魔物狩りを生業としていた強い戦士である父親の血を引く自分しかいないと。


 母から聞かされる父の姿。一度も会ったことのない父の姿。


 だが、ミセリにとってその父親は英雄だった。


 どんな危険な任をもこなし、誰よりも、どんな魔物よりも強かった。


 魔物の討伐は、そんな父親の元に生まれた自身の宿命とすらミセリは思っていた。


 当初クラナはあまり積極的に父のことを話そうとしなかったが、たまの晩酌で酔った際に自慢気に話してくれる父の話が、ミセリは大好きだった。


 誇らしい功績を上げる父のことが、そのことを話し、誇らしそうにする母のことが、ミセリは大好きだった。


 知らないうちに目元に溜まっていた涙をそっと母親の肩で拭い、次に開いた両眼には恐怖心が失せ、代わりに強い意思が宿っていた。


「ママ……大丈夫。わたしが守るから……」


 その時であった。宿の玄関口の方から崩れるような音。次いで、木製の扉がばりばりと破られる音がした。


「ママ? ママは隠れてて。この宿を壊させない」


「ミセリ……ちゃん……?」


 窓から窺う限りでは到底逃げられる状況ではない。そもそも宿を捨てて逃げるという選択肢はミセリにはなかった。


 この宿は母親と父親が出会った大切な場所。母親と父親の唯一の思い出の場所。自身が生まれた唯一の故郷。この宿がなくなってしまえば、父の帰る場所がなくなってしまう。


「ぜったいにあんな奴らの好きにさせないんだから……」


 ミセリは精神を整えるように一度大きく深呼吸すると、母親の腕から出て魔物の元へ向かうべく、部屋を後にする。


「ミセリちゃん!!」


 母親の悲痛な叫びを背に、ミセリはその幼い胸に手を当て、覚悟を決めた。







------------------フレーバーテキスト紹介------------------

【魔法】

特殊:テリス

同時に唱えることで使用する魔法の威力を3倍にする。元の消費魔力の3倍の魔力を消費する。

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