煙の作用

文野麗

第一話

 美醜が分かるようになった。といっても成長するに従って、とかそういう話ではない。今朝、急にだ。

 街を歩くと景色がグラデーション掛かっていた。今までは世界がずいぶん平坦に見えていたのだと知った。見慣れた看板のデザインにも優れて綺麗なものと不味いものがあることに気づいた。古い建物は大抵不恰好だった。アスファルトの道路はひたすら退屈だった。電線は景観を害していたし道路標識は無機質的だった。空だけはどこを見渡しても常に純粋で眩かった。

 人の顔もずいぶん違って見えた。ほとんどの人は美しくなかった。はっきり醜いと感じさせる人間もいた。まれに整った顔の人がいたが、それでもどこかしらに綻びがあった。体型は色々で、一般的に言われている模範的なスタイルはなるほど見ていて良い気分になった。

 急にこんなことになったきっかけは一つしか思い当たらない。昨日の晩、コンビニで弁当を買ってから家へ向かっていると、途中の道路の上空に白い綿のようなものが浮いていた。発生源はある建物で、そこは以前から不思議に思っていた場所だった。何かを売っている店には見えないが、破風の下に看板のようなものが掛かっていて住宅にも見えないのだ。看板の文字はアルファベットで、英語だと思われるが、何と書いてあるのか分からない。俺は英語ならある程度分かるのにもかかわらず、だ。看板の字体からしてどことなくワイルドな雰囲気で、いつも傍に大きなバイクが複数台停まっている。そこはそんな建物だ。近づくと、白い綿は濃い煙なのだと気づいた。車の音に掻き消されていたが、ダンスミュージックと思しき音楽が建物の前に置かれたスピーカーから大音量で流れ、レザージャケットを着た男たちが軽く身体を揺らしながら掛け声を出して浮かれていた。一台のバイクから盛んに大量の煙が発生していた。詳しい成分は分からないが環境と人体に有害であることだけは確実なその煙の真ん中を、俺はもろに突っ切って進む羽目になった。おそらくあれがいけなかったのだ。他に大きな変化も印象もなかったのだから。

 とにかく、見る目が備わったに違いない。今まで無頓着だったファッションや見た目にも気を配れるようになるだろう。容姿は大切だ。今日そのことを痛感した。


 あれから数日経って、大問題が発生した。恋人が全然可愛くないことに気づいてしまったのだ。いつものように大学の学食で一緒に昼食を摂ったが、どうしようもなく不快で物足りなかった。茶色い髪の毛の先が傷んでいて、二つに結んでいるのが全く似合っていない。目つきが嫌で、頬が広くて顔が大きい。鼻は団子鼻で、口から覗く前歯は揃っていない。声すらも年寄りくさい低音で、衣服も田舎の女子中学生のように幼くダサかった。一つも良いところを見い出せない。反対に、家でテレビをつけると綻びなく美しい人ばかりが目に入る。顔は整っていて髪も艶があってスタイルも抜群で着ているものもおしゃれだった。洗練されているとはこういうことなのだと知った。どうしてもそういう美しい人と比べてしまって彼女を愛せない。一緒に歩いても不快なばかりでストレスがどんどん溜まっていく。俺はかつて美醜を解しなかったから女性はみんな可愛くて男性はみんなかっこいいのだと思っていた。あの日から彼女を散々眺めて、初めてそういった言葉の意味を理解したのだ。


 不細工な彼女がネイルを直しながら俺に話をしている。部屋は少し散らかっている。不必要な飾りばかり詰め込まれている、実用的でない住処だなあと考えながら彼女が手にしている小さな筆に注目していた。爪に白い光が反射している。

「ストーリーに上がってたから見たけどやばくない? ってサコと話して、完全匂わせじゃん、みたいな? エリカ見てたら絶対修羅場ってるよねって」 

 彼女の友だちに何の興味もない。視線を外して、キャラクターものの壁掛け時計を見た。まだ七時半だ。分針は動きそうにもない。いつまでこんな時間が続くのかと思うと、余計に白けた気分になり、内心腹も立ってきた。

「俺もう帰るわ」

「泊まっていくんじゃないの?」

「気分じゃなくなった」

「何で?」

「何でもねえよ」

「最近おかしい。どうして急に冷たくなったの?」

「別に」

「隠しごとしてるでしょ」

「隠してない」

「ねえ言って」

「あのさあ」

 自分の声の不機嫌なのに自分でも驚いた。だが手を止めて不安げにこちらを見つめる彼女の顔はますます気に入らない。衝動的に大声を出してしまう。

「お前可愛くないんだよ!」

 言ってしまって我に返った。彼女は目を見開き唇を震わせて固まっていた。俺は下を向いて告げる。

「別れよう。もうお前を愛せないんだ」

「ひどい!」

 彼女は横にあったクッションを投げつけてきた。

「まさくんだけはそんなこと言わないと思ってたのに! 最低! 見損なった!」

そう叫んでから彼女は泣き出した。申し訳ない気持ちになったが、その泣き顔はいよいよ醜く、見るに耐えなかった。

「ごめん。俺帰るわ」

 彼女の住むアパートを出て、階段を忍び足で降りて、そのまま走って帰った。夜は何も答えてくれなかった。


 彼女が根回ししたらしく、午後のゼミでは針の筵だった。研究室に入るなり雰囲気が異常なのを感じとった。女子たちは誰も俺と口を利かないし、憎らしそうに睨みつけてきた。俺から守るように彼女の周りに集まって何事か囁き合っていた。知らない振りをするのが不自然でみっともなくて、早く時間が過ぎるように時計を見てばかりいた。

 グループごとに調査の報告を行ったときは俺の話すときだけ反応が薄くてばつが悪かった。ディスカッションで俺が発言すると沈黙が流れた。深田が取り繕うように次の言葉を発すると、女子たちは気分を害したのか、すっかり場が白けてしまった。居心地が悪くてたまらなかったし、俺のせいでこんなに影響が出て、みんなに迷惑をかけているのかと思うと身体が縮むくらい苦しかった。

 ゼミの時間が終わってから、階段の傍の給水機で水を飲んでいたら深田がやってきた。周りを見渡してから、口を開く。

「なあ、なんで女子たちあんなにキレてんの? 何かやらかしたか?」

「彼女を振ったんだ。うまく別れられなくてひどいことを言った。それがバレて、みんなブチギレてんだろ」

「大変だな」

「ゼミ内でなんて付き合うもんじゃねえな」

「まあ、嫌なことは酒で忘れるに限るよ。暇なら来い。金ねえから宅飲みしようぜ」


 スーパーで酒と食べ物を買って、住宅街の急な坂道を下って深田の住む学生アパートへ向かった。歩きながらも胸が痛くて、今夜一晩気持ちよく飲んで嫌なことを忘れられても、明日の朝が来ればまた現実が戻ってきて、結局何一つ解決しないのだろうと考え、虚しくなった。

 折り畳みミニテーブルを立ち上げて俺が買ってきたものと深田がキッチンから取ってきたボトルを並べた。ひとまず発泡酒で乾杯する。

「大丈夫だ。そのうちみんな忘れる。ちいっと辛抱すりゃいいだけだ」

「そうだといいんだがね。下手やったなあちくしょう」

 それから適当な話をして、アルコールを身体に入れていった。真っ直ぐだった意識がやわらかくなって、思考が波打ってくる。

 テレビでは高校生のダンスオーディションの番組が放送されていた。第一予選では六組のグループが様々な音楽をバックにパフォーマンスを披露していった。

 思わず見入ってしまった。同じように集中して見ていた深田が言った。

「二組目が良かった」

「ああ、華があるよな」

 そう返事して、違和感を覚えた。華がある? 何だその言葉は。そんなのは俺の言葉ではなかったはずだ。

 そのとき俺は項垂れて、なるほど、分かるようになったんじゃない、分からなくなったんだ、と理解した。

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