詠春拳

「道場を出て何処へ行くつもりだ。」

 二葉の後ろから師範の声が聞こえてくる。

「目指す場所は決まっている。最強だ。」

 二葉はそう答えると、振り返らずに道場を後にした。

 二葉がチープ・マンと呼ばれる前の話である。


***


 神崎ひかげとチープ・マンは大通りで向かい合っていた。異様な2人の雰囲気に周りの大衆はざわめき始めた。

 ジリジリと間合いを詰めて行くのはチープ・マン。彼は初手の速さには絶対の自信を持っていた。数多の怪獣にさえ打ち勝った神崎ひかげを目の前にしても、その自信が揺らぐ事はなかった。

 神崎ひかげはアルコールが全身に巡って行くのを感じていた。チープ・マンの足運びが見える。大衆の声が聞こえる。逃げる人、興味本位で動画を撮影しはじめる人。1人として神崎ひかげの意識に捉えられぬ者はなかった。

 しかし、チープ・マンとの間合いが十分詰まった頃、神崎ひかげはわずかな衝撃を顔に感じた。チープ・マンのリードストレートを喰らったのだ。


 詠春拳には最速の拳がある。名をリードストレートという。

 利き腕を前に構えて放たれる最速の縦拳。初動の少なさ、利き腕という優位がもたらすそのスピードはわかっていても交わせない。

 そして、詠春拳には最速の連打も存在する。


 神崎ひかげは胴を捨てて両腕を顔のガードにまわした。チープ・マンの追撃は始まっていた。

 詠春拳の最速の連打、チェーンパンチが神崎ひかげを襲う。チェーンソーのように振り回されるチープ・マンの両腕の一撃一撃にたいした威力はない。それでも、1秒間隔で10打の拳が放たれる。その圧力は相当なものだ。

 神崎ひかげといえども防御に徹する他に選択肢はなかった。そして、それはチープ・マンに必殺につながる技を出させる事を意味していた。

 チープ・マンは連打を止めて利き腕を大きく引く。神崎ひかげは防御に徹していた為に反応が遅れる。そして、十分な溜めを作ったチープ・マンの拳は神崎ひかげの胸に向かって放たれた。

 ゴホッ、と大きな息を吐く神崎ひかげ。しかし、それを見たチープ・マンは己の拳に違和感を感じていた。心臓を押した感覚がなかったのだ。


「あぁ、勿体ない。ハブ酒の予備が。」


 神崎ひかげの胸元がアルコールで濡れていた。胸元のポケットに隠していた2本目のスキットルが破壊され、中身のハブ酒が漏れだしていたのだ。


「お前、まだ酒を隠し持っていたのか!?」


 思わず声に出したチープ・マン。気が削がれた彼に対して、神崎ひかげはタックルを仕掛けた。

 一瞬出遅れはしたが俺には最速の拳がある、とチープ・マンは思った。神崎ひかげにリードストレートを放とうとしたその時、異変に感づいた。

 神崎ひかげの左腕がタックルに遅れて放物線を描いていた。ロシアンフック。それはレスリング系総合格闘家が愛用する必殺の一撃である。

 腰を入れずに肩の力で放たれたロシアンフックがチープ・マンを襲う。チープ・マンはそれを肘鉄で防いだ。

 ぐしゃっとした感触が肘に伝わる。神崎ひかげの拳を破壊する事には成功した。代わりにチープ・マンの右肘も使い物にならなくなっていた。

 神崎ひかげはタックルの勢いのまま右肘でチープ・マンの顎をかち上げた。


 くそ、油断した。


 かち上げられたチープ・マンは死に体となる。そして、右腕を神崎ひかげに捕まれた。

 神崎ひかげの左拳は確かに壊したはずだった。しかし、この捕まれた腕がそれを否定する。

 顎に入れられた肘によって首は完全に固定されている。右腕を引かれて背負われたチープ・マンが最後に思ったのは、神崎ひかげの理不尽なまでの強さだった。


 首を固定され頭から落とされたチープ・マンは道に赤い花を咲かせ、大衆は叫び散り散りとなる。

「2杯目ツイン・ブーストはいらなかったか。」

 神崎ひかげはチープ・マンから目を離し、駆けつけてきた警察官のもとへと歩き出した。

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