[2] 二〇〇二 冬休み 2

 終業式を終えた睦は、友人たちといつもの帰り道を自転車で走っていた。

「なあ、アザレア寄ってく?」

高校の近くには格安のファミレスがあって、高校生の財布にも優しいため、いつもはここでだらだらと時間を過ごしている。ただ、今日は友人たちの誘いも断り、睦はまっすぐにMoon riverに向かっていた。昨日の夜、家に千歳から電話がかかってきて「お昼はうちでまかない食べたらいいわよ」と言われたからだ。電話を取り次いだ睦の母親は「坊ちゃんはいらっしゃいますか?」と言われて面食らったと言っていた。駐車場の端に自転車を置くと、小走りで入口へ向かう。雪こそ降っていないものの曇天で風も冷たく、耳や鼻の感覚がない。

「こんにちは、睦くん」

ベルが鳴るのと同時に千歳の声が聞こえる。建物の駐車場側はガラス張りで、カウンターの中の千歳からは、睦の走ってくる姿が見えていた。睦は挨拶を返すと店内を見渡した。半分くらいの席が埋まっている。

「こっちいらっしゃい」

千歳に手招きされ調理場に入ると、忙しそうに鍋を振る片桐が睦を見てニコリと笑った。

「そういえば今日からだったね」

「はい、よろしくお願いします!」

頭を下げる睦の背中を叩いて「はいよろしく!」と片桐が気合を入れる。思ったよりも痛かったので、つい睦は睨みそうになったが、悪気はないとわかっていたので我慢した。片桐の後ろを通り抜けた奥の方に大きめのロッカーがあり、扉を少し持ち上げるようにして千歳が開けた。

「はい、ここに上着とか鞄は入れてね。ちょっと立て付け悪いから、一度持ち上げてから引くのがコツよ」

「無理に引っ張ると壊れるからね! 尚斗が一回それで壊してるから」

片桐が料理を盛り付けながら声をかける。ロッカーの脇には裏口があり、千歳はドアを開けると軒下の灰皿を指さした。

「タバコ吸うならここで吸ってね」

タバコを吸うと言った覚えはなかったが、睦の細く整えられた眉毛や制服の着こなし方、薄い学生鞄を見て、千歳は吸うと思ったようだ。

「あ、自転車はそこの軒下に置いたらいいわよ、雨よけになるし」

そう言ってドアを閉めると、千歳は棚からエプロンを取り出して睦に渡した。

「エプロンはこれを使ってね」

薄いグレーにホワイトのストライプが入ったもので、色が紺ではない以外は千歳が身に着けているものと同じだ。

「ありがとうございます!」

さっそくエプロンをつけると、千歳がたずねる。

「お腹は減ってる?」

「はい、減ってます」

「カレー好き?」

「好きっす」

「じゃあ座って待っててくれる?」

と言いながら、千歳はカウンターの一番手前の席を指した。睦が座って待っているとカレーライスとサラダ、グラスに入った水が置かれた。

「はい召し上がれ」

「いただきます!」

両手を合わせると、一気にかっこんだ。普段食べているカレーに比べるとややサラサラしていて、どことなく上品な味がした。睦がまかないを食べている間、千歳は水を持ってテーブルをまわったり、注文を聞いたりして忙しそうにしている。調理場では片桐があちこち行ったり来たりしていて、睦は自分だけのんびりしているように思えてそわそわした。食べるスピードを上げて、あっという間に間食した睦が皿を持って調理場のシンクへ行くと、片桐がそれに気づいた。

「あら! もう食べたの! あんまり早食いしちゃだめよ! 皿はね、右側のシンクにつけといて、あとでまとめて洗うから」

シンクに皿を入れた睦を千歳が呼ぶ。

「じゃあ、このお盆を持って済んだ食器を下げてきてくれる? テーブルを拭くのも忘れずにね」

トレーと布巾を持たされた睦を送り出すと、千歳はコーヒーを淹れる。そのお湯はランチセットのスープの〝素〟がセットされたカップにも注がれる。戻ってきた睦に今度はスープを持たせて送り出す。調理場から出された料理を千歳が運ぶ、ランチが一段落するまでには三人のチームワークが確立されていた。

「睦くん、接客業は初めてって言ってたけど覚えが早いわね」

客がいなくなった店の奥でテーブルを拭いている睦を見ながら、千歳が片桐に話しかける。覆いかぶさるようにカウンターを拭いている片桐は

「テキパキ動いてよく気が付くし、見てて気持ちがいいですもん。ああいう若者が私は好きですよ」

二人のためにコーヒーを淹れ終えた千歳が睦を呼ぶ。

「休憩しましょうか、コーヒー淹れたわよ」

片桐はカップを手に取り裏口へ向かう。睦が裏口を気にしていることに気づいた千歳は、「これでしょ? 行っておいで」人差し指と中指でタバコを吸うジェスチャーをした。睦もカップを手に裏口に行く。一人になった千歳は、浅く、ため息をついて、誰もいない店内を眺める。スピーカーからはジョー・コッカーの歌声が流れていた。

 この町の冬にしては珍しく青空が広がっている。片桐はコーヒーを一口飲んで、タバコを吸う。睦は煙を吐き出しながら、眩しそうに目を細め、一本道の国道を見ている。

「もう、まだ二時半だってのに全然車通ってないね!」

話しかけられた睦は片桐の方を向いて、

「田舎っすからね」

と当たり前のように言った。田んぼに囲まれた一本道の、ずっと先の方から来ていた車が途中で左折して消えていく。

「市町村合併したらもっと寂れるだろねえ」

眉間に皺を寄せながら片桐が言う。タバコの火がグッと赤くなった。

「シチョウソンガッペイってなんすか」

たずねながらコーヒーを口に運ぶ。ふと、せっかく千歳が淹れてくれたコーヒーなんだから、椅子に座って、きちんと味わった方がいいのではないか、と思った。

「この町が無くなるってことさ」

片桐が灰皿に灰を落とす。

「町が無くなったら、何か変わるんすか」

「何も変わんないよ、あたしらはこれまで通り、ここでやってくしかないさね」

「俺はどっかよそに出ていきたいすけどねえ」

片桐は二本目のタバコに火をつけると、深呼吸するように息を吐きだした。

「やっぱり若者はよそに行きたくなるもんだろうかね」

駐車場に軽トラが入ってくる。

「島内さんだ、睦くんはまだ休憩してていいよ」

そう言ってタバコを灰皿に押し付けると、片桐は店内に戻っていった。睦は顎を突き出すようにして「うっす」と返事をした。道路や田んぼ、その先の山を照らす冬の強い陽射しが、寂れた町の現実を剥きだしにしているようだった。だが睦にとってその風景はこの町の生活そのもので、哀愁を感じるようなものではない。

 タバコを吸い終えて店内に戻ると、睦はカウンターのシンクで自分が使ったカップを洗う。ついでに片桐のマグカップも洗った。店のカップでは量が足りないらしく自分のものを使っているようだ。

「おう、サマになってるぞ」

コーヒーカップを洗っていると島内に声をかけられた。睦がエプロンの両端をつまんで見ていると、ちょうど調理場から出てきた片桐が正面に立って

「あら? なんか夏也さんに似てないかい?」

と言う。

「ああ、俺もそう思ってたんだよ」

コーヒーをすすりながら島内は千歳を見る。カップを布巾で拭いている千歳はその視線に気づいてはいるが、カップから目をそらさない。

「夏也さんって誰すか」

拭き終わったカップをそっと置いた千歳は、棚に置いてあった写真立てを指差した。

「私の旦那さん。十年前に海に行くって言ったきり戻ってこないけどね」

睦は聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、どう返事してよいか困っていた。島内や片桐に視線を投げるが、二人とも特に気にする様子でもない。島内は新聞を読んでいるし、片桐はテーブルを拭くついでに、席を隔てる木製のついたてまで拭いている。少しの沈黙の間、スピーカーから流れるブレンダ・リーの歌声が店内を健気に盛り上げていたが、睦が返答に悩んでいるとベルの音が鳴った。

「お疲れさまです」

尚斗が立っていた。ギターケースを背負っている。

「こんにちは」

と千歳が返す。いつもの優しく、少し甘い声に戻っている。

「あら、あんた早いじゃない」

片桐が声をかけると

「ばあちゃん今日病院だろ」

と尚斗が返す。片桐は大きく開けた口を手のひらで覆う。

「そうだった! 忘れてたよ、保険証持ってきてたっけ?」

走って調理場に駆け込む片桐の後ろに尚斗が続きながら声をかける。

「走ったらまた悪くするよ」

片桐はおかまいなしに慌ただしく動いている。

「店長! すみませんけど、あとは尚斗に代わってもらいますから!」

「はい、大丈夫よ、気を付けてね」

割烹着と三角巾を脱いだ片桐は、幾分か若く見える。ドアを開けると、軽トラまで走っていった。

 夕方になると、店内はややにぎわってきた。尚斗は割烹着こそ着ていないものの、片桐と変わらない働きぶりで、次々に料理を作っていく。睦はそれを運ぶ。

「尚斗くんすごいすね、こんな料理作れて」

コーヒーを淹れる千歳に話しかけると

「片桐さんの育て方がいいのね」

と返ってきた。睦が調理場に目を向けると、バンダナをつけた尚斗の、無表情で鍋を振る横顔が見えた。

 午後七時を過ぎると、店内の客もまばらになる。千歳に促された睦が、休憩をとるため裏口のドアを開けると目の前に尚斗が居た。

「うおっ……と、お疲れ」

驚いてしまったことを悟られないよう努める睦だったが、尚斗は気づいたようで

「あ、ごめん」

と軒下の奥の方へと移動した。睦はタバコをくわえながら

「吸うの?」

と聞いたが、尚斗は首を振った。

「いや、中が暑いから涼んでるだけ」

外の気温は一〇度を下回っていたが、調理場で動き回っていた尚斗の首筋には柔らかそうな栗色の髪の毛が汗で張り付いている。

「尚斗くんってさ」

突然名前を呼ばれたことに少し驚きながら、睦の方をちらっと見る。

「その髪の毛の色、地毛?」

「そうだけど……」

「なんでその色? 生まれつき?」

「遺伝なんじゃない? 髪質」

尚斗は長い睫毛を二、三度しばたたく。榛色の目が揺れた。

「いいなーその色、俺なんてブリーチしてもこんな茶髪にしかなんねえんだよな」

ヘアワックスで念入りにセットされた自分の髪をつまみながら言う。尚斗は睦の指に挟まれたままのタバコに気づき、軒下から出て生垣の縁に座った。月明りで白い肌がより白く見える。

「あとさ、料理うまいよな、なんで?」

「さあ、子供のころから作ってるからじゃない?」

睦がタバコに火をつける。尚斗のところまで煙は届かない。

「そっか、すげえなあ、俺カップラーメンくらいしか作れないかんなあ」

自嘲気味に笑いながら言う睦に、

「俺も家ではカップラーメン食べてるよ」

と尚斗も少しだけ笑みをこぼした。

「そういえば、ギター持ってたけど、弾けんの?」

「ああ、まあ、普通に」

「すげーじゃん、料理もできてギターも弾けて。モテそうだな」

屈託のない笑顔で言う睦に、尚斗は少しだけ眉をひそめて

「モテないよ」

と言った。「んなことないだろー」と続けた睦だったが、尚斗が無言になったので、それ以上この話をするのを止めた。気まずいと思ったのか、尚斗が口を開く。

「睦くんはさ」

「睦でいいよ。くんづけされんのなんか恥ずかしい」

「じゃあ、睦、はさ、将来何したいとかあるの?」

「将来? 高校は機械科だから卒業した先輩は大体、自動車工場とかに就職してる。だから俺もそうするつもり」

「そっか、それって県外、だよね?」

「たぶん、神奈川とか? 先輩はその辺に行ってた気がする」

「神奈川かあ、いいなあ」

尚斗は生垣にもたれて夜空を見上げる。投げ出した長い脚に細いジーンズが似合ってるな、と睦は思った。

「なんで神奈川がいいの?」

吐いた煙を手で払いながら睦が聞くと、尚斗は少し考えて

「東京に近いから」

と言った。その時裏口のドアが開いて千歳が顔を出した。

「ごめんね、休憩してるところ。ちょっと本店の方に行ってくるから留守番お願いできる?」

「はい、もちろんです。いってらっしゃい」

尚斗が返事をすると、千歳は微笑んで、駐車場の軽自動車に向かい歩いていった。

「本店って?」

そう言ってさっき火をつけたばかりのタバコを消そうとする睦に

「いいよ、それ吸い終わってから来なよ」

と尚斗が声をかける。睦は「おう、サンキュ」と手を挙げてタバコを口に運ぶ。

「本店はあっちの交差点、左に曲がったとこにある和食の店だよ」

国道の先を指す尚斗に

「え、本店って和食の店? ここ洋食だし全然違うじゃん」

「そうだよ、知らない? 皐月」

皐月は県の北部で数店舗を構えていて、それなりに名が知れている飲食店グループだ。

「へー、皐月とこの店って系列なのか」

睦は初めて知ったようだった。尚斗は裏口のドアを開けて少し動きを止めると、振り向きざまに

「あと俺のことも呼び捨てでいいよ」

と言って中に入り、睦の返事は待たずにドアを閉めた。

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