富士山の日
~ 二月二十三日(火祝) 富士山の日 ~
※木で鼻をくくる
意味:不愛想に対応すること。
俺は、『頑張れ』と声をかけることが嫌いだ。
そんな言葉で誰かの人生を変えてしまった時。
どうやって責任を取ったらいいというのか。
頑張るか否か。
それは、本人が将来を見据えて。
自分で責任をもって決めるべきもの。
……でも。
こんなものを見せられると。
自分の矜持がへし折られそうになる。
「頑張れ……。頑張れ……」
聞こえるはずのない声で。
一生懸命願うこいつの姿。
その姿は。
ひいき目なしで。
美しいって思った。
~´∀`~´∀`~´∀`~
「うはははははははははははは!!!」
「だ、だめ?」
お重って。
八段も重ねると。
凜々花の背と変んねえ。
「どうやって運ぶ気だ!」
「か、片手で持って、自転車で運ぶの見たことある……」
「比率!」
こんなでかいざる蕎麦あってたまるか。
あるいは、そのおっちゃんは元バレーボール日本代表。
「全部詰めるな。お前んちと我が家の晩飯分も作ったのに」
「そ、そうだったの……?」
「いや、怒ったりして悪かった。お前に頼んだ俺が間違ってたんだ」
「酷い……」
酷いのはお前の一般常識。
四人で食いきれるわけねえだろう。
頭がいいくせに年中とんでもない事しでかすこいつは。
飴色の長いさらさら髪を、今日は探検帽の中にしまい込んで。
カーキの探検服もよく似あってはいるが。
褒める前に。
叱ることになるような真似するんじゃねえ。
山の上で食べる四人分の料理と。
ついでに作った二家族分の晩飯。
弁当だけ詰めろって命令ぐらい。
まともにこなしてくれ。
仕方が無いから。
俺はアタックザックの中に。
お重を全部詰め込んだが。
まったく。
先が思いやられる。
「食べ残した分を晩飯にしよう。それじゃ、行くか」
「うん……。でも、凄いご馳走……、ね?」
「まあな。エビフライにハンバーグ。グラタンにナポリタン」
「玉子焼きにサンドイッチにから揚げ……。普段は、こんなに作らないよね?」
「今日の登山、春姫ちゃんには大変だと思うからな。ご褒美くらい奮発しないと」
そんな返事をしたら。
どういうわけか。
こいつは不機嫌になったんだが。
なんでだろう。
お前の嫌いなものでも入ってたか?
~´∀`~´∀`~´∀`~
「……なるほど。仮想富士登山と言う言葉からいろいろ想像していたが、これは予想外」
「それがトレーニングマスクってやつだ。目盛りは最小にしておいたから、まずは付けてみろ」
俺に促されるまま。
黒いマスクを装着する春姫ちゃん。
喘息持ちの彼女の夢。
富士登山。
そのために、体力トレーニングは頑張っているようだが。
登山部の連中に聞いてみた所。
もう二つほど、訓練しておいた方がいいとアドバイスを貰ったんだ。
「おにい。このガスマスクみたいの、何?」
「自分の吐いた二酸化炭素を少し残して、酸素量を減らす仕組みになってる」
「…………ほえ?」
「高山は、酸素が薄いからな。少しでも近い状況を作り出すためのトレーニングマスクだ」
アスリートだけじゃなく。
最近じゃあ、ダイエット用品として入手しやすくなったトレーニングマスク。
とは言え、結構金額はしたけどな。
「どうだ? 春姫ちゃん」
「……少々ゴム臭いが、問題ない」
「よし。それを付けて、今日はこの、散歩感覚ですぐ頂上って程度の山を登る」
「おにい。これ、山って程の山じゃねえぜ? 見晴らしはいいけど」
そうだな。
ここから頂上まで。
子供でも走って登れるようなとこだ。
「でも無理はするな。まだ頑張れるって思った瞬間、すぐに歩くのをやめる事」
「……そうだな、無理をすると立哉さんに一番ご迷惑をかける。まずはこのマスクに慣れる事」
「ああ。それともうひとつ」
俺が指差す方向を見て。
春姫ちゃんは、試しにとばかりに歩き始めたその足を止めて。
青い瞳を丸くさせた。
「……汚れても良い格好と言うのは、それが理由だったか」
「薮漕ぎだが、足場はちゃんと硬い。何度も往復したから間違いねえ」
山頂への最短ルート。
急斜面を、低酸素でゆっくりと上る。
実際の富士山と同じ環境は無理。
これが、俺が準備してあげられる精いっぱい。
春姫ちゃんは、心配顔の秋乃に向けて頷くと。
それなり重いリュックを背に。
一歩一歩。
確かめるように斜面を登り始めて。
十歩ほど登ったところで。
マスクを外しながら振り返った。
「……こ、これは。予想以上に苦しい」
「今の感じの繰り返しでいい。マスクを取って、呼吸が落ち着いたらまた登ろう」
春姫ちゃんは軍手でOKと返事をすると。
無理をせず、時間をかけて呼吸を整える。
そうだ。
何事も、少しずつ。
それを繰り返して行けばいい。
「わ、私も……。やってみたい……、な?」
いや、秋乃。
くいくいと。
袖を引っ張られても。
「春姫ちゃんのマスクの他は俺が使ってるやつしかねえよ」
「春姫ばっかり……」
「なんだよ。今日は文句が多いな」
春姫ちゃんのトレーニングって聞かせたときは。
あんなに感謝してくれてたのに。
朝、弁当の時からか?
こいつが不機嫌になったの。
「春姫ちゃんと自分の分買うので精いっぱいだったんだよ」
「ほんじゃもう一個あんの? 凜々花もやってみてえ!」
「ほら」
そして凜々花にマスクを渡してやると。
秋乃の頬が倍に膨れた。
いやいや。
さすがに俺が使ってるマスク貸せるわけねえだろ。
唇は付かねえから間接チューにはならねえけど。
間接ほっぺたすりすりになっちまう。
「うおっ!? ……ほんとだ! 苦しい!」
「だろ? 酸素が薄くなると苦しくなるんだ」
「そじゃなくて。ニンニクくせえ」
「俺の口臭!?」
俺が愕然とするのを見て笑った後。
凜々花と春姫ちゃんは、斜面に挑み始めたんだが。
……お前。
いい気味だって感じの嫌味な笑い方やめてくれねえか?
「なんでそんなに不機嫌なんだよ」
「不機嫌じゃないよ? 今は立哉君がいじめられてスカッとしてる」
「ひでえ。……春姫ちゃん! 凜々花を目で追うな! 一旦マスク外して休憩!」
「やっぱり春姫ばっかり……。凜々花ちゃんは心配しないの?」
「大丈夫だってあいつは」
重いリュックを背負い直して隣を向くと。
目に飛び込んで来るのはやっぱり不機嫌顔。
「木で鼻こくったような顔してんじゃねえよ」
「噛んだ。木で鼻くくる、でしょ?」
「噛んでねえよ。こくるってのはこするって意味でな? 元々は鼻を木でかんだ時の嫌な感じのことを言ってた言葉なんだよ」
「出た。うんちく立哉君。略してうんち君」
「略す位置のせいでトラウマレベル!」
こいつ、なんでそんなに不機嫌なんだよ!
俺は、どうして不機嫌なのか理由を聞こうとしたんだが。
その時。
「……立哉さん! 凜々花の姿が見えない!」
春姫ちゃんの、切羽詰まった声を聞いて。
慌てて斜面を駆け上った。
「凜々花!」
あいつ、マスク着けて無茶したから。
どこかで倒れたのか!?
春姫ちゃんを追い抜いて。
随分上ってみたが。
ほんとにどこにも姿がねえ。
「凜々花! すぐマスク外せ! 凜々花!」
そういえば。
自分でここを何度か往復してる時。
物は試しと。
目盛りを最大にしたままだった。
俺でもゆっくり歩かないと辛いレベルだったのに。
あんな速さで登れるわけが……。
「ほいほい! そんな大声出さねえでも聞こえてるよー! みんなの凜々花が、ただいま戻ってまいりましたー!」
藪からがさごそ出て来た凜々花の姿を見て。
みんな揃って肩から脱力。
「お前! 心配かけやがって、何やってたんだよ!」
「おトイレット……」
「オゥ……」
慌てて追いかけて来た秋乃と春姫ちゃんは爆笑してるが。
我慢できなかったのか、とか。
平気でできるのね、とか。
言いたいことは山ほどあるが。
「紙はどうした」
「木でこくってみた!」
「オオゥ……」
もう。
何をどう突っ込んだらいいのやら見当もつかねえ。
そのまま春姫ちゃんと並んで。
ゆっくり登山をし始めた凜々花の背中を見つめていたら。
いつの間にやら。
秋乃が隣でクスクス笑っていた。
「……なんか、慌てちまって。かっこわりいなあ、俺」
「そう? かっこいい……、よ?」
そう言って。
さっきまでの機嫌はどこへやら。
優しい笑顔を向けて来た秋乃なんだが。
「なんで機嫌直った」
そう聞いても。
クスクス笑うばかりで。
まるで分かりゃしねえ。
……いや?
「ああ、分かった。この巨大な弁当背負ってやってるからか。相変わらず食いしん坊だな」
そんな俺の推理は。
多分、外れてたんだろう。
秋乃はそれきり山の上のポテチみたいに膨らんで。
俺と口をきいてはくれなかった。
だから。
山頂にたどり着いた時。
俺は。
こうするしか術を持たなかった。
「……立哉さん。どうして立ったまま食事をする」
「いや。なんとなく」
もはや俺まで。
これを免罪符に使い始めている件について。
改めて。
じっくり考え直した方がいいような気がする。
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