第2話 大賢者アガルト・リッター

 夜の世界は暗くて怖い。

 私は背負える鞄いっぱいに、服と数日分の水と食べ物を詰めた。お金も少し。

 昼間こっそり集めて、布団に潜り込み、月がてっぺんに昇る頃まで息を潜めて待っていた。

 私はリュックを背負って窓辺に立つと、月明かりに照らされた私室を振り返る。


「……ごめんね。さようなら」


 好きだったお人形さんもたくさんあるけど、全部は持っていけない。

 義両親はアレだったけれど、マグラを始め、使用人達には良い人も多かったのだ。別れるのは悲しいけれど、未来をこのまま甘受することはできない。

 私は窓の鍵を開けると、【飛翔】の呪文を口にして、二階から飛び降りる。

 ふわりと着地し、辺りを見回した。誰にも気づかれていない。

 私はそのまま魔法で走って壁を登り、屋敷を出た。


 重量を感じなくする魔法を両足にかけると、弾むように進む。

 石畳を駆け抜け、城壁を飛び越え、私はいともたやすく王都を脱出することができた。

 ──未来の記憶があったおかげだ。

 六歳の幼子には到底知り得ない魔法の知識も、今の私にはある。


「──【魔の森】へ」


 魔法を使って、飛ぶように爆走してかなり時間が経った頃──眼前に巨大な森が見えてきた。

 いちど入れば生きて戻ってこられないと言われる場所だ。ごくりと唾を飲み込み、森の中に入っていく。

 夜の生き物がカサリと枯れ葉を踏みながら歩く足音や、遠くの小川から聞こえるせせらぎ。虫の声に、私の体がぶるりと震える。

 成長してからも夜の森に立ち入った経験は一度もない。昼間とは打って変わって、暗がりには魔が潜む時間になるのだ。


「お父さん……」


 アガルト・リッターって、どんな人だろう?

 私が彼について知っていることは多くない。

 前の大戦の英雄で、一人で敵の大隊を何個も撃破したとか。人と慣れ合わず、森の中で暮らしている変人だとか。とても非道で、魔物の肉を生で食べているとか……。

 私は恐ろしい想像を振り払って、前を見据えた。


「……どこにいるの? アガルト・リッター……」


 私はそう呟いた。

 あてもなく歩き続けるのも限界がある。

 木に手をついて立ち止まった時、ボッと耳元で音がした。目の前の空間が揺れ、違う光景が視界に現れたのだ。


「わぁ……っ」


 大きな姿見くらいの通り穴がある。

 そこには別世界が広がっていた。

 レンガ造りの可愛らしい二階建ての家だ。夜だからか、玄関にはランプが灯っている。


 ──突然家が現れたということは……招待されたということ?


 今まで人が住んでいる気配が森のどこにもなかったのは、魔法がかけられていたからなのだろう。

 私はその招待を受けることにした。

 おそるおそる、その空間に足を踏み入れる。途端に、入口が消えて驚いた。

 手入れされた庭園の脇を通り、玄関までたどり着く。私は緊張しつつ呼び鈴を鳴らした。


 ……出ない。

 もう一回、チリンチリンと鳴らす。


 すると、玄関の向こうから、何やらものすごい音が聞こえた。積み重なっていた物が崩れ落ちるような音だ。

 間もなく玄関扉が開かれたが、それと同時に中から触覚の長い黒い虫がニ匹這い出てきて、私の靴の横を通り過ぎていった。


「ひょぇええっ!?」


 私はあまりのことに悲鳴をあげて、地面をバタバタと踏み鳴らした。


「……なぜ、一人でダンスを踊っているんだ?」


 そう言った男性に目を向ける。

 肩下まで流れ落ちる金髪と、虹色の瞳。端正な美貌の、三十歳くらいの男性だ。だが目つきが悪く、目の下にはくっきりとクマがあり、顎や鼻下はひげでモジャモジャなせいで、全てが台無しになっていた。

 彼はだらしなくよれたシャツとズボンを着ており、私を不審げな眼差しで眺めている。

 私は彼こそがアガルト・リッターだと確信した。

 私はスカートをつまんで、淑女の挨拶をした。リュックが重くてよろける。


「はじめまして。私はフィオナ・ブラウン。伯爵家の養女でした。血の繋がった父に会いにきました」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る