第28話
三十、
閑静なはずの一郭が、一転、
「御無礼つかまつります!
「何と!」
ラムルが叫んだ。
「彼奴ら、
壮年の
「
やおらライゴオル家の私兵とおぼしき武人が数名、
「
黒獅子侯が
「アガムよ。
「しかしーー」
「行けい!」
まさしく獅子のごとき
廊下を進むサラの耳に、
「お待ちを。そちらは多分、囲まれています。此方へ」
アガムが
「こんなところで何を?」
答える代わりにアガムは、絨毯の端を無造作に捲った。そして剥き出しになった石造りの床の一部に指を差し込むと、難なくそれを引っ張り上げた。その部分は、石に見せかけた木の
「この隠し通路を行けば、
アガムが二人を促す。それを見てラムルが訊いた。
「アガム様はーー?」
「ーー申し訳ございません。
うっすらとした外灯で、いっそう蒼白に見えるアガムに二人は向き合った。サラは言った。
「お父上の
アガムは微笑んだがそれは、これまでのどの微笑みよりも血が通って見えた。アガムは用心で火を点けていなかった
*
隠し通路はさほど長くはなく、隣接した
「このまま
どちらからともなく言い出すと二人は、足をベルン修練場に向けていた。但し焦って急行すると衛士たちの目を引くおそれがある。じりじりとしながらもサラは、逸る気持ちを律して歩き続けた。
夜にうずくまる修練場は、ひどく懐かしい場所に感じられた。
サラとラムルは一応、裏手に回って塀を乗り越えた。万が一の監視を警戒してのことだった。
(まさか
二人は音も立てず
「そこまで」
扉に手をかけようとしたサラを、背後からの鋭い叱責が押しとどめた。
「動くな。貴方たちの体は、この半弓が追っていますよ」
アルキンの声だ。ほっとして力が抜けそうになった。
「アルキン殿ーー」
ラムルが振り向こうとする。
「動くな! ……て、ラムル! サラもか!」
射かけていた半弓が下がった。
「無事だったか!」
「はい。叔父上も」
相変わらずどこか眠たげな叔父の顔を見たら、なぜか涙が出そうになった。アルキンは周囲に視線を走らせた。
「ここじゃマズイ」
「アルキン殿、実は折り入ってお知恵を拝借したいのです」
ラムルの詞に頷くと叔父は、二人を
書庫は、サラとアルキン、ラムルの三人が入ると一杯になった。いつかと同じ顔ぶれだ、とサラは思った。あの時はまだ父の死を知る前だった。ほんの廿日ばかり前のことだが、もはや遥か遠い昔のように感じられる。
書見台と
サラが語り終えるとアルキン叔父は、ふうむ、息をひとつ漏らした。
「で、その『翼』とやらが本当にあるのではないかと思うのだね」
「確実に存在するかどうかは、わたくしにも分かりませぬ」
ラムルは頭をかいた。
「ですが、ひとつ気になっていることがあります。それは以前、アルキン殿がサラと交わしていた話です」
「ガイウス様のことかな。ラウド様が、ガイウス様にすべてを伝えてはいなかった云々、という」
ラムルが頷く。
「はい。ガイウス様はーー剣術に不調法なわたしが申すのも何ですがーー知るかぎりでは最高の剣士です。そのガイウス様を
「なるほど。その相手こそ、そのカルロッツアの剣を受け継いだ人物だと」
「短絡的かもわかりませんが、その可能性はあるかと」
サラはいまだに、同門にそのような人物がいるとは考えたくなかった。黒獅子侯の話の通り、高名な剣士だったラウドは他の
「しかし先ずは足許からと思いまして」
もちろん継承者が秘されていることも考えられますが、とラムルはつけ加えた。
「だが、ラウド様の教えを受けた人物となると相当な高齢かも知れぬぞ」
アルキン叔父が首を捻った。
「果たしてそんな人物に、ガイウス様が
「そうとも言いきれないのでは。
サラが答えた。あるいはもう少し上の年齢ならば確実であろう。どうしてもサラは、アクバのことを念頭に置いて話してしまう。かの者は、どうみても四十は越している。あるいは五十以上かも。となれば十五年前は二十五歳から三十五ほど。印可を授けられるのに問題はない。
ふむ、と叔父は言った。
「いずれにしても記録を当たってみるしかあるまい。過去の門人録だったねーー」
アルキンが立ち上がる。二人も従った。
(門人録。そこに、求める答えはあるのだろうか)
「お探しのものは、ここら辺だね」
教えられた一角には、表紙の擦りきれた冊子が平置きに積まれていた。代々の門人録である。黒っぽい紙の表紙がついていて、向かって右側が糸で綴じられている。
記録には几帳面な文字で、門人の在籍年月日や、免許や印可を授けた日付、伝授された技の目録などが記されてあった。紙が傷んでいる箇所や、墨が滲んで字が読めない部分もあり、注意せねばならなかった。
一
だがーー。
期待に反し、どこにも『翼』の文字も、アクバの名も見当たらなかった。
(『翼』の意味は別にあるのだろうかーー)
今さらながら、疑念がもたげてくる。
(今はこれに集中せねばーー)
すぐさま別の冊子を手に取って調べる。しかし又もや空振りであった。じりじりと
「ちょっとこれを見てくれ」
三冊に目を通して、別のもう一冊に手を伸ばそうとしたときだった。ラムルがある
「『翼』には関係ないけども、ちょっと気になってな」
ラムルがさし示した箇所には、十五年前の日付で、ヨン・ベルデランドの名前が記されている。その下にはーー〈
「ベルデラントといえば、あの赤獅子候だろうな」
ラムルが首を捻った。アルキンが横から覗き込んで引ったくった。おお、と一人で興奮している。
「これだよ、これ! 前にした話に出たやつだ。
そのアルキンの声は、サラには半分しか届いていなかった。
〈
赤獅子侯。
二つの言葉がサラの中でぐるぐると渦を巻いて、ひとつになろうとしていた。
(ーーまさか)
サラは持っていた冊子を取り落とした。サラの中でひとつの絵が、音を立てて完成していった。どうした、とラムルの声が、やけに遠く感じられる。
絵の中心にはーー。
*
「事件を解くには、起点を父上からずらさなければならないと思う」
ラムルとアルキンを前に、サラは話しだした。
「一連の事件の起点は、ひと月前のバダン衛士令殺害事件です」
「バダン? あの闇討ちされたお方か」
アルキンが、思いだしたようにいう。
「そうです。以前、叔父上に聞いた〈
「バダン衛士令の
ラムルが引きとった。サラはうなずいた。
「〝夜陰に乗じて首を刎ねる
サラは冊子をピシャリと叩く。
「赤獅子候その人です。ではなぜ赤獅子候が、衛士令を自らの手で殺さねばならなかったのか」
サラはひと息ついた。
「そこで思いおこされるのが、アガム様の言葉です。アガム様はこうおっしゃっていました。どうしてカリムほどの地位にある者が諾々とアクバといういち
「赤獅子候が、カリムに
ラムルが言った。
「ううん。以前、ラムルが指摘したように、この事件の
「そうか、それでバダン衛士令かーー」
ラムルが呟いた。
「たぶん、それが真相でしょう。赤獅子候は、バダン衛士令を操りカリムに働きかける。太守のお側役であるバダン衛士令に弱みを握られたとあっては、カリム侍医団長も動かざろう得ないでしょう。ところが、赤獅子候はバダン衛士令が邪魔になった」
「仲間割れしたのかーーあるいはガイウス様の手がバダンまで伸びたのかも」
ラムルが、考えながらいった。
「いずれにしても赤獅子候が〈
バダン衛士令殺害のすぐあと、父は修練場を訪れているからだ。サラたち同様、門人録を調べに。だが証拠を掴むには至らなかったのだろう。だからこそ、ハーリム医師を匿った。しかし、父に感づかれたことを知った赤獅子候は、大胆にも父を襲ったのだ。
噂どおり、前太守と赤獅子候の関係は、犬猿の仲にまで壊れていたのだろう。ここからは完全に想像の域を出ないが、赤獅子候は太守を廃し、その咎を競争相手の黒獅子候に被せることによって、一石二鳥を狙ったのではないか。サウル候が傀儡にすぎないことは誰でも知っている。黒獅子侯さえいなくなれば、ライゴオル家に成り代わってサウル侯を操るもよし、侯を廃して世継ぎのルウン太子を太守位につけるもよし。
「でも、『翼』ってのは……あっそうか」
サラはラムルに頷いた。ナリン砂漠における〈
「〈夜の『翼』〉か……」
バソラ
「どうする」
とアルキンは、サラとラムルを等分にみた。確証は何ひとつなかった。あるのは状況証拠でしかない。これでは赤獅子候ほどの地位にある者を弾劾する手立てにならない。
(ーー手も足も出ないのか)
唇を噛み締める。沈黙していたアルキンが、ポツリと洩らした。
「少し揺さぶりをかけてみるかーー」
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