第27話

二十九、

(助けられなかったーー)

 遁走の最中もサラは、慚愧の念に押し潰されそうだった。

 みぼうじんと医師の間柄あいだがらにさえ気づけば、彼女がハーリムのもとへ会い行くと予想できねばならなかった。敵はどういう手段でか、刺客あんさつしゃワルラチを警吏にまぎれこませ機会をうかがっていたのだ。そうして土壇場でまんまと医師の口を塞いだのだった。

 ーーいとも容易たやすく。

「あの女性ひと……酷いことされないかな」

 御史台は腹立ちまぎれとばかりにみぼうじんを連行するだろう。耳の奥には、彼女の痛ましい慟哭がまだこだましている。

「彼女は何も知らないだろう。すぐに家に帰されるさ」

 折角のラムルの励ましも、サラの心を和ませはしなかった。

 翌日、それが本当であったことを旗亭りょうりやの二階でボルに知らされ、ひとまず胸をなでおろしたものの、事態はより深刻さの度合いを増していた。ハーリムの死によって、サラたちは真相に至る足掛かりをすべて失ってしまったのだ。

 そしてそれは、ジクロとジナを助ける手立てがついえたことを意味する。真綿で首を絞められているような、あるいは空気が粘度を持って上手く胸に入って来ないような感じで、呼吸が苦しくなる。

あたしとしたことがーー」

 悔やんでいるのはマルガも同じだった。彼女がアクバを監視下に置いていた此のかん、アクバは通常の勤め以外に全く不審な素振りを見せなかったという。白天ひるま夜里やかんも誰とも会わなかった。マルガの目を盗んで連絡を取ることも出来ないはずであった。にも拘らず暗殺は実行された。これはマルガがやってくるよりだいぶ前に、〈飛頭蛮ぬけくび〉が警吏に潜入し終えていたことを示唆した。サラたちは明らかに先手を取られているのだった。

「今度こそ、尻尾を掴んでやる」

 マルガが決然と監視に向かう。ラムルがボルと目顔で頷き合って、ボルが彼女を追った。マルガは煙たがるかもしれないが、協力すればより万全な監視体制を敷くことが出来るだろう。

 サラは我慢して踏みとどまった。大勢でアクバを囲んだところで気づかれるのが落ちだろう。なまじ雲隠れでもされたら、目も当てられない。

(時間がないんだ……)

 処刑の日どりは三日後に迫っている。なのに、今から別の手掛かりを模索せねばならない。そのことがサラをより焦らす。

「仮にーー『翼』の遣い手が父を殺した下手人だとして、それは何者だろう」

 円卓に手をついて、何度目かの同じ問いを口にする。どうしても戻って来ざるを得ない疑問であった。初めにして最後の問い。父を葬るほどの剣士が存在するか。その数少ない可能性を絞り込めば、一足とびに事件の真相に到達できるのではないか。

 ラムルが、指を折って、条件を挙げていく。

「まず下手人は、カルロッツアその人に教えを受ける機会のあった人物の可能性が高いーー」

 隠居してからの祖父は、殆ど人との交わりを絶っている。したがって時期的にみれば、隠居より以前まえに祖父と接触した者が怪しいということになる。祖父が隠居してバソラ邨に移ったのが十五年前。すなわち下手人が『翼』を授けられたのは、それより前のこととなる。

「しかもその人物は、秘太刀を授けられるほどの技量の持ち主であるーー」

 考えられるのは、当時の高弟たち、教えを受けた他の修練場の剣客といったところだろうか。

 少しでも情報を集めねばならない。そのためには、今のところ黒獅子侯に直接あたるのが一等望みが高いといえた。席を温めないほど動き続けなければ、ジクロとジナは処刑台の露となってしまうという不安があった。

 

 太守一族を筆頭に、士族スキュロの上つ方には城外に別墅べっそうを所有している者たちが多かった。黒獅子侯も例外ではなく、城市まちの北東に邸第やしきがあって、今は病気療養と避暑を兼ねてそこに赴いているということだった。

 アガムに連れられて訪れたのは、方形のホーロン城市からはみ出している、小ぶりな台形の区劃であった。そこは貴族や高官の邸第やしきが多く、閑静でそこここに樹木が生い茂っていた。

 その中のひときわ豪壮な邸第やしきが黒獅子侯の別墅べっそうだった。アガムの導きで裏木戸から園林ていえんに侵入したが、自分がお尋ね者だと思うと、ピリピリとした緊張感に包まれる。いくらアガムが口添えしたところで、いつ官府おかみにつきだされてもおかしくないのだ。池に掛かった朱塗りの太鼓橋を渡って、扁額へんがくのある八角形のあずまやを横目に小径を進む。

 サラとラムルの張りつめた気配をよそに、アガムは気軽な容子ようすで、主房おもやに侵入すると、最奥部の書院しょさいに向かった。書院しょさいの内部は、落ち着いた色合いの壁掛け布と調度で設えてあった。格子が幾何学模様を描く丸窓の前に、布貼りの紫檀したんながいすがあって、黒繻子くろじゅす長袍ちょうほうをまとった老年の男が寛いでいた。

老爸ちちうえーー」

 アガムの声かけに、手にした巻子かんすから顔を上げた黒髯こくぜん赭顔しゃがんの男は、僅かに不審の色を浮かべたようだった。ラムルとサラは揃って跪き、男に対して礼を取った。

「初めてお目にかかりまするーー」

 黒獅子侯ウルス・ライゴオルは、内心がどうであれ動じた素振りは微塵も見せなかった。ながいすのすぐ傍に、呼び鈴の紐が垂れていた。ひと引きすれば警護の者が飛んで来るだろうが、身動ぎもしなかった。

 アガムは背凭れのない丸椅子を引き寄せると腰かけた。気安い態度に驚くが、叱られるでもないので、これが父子おやこの常の距離感なのだろう。

「あまり時間がございませんので、単刀直入にお聞き致します」

 アガムが切り出す。

「以前、老爸ちちうえがお聞かせ下さった『翼』という剣について、詳しく教えていただきたいのです」

 黒獅子侯の太い眉が、ぴくりと跳ねあがった。しかし直接は答えず、サラたちに視線を寄越した。威圧感のある強い眼であった。

其方そのほうらがーー」

 声が腹に響いた。

主上おかみしいたてまつったのか?」

「いいえ。違います」

 サラは即答し、黒獅子侯の目を真っ直ぐ見返した。二つの視線が宙でぶつかり、火花が弾け跳んだようだった。

 む、と黒獅子侯が一声だけ発した。

「なかなかの面魂つらだましいだ。さすがガイウス・アルサムの娘といったところか」

 黒獅子侯が二人にも着席を許すとアガムが、これまでの経緯いきさつをかいつまんで聞かせた。

「ーーなるほど、それで『翼』か」

 ライゴオル家の当主は、癖なのか顎の黒髯を片手でしごいた。

「はい。以前に酒席にてお話しくだされたと記憶しております。カルロッツアには『翼』という名の絶技が存在すると」

「うむ」

 確かにそうだが、と黒獅子侯は曖昧にうなずいた。

「残念ながらわしも実際に『翼』なる剣を己の目で見たことがあるわけではない。わしにそのことを話したのは、四つ上の大哥あにうえでな」

老爸ちちうえには兄者あにじゃがおられたのですか」

 アガムが驚いた様子で言う。

大哥あにうえは若くして死んだのだ。どうやら大哥あにうえは、『翼』を目撃した唯一の人間らしいーー」

 そう言って黒獅子侯は、三人を等分に見た。


 話は二十年ほど前の青猫の年に遡る。その日、夕稽古ゆうげいこ後の武館どうじょうに残っていたのは、ラウド・アルサムと黒獅子侯の長兄セルダ・ライゴオルの二人だけだった。

 この年の奉納仕合は混戦が予想されていた。ベルン、ジェダス、オウダイン、各修練場からの参加者はなべて実力伯仲とみられ、逆に言えば、図抜けた天びんの者はいないという世評が流れていた。いまは禁止されているが、そのころはまだ奉納仕合の勝敗を占う賭けが公然と行なわれていて、民びとの関心は欲得ずくで高かった。

 もっとも当の本人たちにしてみれば、斯様な風評に関わりは薄かった。各人は、大舞台でどうやって勝ち抜くかで頭がいっぱいなのである。本番を三日後に控え、オウダインのセルダがカルロッツアに居残りを申し出たのも、無理からぬものがあった。各武館どうじょうに交流があって、互いに稽古をつけ合ったりしていた時代でもあった。

 陽が落ちてもいっこうに熱気の引かない、火鳥の月の蒸し暑い夕べだったという。

 稽古を始めて数刻、修練場に灯りを手にした下男がやってきた。

「お稽古中、申し訳ございません。どうしてもラウド様に取り次げと頑としてねばりますれば……」

 弱り切った風情で下男が言う。男がひとり門の前で頑張っているのだという。

 またか、とセルダは顔をしかめた。大方おおかた、カルロッツアの高名につられてきた挑戦者であろうと思った。

 数年前、ナリン砂漠一帯が西方のサクラムと可兌カタイとの戦に巻き込まれた記憶が、まだ生々しい頃である。血腥ちなまぐさい息吹の名残が、巷間ちまたのそこここに蔓延はびこっていた。数こそ減ってきたものの、道場破りといった手合いは、まだまだしぶとく生き残っていた。

 拙者が追い返しましょうか、とセルダは申し出た。自分はオウダインの高弟であり、そこらの武芸者など片手で捻る自信があった。

 それではらちがあくまい、とラウドは相手を招じ入れるよう下男に言った。何よりラウド・アルサムこそが戦乱に名を馳せた寵児であった。闘争は日常の一部であったのだ。

「ラウド・アルサム殿でござるな」

 落ち着いた、歯切れのよい挨拶をしながら、その男は抱拳礼をした。それで、可兌カタイから流れてきた者と知れた。

 痩せてはいるが、引きしまった肉体の持ち主だった。背は高くもなく低くもない。尾羽打ち枯らした傭兵の身なりではあったが、まとっている気配から、ひと目で歴戦の戦士と見てとれた。日焼けした肌にかがやく双眸が、やけに鋭く油断ならない印象を抱かせた。

(ーーこいつは食わせ者だ)

 一言も交わす前からセルダは、腹の中でそう決めつけた。薄笑いの奥から値踏みするような目でラウドを眺めると男は、前置きもなく、お手合わせ願いたいと申し出た。

「なにゆえに」

 ラウドのいらえは、落ちついたものだった。

「名にし負う名人カルロッツアに仕合を所望するのに、理由などいりますまい。勝てば天下に名が響く」

 男はよどみなく答えた。

「断れば?」

「カルロッツアは名のみの腰抜けよ、と言い触らすだけだ」

「で、あろうな」

 これは名人、名流にはついて回る、いわば宿命のようなものである。溜息を一つつくと、ラウドは仕合を承諾した。立会人として、セルダは男の得物や恰好を検めた。剣は無銘の業物わざもので、特に不審おかしなところはない。しかし、やはりどことなく不気味な感じのする男だった。全身から、麝香じゃこうのような香りがわずかに匂った。

(ーーなんだこいつは)

 漢子おとこのくせにこうでもめているのか、とセルダは眉をひそめた。傭兵には、わざと派手な衣装に身を包む者も多い。中には好んで女のように白粉おしろいを塗りたくるような手合いもいる。戦場に咲く徒花あだばなのようなその格好は、麗々しいというよりも、毒々しいといえた。

こうも傭兵の洒落というわけかーー)

 セルダはひとりごちた。

「木剣をお貸し致す」

「いや」

 男はセルダの差し出した木剣を退しりぞけた。

「使い慣れた得物がいい。真剣にてお手合わせ願いたい」

 セルダは呆れ果てた。木剣ですら命に関わるというのに、その上、真剣で勝負したいとは。只の命知らずか、腕に覚えありと信じ込んでいる愚蠢まぬけに違いない。もっともカルロッツアを前にしたなら、二つとも同じに思えるのだが。

「……致し方あるまい」

 引かぬ様子の男を見て、ラウドは諦めたようにうなずいた。

 セルダはラウドに愛刀を手渡した。

 剣を抜き、ゆっくりと構えを取るとラウドは、撃尺げきしゃくの間合いにつめた。

 男は無駄口を叩かなかった。鞘を払うなり、疾風の攻撃をしかけてきた。ラウドが迎え撃つ。常よりも反応が鈍い、とセルダが感じるまもなく、男がさらに打つ。ラウドはこれをかわした。

 数合打ち合うにつれ、男が熟達した武芸者であるのが知れた。だがしかしーー。

(ラウド様が、これほどまで手こずるとはいかがしたことか)

 ラウドの身ごなしが、いつもより緩慢なのにセルダは気がついた。

 それにーー。

 セルダ自身の視界が妙に歪んでいた。いつの間にか灯火あかりがかき消え、武館どうじょう内がやけに暗く感じる。そして、耐えがたいほどまでに麝香じゃこうに似た香りが強くなっているのだった。全身に冷や汗がにじんだ。

(よもやーー)

「毒、か」

 間合いを外したラウドが、低く呟いた。男がにやり、と八重歯をみせた。

「気づいたか。我が異能力〈しび蘭麝らんじゃ〉」

そなたは〈異腹はらちがい〉なのかーー」

 ラウドの言葉が間遠まどおに聞こえる。武館どうじょうに充ちたその香りは、もはや物理的な脅威となってラウドたちに攻め来たっていた。体の神経を麻痺させる毒香。ぐらり、と体がかしいだ。セルダは膝をついている自分に気がついた。脚に力が入らない。

 やはりこいつは食わせ者だった、とセルダは歯噛みした。最初からまともに仕合うつもりなどなかったのだ。〈とりかえばや〉による異能力にこのような効力のものがあるとは、不覚にも知らなかった。

 状況は最悪である。軽やかな動きを見せる男とは裏腹に、ラウドはセルダ同様、足許が覚束おぼつかなくなってきていた。

「ご安心くださいラウド様。明日から最強の銘は、わたしがしっかりと継ぎまする」

 男のニヤニヤ笑いが、霞んできた。無造作に剣を振り上げた男は、

「御機嫌よう。カルロッツア」

 と慇懃無礼に挨拶し、ゆらゆらと立ち尽くすラウドに近づいていった。

 ラウドが動いたのはそのときである。僅かな力を振り絞ってするすると後ろに下がると、剣尖けんせんを天に向けて立てて構えた。それはいっきに勝負を仕かける体勢であった。

 男の顔から嘲弄が消え、油断のない面構えになった。足運びが猫のように音のないものに変わった。そして慎重に間合いを測った。

 勝敗は一合いちごうで決しよう。外せば後はない。

(ラウド様!)

 もはや声すら出せないセルダが、胸のうちで叫んだとき。

 ラウドが滑るように疾走に入った。


「そのときラウド・アルサムがどんな剣をつかったのか、大哥あにうえはついに教えてくれなかった。ーーあるいは大哥あにうえにも、はっきりとは見極められなかったのかもしれぬ。だが兄者はポツリ、とこう洩らしたのだよ。『俺は翼を見た』と」

 黒獅子侯は話を終えて、息をついた。

「それがわしの知る、秘剣『翼』というわけだ」

「では『翼』とはそもそも技の名かどうかも判然としないわけですね?」

 アガムが訊ねる。

「そういうことになるかの」

「ではその後、その技がラウド様から誰かに伝承されたのかも?」

 そう、そこが肝心なのだ、とサラは思った。しかし黒獅子侯はハッキリと首を振った。

「実のところわしも、一時期、気になって調べてみたのだ。ベルンやオウダインの門人にそれとなく訊ねてな。しかし……『翼』ーーあるいはそのような内容の奥伝ーーを受けたという者は見つからなかった。そのうち大哥あにうえも亡くなり『翼』のことも半ば忘れてかけていた。アガム、おぬしに話したときに久方ぶりに思い出したのだ」

 まさに幻のような話であった。だがーーとサラはひとりごちた。曖昧模糊としていた『翼』は、寧ろその輪郭を際立たせてきたように思えるのだった。『翼』はどこかに存在し父の命を奪ったのだ、とサラは確信し始めていた。

 ラムルがぶつぶつと呟く。

「あるいは知っていて何らかの理由で隠している者がいるのか? そうなると当時の高弟の方々を当たるかーー」

 ラムルは途中から、自分の考えに沈みこんだようだった。

 黒獅子侯は、喋り疲れたのか目を瞑りながいすに沈み込んだ。アガムが、いたわるるように薄掛けと方褥ざぶとんを父親に手渡した。

 沈黙が落ちた。

 それを破ったのは、ラムルだった。

「いやーーまだ望みを捨てるのは早い。サラ、たしかアルキン殿は先般、書庫の整理をしたのだったね」

「あ!」

 ラムルの指摘で、記憶が蘇った。

「門人録がある!」

「俺もうっかりしていた。先ずはそれを調べよう」

 ラムルが引き取った。

 たとえそれが、どれほどか細い糸であったとしても、とサラは決心する。

(絶対に見つけてやる)

 そのとき、建物のどこかで刃鳴りと怒号が卒然そつぜんと湧き起こった。風雲急を告げる遠雷のようなそれは、無気味な波となって書院しょさいに轟いた。

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