第27話
二十九、
(助けられなかったーー)
遁走の最中もサラは、慚愧の念に押し潰されそうだった。
ーーいとも
「あの
御史台は腹立ちまぎれとばかりに
「彼女は何も知らないだろう。すぐに家に帰されるさ」
折角のラムルの励ましも、サラの心を和ませはしなかった。
翌日、それが本当であったことを
そしてそれは、ジクロとジナを助ける手立てが
「
悔やんでいるのはマルガも同じだった。彼女がアクバを監視下に置いていた此の
「今度こそ、尻尾を掴んでやる」
マルガが決然と監視に向かう。ラムルがボルと目顔で頷き合って、ボルが彼女を追った。マルガは煙たがるかもしれないが、協力すればより万全な監視体制を敷くことが出来るだろう。
サラは我慢して踏みとどまった。大勢でアクバを囲んだところで気づかれるのが落ちだろう。なまじ雲隠れでもされたら、目も当てられない。
(時間がないんだ……)
処刑の日どりは三日後に迫っている。なのに、今から別の手掛かりを模索せねばならない。そのことがサラをより焦らす。
「仮にーー『翼』の遣い手が父を殺した下手人だとして、それは何者だろう」
円卓に手をついて、何度目かの同じ問いを口にする。どうしても戻って来ざるを得ない疑問であった。初めにして最後の問い。父を葬るほどの剣士が存在するか。その数少ない可能性を絞り込めば、一足とびに事件の真相に到達できるのではないか。
ラムルが、指を折って、条件を挙げていく。
「まず下手人は、カルロッツアその人に教えを受ける機会のあった人物の可能性が高いーー」
隠居してからの祖父は、殆ど人との交わりを絶っている。したがって時期的にみれば、隠居より
「しかもその人物は、秘太刀を授けられるほどの技量の持ち主であるーー」
考えられるのは、当時の高弟たち、教えを受けた他の修練場の剣客といったところだろうか。
少しでも情報を集めねばならない。そのためには、今のところ黒獅子侯に直接あたるのが一等望みが高いといえた。席を温めないほど動き続けなければ、ジクロとジナは処刑台の露となってしまうという不安があった。
*
太守一族を筆頭に、
アガムに連れられて訪れたのは、方形のホーロン城市からはみ出している、小ぶりな台形の区劃であった。そこは貴族や高官の
その中のひときわ豪壮な
サラとラムルの張りつめた気配をよそに、アガムは気軽な
「
アガムの声かけに、手にした
「初めてお目にかかりまするーー」
黒獅子侯ウルス・ライゴオルは、内心がどうであれ動じた素振りは微塵も見せなかった。
アガムは背凭れのない丸椅子を引き寄せると腰かけた。気安い態度に驚くが、叱られるでもないので、これが
「あまり時間がございませんので、単刀直入にお聞き致します」
アガムが切り出す。
「以前、
黒獅子侯の太い眉が、ぴくりと跳ねあがった。しかし直接は答えず、サラたちに視線を寄越した。威圧感のある強い眼であった。
「
声が腹に響いた。
「
「いいえ。違います」
サラは即答し、黒獅子侯の目を真っ直ぐ見返した。二つの視線が宙でぶつかり、火花が弾け跳んだようだった。
む、と黒獅子侯が一声だけ発した。
「なかなかの
黒獅子侯が二人にも着席を許すとアガムが、これまでの
「ーーなるほど、それで『翼』か」
ライゴオル家の当主は、癖なのか顎の黒髯を片手でしごいた。
「はい。以前に酒席にてお話しくだされたと記憶しております。カルロッツアには『翼』という名の絶技が存在すると」
「うむ」
確かにそうだが、と黒獅子侯は曖昧にうなずいた。
「残念ながら
「
アガムが驚いた様子で言う。
「
そう言って黒獅子侯は、三人を等分に見た。
*
話は二十年ほど前の青猫の年に遡る。その日、
この年の奉納仕合は混戦が予想されていた。ベルン、ジェダス、オウダイン、各修練場からの参加者はなべて実力伯仲とみられ、逆に言えば、図抜けた天びんの者はいないという世評が流れていた。いまは禁止されているが、そのころはまだ奉納仕合の勝敗を占う賭けが公然と行なわれていて、民びとの関心は欲得ずくで高かった。
もっとも当の本人たちにしてみれば、斯様な風評に関わりは薄かった。各人は、大舞台でどうやって勝ち抜くかで頭がいっぱいなのである。本番を三日後に控え、オウダインのセルダがカルロッツアに居残りを申し出たのも、無理からぬものがあった。各
陽が落ちてもいっこうに熱気の引かない、火鳥の月の蒸し暑い夕べだったという。
稽古を始めて数刻、修練場に灯りを手にした下男がやってきた。
「お稽古中、申し訳ございません。どうしてもラウド様に取り次げと頑としてねばりますれば……」
弱り切った風情で下男が言う。男がひとり門の前で頑張っているのだという。
またか、とセルダは顔をしかめた。
数年前、ナリン砂漠一帯が西方のサクラムと
拙者が追い返しましょうか、とセルダは申し出た。自分はオウダインの高弟であり、そこらの武芸者など片手で捻る自信があった。
それでは
「ラウド・アルサム殿でござるな」
落ち着いた、歯切れのよい挨拶をしながら、その男は抱拳礼をした。それで、
痩せてはいるが、引きしまった肉体の持ち主だった。背は高くもなく低くもない。尾羽打ち枯らした傭兵の身なりではあったが、まとっている気配から、ひと目で歴戦の戦士と見てとれた。日焼けした肌にかがやく双眸が、やけに鋭く油断ならない印象を抱かせた。
(ーーこいつは食わせ者だ)
一言も交わす前からセルダは、腹の中でそう決めつけた。薄笑いの奥から値踏みするような目でラウドを眺めると男は、前置きもなく、お手合わせ願いたいと申し出た。
「なにゆえに」
ラウドの
「名にし負う名人カルロッツアに仕合を所望するのに、理由などいりますまい。勝てば天下に名が響く」
男は
「断れば?」
「カルロッツアは名のみの腰抜けよ、と言い触らすだけだ」
「で、あろうな」
これは名人、名流にはついて回る、いわば宿命のようなものである。溜息を一つつくと、ラウドは仕合を承諾した。立会人として、セルダは男の得物や恰好を検めた。剣は無銘の
(ーーなんだこいつは)
(
セルダはひとりごちた。
「木剣をお貸し致す」
「いや」
男はセルダの差し出した木剣を
「使い慣れた得物がいい。真剣にてお手合わせ願いたい」
セルダは呆れ果てた。木剣ですら命に関わるというのに、その上、真剣で勝負したいとは。只の命知らずか、腕に覚えありと信じ込んでいる
「……致し方あるまい」
引かぬ様子の男を見て、ラウドは諦めたようにうなずいた。
セルダはラウドに愛刀を手渡した。
剣を抜き、ゆっくりと構えを取るとラウドは、
男は無駄口を叩かなかった。鞘を払うなり、疾風の攻撃をしかけてきた。ラウドが迎え撃つ。常よりも反応が鈍い、とセルダが感じるまもなく、男がさらに打つ。ラウドはこれをかわした。
数合打ち合うにつれ、男が熟達した武芸者であるのが知れた。だがしかしーー。
(ラウド様が、これほどまで手こずるとはいかがしたことか)
ラウドの身ごなしが、いつもより緩慢なのにセルダは気がついた。
それにーー。
セルダ自身の視界が妙に歪んでいた。いつの間にか
(よもやーー)
「毒、か」
間合いを外したラウドが、低く呟いた。男がにやり、と八重歯をみせた。
「気づいたか。我が異能力〈
「
ラウドの言葉が
やはりこいつは食わせ者だった、とセルダは歯噛みした。最初からまともに仕合うつもりなどなかったのだ。〈とりかえばや〉による異能力にこのような効力のものがあるとは、不覚にも知らなかった。
状況は最悪である。軽やかな動きを見せる男とは裏腹に、ラウドはセルダ同様、足許が
「ご安心くださいラウド様。明日から最強の銘は、わたしがしっかりと継ぎまする」
男のニヤニヤ笑いが、霞んできた。無造作に剣を振り上げた男は、
「御機嫌よう。カルロッツア」
と慇懃無礼に挨拶し、ゆらゆらと立ち尽くすラウドに近づいていった。
ラウドが動いたのはそのときである。僅かな力を振り絞ってするすると後ろに下がると、
男の顔から嘲弄が消え、油断のない面構えになった。足運びが猫のように音のないものに変わった。そして慎重に間合いを測った。
勝敗は
(ラウド様!)
もはや声すら出せないセルダが、胸のうちで叫んだとき。
ラウドが滑るように疾走に入った。
*
「そのときラウド・アルサムがどんな剣をつかったのか、
黒獅子侯は話を終えて、息をついた。
「それが
「では『翼』とはそもそも技の名かどうかも判然としないわけですね?」
アガムが訊ねる。
「そういうことになるかの」
「ではその後、その技がラウド様から誰かに伝承されたのかも?」
そう、そこが肝心なのだ、とサラは思った。しかし黒獅子侯はハッキリと首を振った。
「実のところ
まさに幻のような話であった。だがーーとサラはひとりごちた。曖昧模糊としていた『翼』は、寧ろその輪郭を際立たせてきたように思えるのだった。『翼』はどこかに存在し父の命を奪ったのだ、とサラは確信し始めていた。
ラムルがぶつぶつと呟く。
「あるいは知っていて何らかの理由で隠している者がいるのか? そうなると当時の高弟の方々を当たるかーー」
ラムルは途中から、自分の考えに沈みこんだようだった。
黒獅子侯は、喋り疲れたのか目を瞑り
沈黙が落ちた。
それを破ったのは、ラムルだった。
「いやーーまだ望みを捨てるのは早い。サラ、たしかアルキン殿は先般、書庫の整理をしたのだったね」
「あ!」
ラムルの指摘で、記憶が蘇った。
「門人録がある!」
「俺もうっかりしていた。先ずはそれを調べよう」
ラムルが引き取った。
たとえそれが、どれほどか細い糸であったとしても、とサラは決心する。
(絶対に見つけてやる)
そのとき、建物のどこかで刃鳴りと怒号が
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