第20話

二十二、

 夢の中で「兄」に会ったーーような気がした。

 顔のないその相手は、しきりとサラに語りかけているのに声はいっこうに届かない。まるで見えない紗幕しゃまくごしに向き合ってようだった。「守本沙羅」は独りっ子だ。だから相手は「サラ」の兄に違いない。顔がなくても「サラ」はそれがジクロだと確信していた。ひたぶ恋慕心こいごころで。

 もどかしい思いに駆られて、紗幕を取り去ろうともがく。手を差し伸べる。届かない。距離感がつかめない。

 人影が、すっと後ろに下がる。サラは追いすがる。紗幕かに見えたのは、砂漠の陽炎かげろうめいて揺らめく世界全体だ。

(ーー待って!)

 苦心も虚しく、相手は徐々に遠ざかっていく。表情かおなど見えないはずなのに、何故か哀しい顔をしているのだけははっきりわかる……。


 目覚めて最初に目に映ったのは、ひねこびた木のはりと、すすけた天井だった。

 麻布あさぬのの薄がけの手触り。

 硬いしんだいの感触。

 ここは何処どこだろう、と懵然ぼんやりと考える。

 夢の残滓ざんしが醸しだす曖昧な気分。哀しいのか嬉しいのかはっきりしない。遠くで誰かの声がする。意識がゆっくりと覚醒してくる。

 同時に今まで見ていた世界が薄れていく。夢の内容はもう完全に思い出せなくなった。

 サラはゆっくりと体を起した。

 周りを見渡しても、壁際に寄せられたしんだいと、古ぼけたひつしかない。

 汚れた壁に板戸の下りた窓がひとつ。入り口の扉がひとつ。細く差し込む陽光ひかりが明るいので、夜でないことは確かだった。徐々に記憶が戻ってきた。ジーナとジクロの顔が浮かんだ。にわかに焦燥感が沸き上がってきた。

 薄がけをのけて、入り口の扉を開いた。そこは、疎らな木立の傍にある閣子こやだった。閣子こやの周りは、貧相な麦畑が広がっている。ホーロンの南門から出てほどないところにある、クシュ街道沿いの緑地であった。

「目が覚めたな」

 麦穂をかき分けて禿頭とくとうの大男が現れた。大男ーーボルはサラを見てと、にやりと笑った。

「ちょうどよかった。ちょっくら頼まれてくれねえかな」そういうと、入り口に置いてあった編み籠を差し出した。「腹、減っているだろ。メシ食わしてやるからさ」

 そんなわけで、サラは閣子こやの裏手に廻って、積まれた粗朶そだを運ぶことになった。一通りすんだ頃、閣子こやから食欲を刺激する香りが流れてきた。

「まあまあ、いけるだろ」

 ボルが卓子テーブルに並べた料理は、見かけはともかく味は予想以上に上等だった。

 分厚いパンをほおばりながらボルが、とろみのあるスープもともにすすめてくる。サラは、パンをちぎって平皿のそれにひたして口に運んだ。肉の脂と香辛料と玉ねぎのうま味が口の中に広がる。食欲が戻ってきた。

 昨天きのう、下町の路地を駆使して何とか追っ手をまいたサラたちは、隊商の大行列に混じって南門を抜けた。そして、ボルの用意したこの蔵身地かくれがに身を寄せたのだった。

 無論とても安心はできない。

 いずれ監察御史と、御史台支配の猟犬のような警吏たちが、ここを嗅ぎつけてくるかもしれない。だがボルは、事もなげにサラの不安を一蹴した。

「そんな簡単には見つからんよ」

「どうしてそう言い切れるのですか?」

「ここはな、だいぶ以前まえからの盗人宿ぬすっとやどなのさ。今さら分かりっこない」

 サラが唖然としていると、

「俺は金吾衛やお上に義理があるわけじゃない。だがガイウス様にはある。だから、あんたには及ばずながら力を貸す」

 さあ、たんと食いな、とボルは再び勺子スプーンをとった。

 ボルが、父ガイウスの遣っていた〈塔鳩どばと〉ーー細作みっていであったのを知らされたのは昨日この閣子こやにやって来てからだったが、元緑林とうぞくとは知らなかった。

 それ以上に衝撃だったのは、ぶっきらぼうなボルの口調に、ガイウスに対する素直な信頼が透けていたことだ。父ガイウスが、お上の威をかりたただの官憲ではなかったことのあかしのようであった。

「ラムルの旦那は下午ひるすぎに戻る。日后さきざきの話はそのときにしようや」

 舐めるようにきれいになった平皿を持ってボルは、席を立った。

 二人は、麦畑で草とりをしながら閑聊ざつだんを続けた。昨夜から二人とも、麻の丈の短い上衣に、同じく麻のズボン穿いた農民の格好である。

 合間あいまに訊かれるままボルは、ぽつぽつと、自分のことを話した。ボルは元々、碧天南路を騒がせていた〈黒夜党〉一味であった。〈黒夜党〉は神出鬼没の緑林とうぞくで、ホーロンの金吾衛きんごえい哨兵しょうへいもまったく尻尾をつかめず、隊商の襲撃や城内の富商ごうしょうへの押し込みをゆるしていた。それがガイウスの粘り強い探索の結果、引き込み役のボルが捕えられた。

 捕縛されたボルに対し、ガイウスは一味の居所を割らせるため、凄まじい拷問にかけた。

「そりゃあ、恐ろしいお方だったよ」

 手際よく草をむしりながら、ボルは言った。

「でも、ただ恐ろしいだけのお人じゃあなかった」

「それはどういうーー?」

 サラは訊いた。

「そうさな……上手くはいえねえな。ひと言でいうと……いや、やっぱり、惚れちまったっていうことかな」

 ボルの言うことは、さっぱりわからなかった。結局、ボルは仲間のことを一切洩らさなかった。しかし一度捕まった者は、もう二度と〈黒嶺こくれい〉のむらに戻れない。〈異腹はらちがい〉を害する目的で転向させられているかもしれないからだ。それを知るとガイウスは、ボルを手下てかに置くことにしたという。

 あの人のためなら死んでもかまわねえと思ったんだがな、とボルが呟いた。それは存外に真実ほんきの響きを含んでいたのだった。


 ラムルとマルガが姿を現したのは、陽が傾いてからだった。姿が見えるなりサラは彼のもとに駆け寄った。

「ジクロとジナは?」

 サラは勢い込んで訊いた。ラムルが首を振る。

「残念だが、詳しいことは分からなかった……。御史台に捕らえられたままなのは間違いないが……」

「どうしよう……」

 絶望感がサラを包んだ。

「わたしが逃げ出したせいで酷いめに遭っているかも……」

 サラはこらえきれなくなって、両手で顔を覆った。ラムルが肩に手を置いてくる。

「ああしなければ、サラが殺されていたよーー」

城内なかの様子は?」

 ボルが訊ねる。

城市まちはかなり危険だ」

 ラムルは険しい顔で答えた。見て回ったところ、城内の各里坊には高札こうさつが立ち、サラとラムル二人の人相書きが掲げられているとのことだった。


〈此の者ら畏れ多くもホーロン太守を弑逆しいぎゃくせんと画策する大罪人なり。〉


 つまりいまやサラたちは、日の下に素顔を晒して大道を歩けない身分になってしまっていた。ラムルは続けた。

「二人を奪還するのはすぐには難しい。まずは昨夜確認できなかった、それぞれの経緯いきさつを話そう」

 こうして四人は、あらためて卓子テーブルを囲んだのだった。

 ラムルは、物馴れた隊商の一員のような身裝いでたちで、いっけん士族には見えなかった。高々と黒髪を結い上げたマルガは、すっぽりとした外被マントをまとっているが、その内側はサラにはほとんど半裸のように感じられて落ち着かなかった。胸当てと腰当てにうすもの披帛ストールを羽織った格好で、西方の踊り子のようである。

 ボルが香りのよいお茶を煎れて配った。皆が手を延ばしたが、マルガは茶碗に触れようともしなかった。

御史台ぎょしだいの描いた情節すじがきはこうだーー」

 ラムルが話をまとめていう。

「何者かのーー御史台は黒獅子侯にしたいらしいがーー指示を受けたガイウス様と杏林いしゃのハーリムは、共謀し太守に毒をすすめていた。そしてそれが発覚しそうになったため、ハーリムは失踪もしくは殺され、ガイウス様も口封じのため殺された。娘のサラは、父のやっていることを知っており、ザビネが密謀の中身を嗅ぎつけたのが分かると、父の謀を隠匿するためにザビネを殺害したーー」

 酷い胡説でたらめだと思うと、はらわたが煮えくり返るが、何とか冷静に指摘する。

「しかしそれはやはり無理があると、指摘する者が出んじゃ? 父上は金吾衛のいち捕吏とりかたよ。まがりなりにも侍医団に名を連ねるハーリム医師ならいざ知らず、たんなるしたやくの父上を陰謀に巻き込むことに利があるとは思えない」

「まったくもってその通り。しかしあのシクマという監察かんさつ御史ぎょしは、その線で事件を片付けるつもりだ。何といってもまず、サラの「自白」がある」

 サラは唇を強く噛んだ。あの不可解で不愉快な感覚が忘れられなかった。

「そしてここが肝要なのだが……実際のところ、彼奴にとって真相まことなどどうでもよいのだと思う」

「それはーー?」

「ケッ、上つ方の権勢争いか」

 ボルが吐き捨てるように言った。

「そうだ。御史台の、いやその背後の赤獅子侯にすれば、これを黒獅子侯失脚の契機きっかけにできればよいのだろう……」

 サラは唇を噛んだ。父の死が、くだらない政争に使われてけがされている気がした。

 ただ、とラムルは付け加えた。

 ガイウスの関わりを無視するならば、黒獅子侯の関与はあながち否定しきれないという。黒獅子派は、前太守のもとで政治的に不利な立場に立たされていた。それが太守薨去こうきょのあと、王弟アデルの擁立でいっぺんにまつりごとの中心に返り咲いたわけで、「利を得たのは誰か」という探索の基本からすれば、この説にも一定の説得力はあるというわけである。

「ガイウス様を外したとしても、情節すじがきをさほど変えずに描くことはできるんだ。黒獅子侯はハーリム医師を使って太守に毒を盛っていた。そして医師に薬を処方してもらっていたガイウス様が、医師の様子がおかしいことに気づいて問いただしたーーのかもしれん」

「案外それが正解かもな」

 ボルがそう引き取る。

「ガイウス様は探索に乗り出したが時すでに遅く、太守は助からなかった。ガイウス様も殺され、ハーリムは自分に司直の手が伸びるのを感じて身を隠した……」

 ボルが訊いてきた。

「その、監察御史が証拠として押し通そうとしているかんざしとやらは、ほんとにあんたのものなのか」

「ええ……」

 ジクロにもらった宝物がこんなことに利用されるなんて。

「彼奴らは、いつそれを手に入れたと思う」

 今度はラムルに質問された。しばらく考えて応えた。

「……アクバが邸第やしきに来たことがある。父上の事件を調べるためだといって。そのとき、少しのあいだだけど目が離れたの。かんざしはその際に盗まれたんだと思う」

「ふん。奴さん、一朝いっちょうことが起きたときのために予め手を打っといたんだろうぜ。用意周到なこった」

 ボルが毒づく。

「やはりアクバとシクマは、結託しているか……」

 ラムルは呟いた。

 サラは考え考え意見を述べた。

「必ずしもアクバとシクマが共謀しているとはいえないかも。どうもアクバという男は腹の底がしれない。あるいはシクマすらも手の上で躍らせているのかも……」

「いったい何者なんだ、そいつは……」

「ガスコン様が教えてくださったのだが」とラムルが、ボルの疑問に答えた。

 ホーロンに帰還してサラたちが捕らえられたのを知ったラムルは、矢も盾もたまらず御史台に向かおうとした。それを押し留めたのはアルキンだ。無闇に乗り込んでも、ラムルも捕まってしまうのが落ちだ、まずは情報を集めよう、と説いたのだ。

 そこで二人は、ガスコンを訪ねた。

 ガスコンはことの経緯けいいに怒り心頭で、むしろ二人がなだめなければいけないほどであった。どうやらせんから、お上の動きに不信感をつのらせていたという。

 そもそもが、右府金吾衛のガスコン殺害事件の調べが進んでいるように思えなかった。左右両府に敵愾心ありといえど、相身互あいみたがこころざしを同じくする同輩だ。身内を殺されたも同然なのだ。ところがどうもガイウス様の件に関しては、すでに抱えている事案を借口いいわけに人出があまり割かれている様子が見受けられない。どころか、官衙やくしょの誰にきいても探索の進み具合がわかない。

「おかしいな」

 ボルが口を挟む。ラムルは首を振った。

「ああ。まずありえん」

 そこでガスコンが、上役の執金吾しつきんごじょうを難詰すると、意外な話がとび出してきた。

 金吾衛での探索は中止になった、と上役は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。以後、この件に関わることまかりならんと、お上からの厳命があったと。そして代わりに御史台が動くと言われたのだった。御史台に管轄が移管されたはっきりとした理由は上役も知らされていないようだった。そしてそのときに、監察御史の加勢にアクバが駆りだされたことを教えられたのだった。

 サラは訊く。

「アクバは本当に捕吏とりかたなの?」

「ああ、それは間違いない。しかし彼奴は捕吏といっても、つとめは武庫ぶこ(武器庫の出納・管理が仕事)のしたやくで、探索や捕り物で表に出ることはない」

「なぜそんな人が引っ張りだされたんだろう……」

「土地勘というやつらしい。アクバは、病を得て武庫づとめになる前は、見廻り役で〈乳鉢小路〉ふくむ一帯が受けもちだった。そのため、あそこらの地勢に明るいというわけだ」

「そうはいっても、いまの見廻り役がいるだろうに」

 ボルが疑問を呈する。

「うむ。だからいっそう胡乱うろんなのだ。ともかく、この件に関しては不審なことばかりだ」

 アクバとは何者なのか? 剣術の腕前といい軽身功けいしんこうといい、たんなる捕吏とりかたとはとても思えない。

 すると、今まで一言も発して射なかったマルガが、口を開いた。

「そいつは、〈口写くちうつし〉のベヒヴァよ」

「おい、それは本当か?」

 ボルが血相を変えて、マルガに詰めよった。

「近寄らないで、背叛者うらぎりもの!」

 マルガが、冷たい目を向ける。しかし、話は続けた。

「……その小姐おじょうさんは、やってもいない罪を、自ら認めてしゃべってしまったのでしょう? 山に棲む樹霊ーー木魂こだま魑魅すだまは、好んで人の声を真似して惑わすの。この精霊スクーと人の〈とりかばや〉は、〈口写くちうつし〉といって、他人に自分の言葉をしゃべらせる異能力になる。アクバと名乗っているそいつはたぶん、可兌カタイ蕃坊ばんぼう(異国人居住区)で悪名をせた、札付きの〈異腹はらちがい〉よ」

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