第20話
二十二、
夢の中で「兄」に会ったーーような気がした。
顔のないその相手は、しきりとサラに語りかけているのに声はいっこうに届かない。まるで見えない
もどかしい思いに駆られて、紗幕を取り去ろうともがく。手を差し伸べる。届かない。距離感がつかめない。
人影が、すっと後ろに下がる。サラは追いすがる。紗幕かに見えたのは、砂漠の
(ーー待って!)
苦心も虚しく、相手は徐々に遠ざかっていく。
*
目覚めて最初に目に映ったのは、ひねこびた木の
硬い
ここは
夢の
同時に今まで見ていた世界が薄れていく。夢の内容はもう完全に思い出せなくなった。
サラはゆっくりと体を起した。
周りを見渡しても、壁際に寄せられた
汚れた壁に板戸の下りた窓がひとつ。入り口の扉がひとつ。細く差し込む
薄がけをのけて、入り口の扉を開いた。そこは、疎らな木立の傍にある
「目が覚めたな」
麦穂をかき分けて
「ちょうどよかった。ちょっくら頼まれてくれねえかな」そういうと、入り口に置いてあった編み籠を差し出した。「腹、減っているだろ。メシ食わしてやるからさ」
そんなわけで、サラは
「まあまあ、いけるだろ」
ボルが
分厚いパンをほおばりながらボルが、とろみのある
無論とても安心はできない。
いずれ監察御史と、御史台支配の猟犬のような警吏たちが、ここを嗅ぎつけてくるかもしれない。だがボルは、事もなげにサラの不安を一蹴した。
「そんな簡単には見つからんよ」
「どうしてそう言い切れるのですか?」
「ここはな、だいぶ
サラが唖然としていると、
「俺は金吾衛やお上に義理があるわけじゃない。だがガイウス様にはある。だから、あんたには及ばずながら力を貸す」
さあ、たんと食いな、とボルは再び
ボルが、父ガイウスの遣っていた〈
それ以上に衝撃だったのは、ぶっきらぼうなボルの口調に、ガイウスに対する素直な信頼が透けていたことだ。父ガイウスが、お上の威をかりたただの官憲ではなかったことの
「ラムルの旦那は
舐めるようにきれいになった平皿を持ってボルは、席を立った。
二人は、麦畑で草とりをしながら
合間あいまに訊かれるままボルは、ぽつぽつと、自分のことを話した。ボルは元々、碧天南路を騒がせていた〈黒夜党〉一味であった。〈黒夜党〉は神出鬼没の
捕縛されたボルに対し、ガイウスは一味の居所を割らせるため、凄まじい拷問にかけた。
「そりゃあ、恐ろしいお方だったよ」
手際よく草をむしりながら、ボルは言った。
「でも、ただ恐ろしいだけのお人じゃあなかった」
「それはどういうーー?」
サラは訊いた。
「そうさな……上手くはいえねえな。ひと言でいうと……いや、やっぱり、惚れちまったっていうことかな」
ボルの言うことは、さっぱりわからなかった。結局、ボルは仲間のことを一切洩らさなかった。しかし一度捕まった者は、もう二度と〈
あの人のためなら死んでもかまわねえと思ったんだがな、とボルが呟いた。それは存外に
*
ラムルとマルガが姿を現したのは、陽が傾いてからだった。姿が見えるなりサラは彼の
「ジクロとジナは?」
サラは勢い込んで訊いた。ラムルが首を振る。
「残念だが、詳しいことは分からなかった……。御史台に捕らえられたままなのは間違いないが……」
「どうしよう……」
絶望感がサラを包んだ。
「わたしが逃げ出したせいで酷いめに遭っているかも……」
サラは
「ああしなければ、サラが殺されていたよーー」
「
ボルが訊ねる。
「
ラムルは険しい顔で答えた。見て回ったところ、城内の各里坊には
〈此の者ら畏れ多くもホーロン太守を
つまりいまやサラたちは、日の下に素顔を晒して大道を歩けない身分になってしまっていた。ラムルは続けた。
「二人を奪還するのはすぐには難しい。まずは昨夜確認できなかった、それぞれの
こうして四人は、あらためて
ラムルは、物馴れた隊商の一員のような
ボルが香りのよいお茶を煎れて配った。皆が手を延ばしたが、マルガは茶碗に触れようともしなかった。
「
ラムルが話をまとめていう。
「何者かのーー御史台は黒獅子侯にしたいらしいがーー指示を受けたガイウス様と
酷い
「しかしそれはやはり無理があると、指摘する者が出んじゃ? 父上は金吾衛のいち
「まったくもってその通り。しかしあのシクマという
サラは唇を強く噛んだ。あの不可解で不愉快な感覚が忘れられなかった。
「そしてここが肝要なのだが……実際のところ、彼奴にとって
「それはーー?」
「ケッ、上つ方の権勢争いか」
ボルが吐き捨てるように言った。
「そうだ。御史台の、いやその背後の赤獅子侯にすれば、これを黒獅子侯失脚の
サラは唇を噛んだ。父の死が、くだらない政争に使われて
ただ、とラムルは付け加えた。
ガイウスの関わりを無視するならば、黒獅子侯の関与はあながち否定しきれないという。黒獅子派は、前太守のもとで政治的に不利な立場に立たされていた。それが太守
「ガイウス様を外したとしても、
「案外それが正解かもな」
ボルがそう引き取る。
「ガイウス様は探索に乗り出したが時すでに遅く、太守は助からなかった。ガイウス様も殺され、ハーリムは自分に司直の手が伸びるのを感じて身を隠した……」
ボルが訊いてきた。
「その、監察御史が証拠として押し通そうとしている
「ええ……」
ジクロにもらった宝物がこんなことに利用されるなんて。
「彼奴らは、いつそれを手に入れたと思う」
今度はラムルに質問された。しばらく考えて応えた。
「……アクバが
「ふん。奴さん、
ボルが毒づく。
「やはりアクバとシクマは、結託しているか……」
ラムルは呟いた。
サラは考え考え意見を述べた。
「必ずしもアクバとシクマが共謀しているとはいえないかも。どうもアクバという男は腹の底がしれない。あるいはシクマすらも手の上で躍らせているのかも……」
「いったい何者なんだ、そいつは……」
「ガスコン様が教えてくださったのだが」とラムルが、ボルの疑問に答えた。
ホーロンに帰還してサラたちが捕らえられたのを知ったラムルは、矢も盾もたまらず御史台に向かおうとした。それを押し留めたのはアルキンだ。無闇に乗り込んでも、ラムルも捕まってしまうのが落ちだ、まずは情報を集めよう、と説いたのだ。
そこで二人は、ガスコンを訪ねた。
ガスコンはことの
そもそもが、右府金吾衛のガスコン殺害事件の調べが進んでいるように思えなかった。左右両府に敵愾心ありといえど、
「おかしいな」
ボルが口を挟む。ラムルは首を振った。
「ああ。まずありえん」
そこでガスコンが、上役の
金吾衛での探索は中止になった、と上役は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。以後、この件に関わること
サラは訊く。
「アクバは本当に
「ああ、それは間違いない。しかし彼奴は捕吏といっても、つとめは
「なぜそんな人が引っ張りだされたんだろう……」
「土地勘というやつらしい。アクバは、病を得て武庫づとめになる前は、見廻り役で〈乳鉢小路〉ふくむ一帯が受けもちだった。そのため、あそこらの地勢に明るいというわけだ」
「そうはいっても、いまの見廻り役がいるだろうに」
ボルが疑問を呈する。
「うむ。だからいっそう
アクバとは何者なのか? 剣術の腕前といい
すると、今まで一言も発して射なかったマルガが、口を開いた。
「そいつは、〈
「おい、それは本当か?」
ボルが血相を変えて、マルガに詰めよった。
「近寄らないで、
マルガが、冷たい目を向ける。しかし、話は続けた。
「……その
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