5 念願の金縛りにかかったのはいいけど、その後のことは考えてなかった
――金縛りだ。
意識の覚醒とともに頭が理解する。金縛りにかかったのだと。
――絶対に金縛りだ。
体が動かないことを確認。
声が出ないことを確認。
目蓋を閉じることができないことを確認。
一番懸念されていた『夜間頻尿』ではない事も確認した。
金縛りで間違いない。
初めて金縛りにかかった日と同じように、足首を誰かに掴まれている感覚もある。
その感覚はゆっくりと上へ移動してくる。
足首からふくらはぎ、膝、太もも、腰、腹、胸。
ちょうど胸の位置で止まったのも初めて金縛りにかかった日と同じだ。
視界の端から見える布団は、不自然に膨らんでいるのがわかる。
布団の中に
超絶美少女の『金縛りちゃん』だ!
絶対にそうだ!
やっと会えるぞ!
僕の脳内では初めて『金縛りちゃん』を見たときと同じ光景が鮮明に再生されていた。
鮮明と言っても間接照明だけが照らす、薄暗い部屋から見える光景だ。
こんなボロアパートの薄暗い部屋に現れた『金縛りちゃん』は、まるで荒野に咲く一輪の花。
否、荒野の花畑だ!
……って、待てよ。
突然、冷静になってしまった。
あと少し、もう少しで『金縛りちゃん』が布団から姿を現すというのに、否、
――もし布団の中にいる『誰か』が『金縛りちゃん』じゃなかったら?
冷静になってから頭に浮かんだ疑問は、高揚していた僕を恐怖のドン底へと突き落とした。
ネガティブ思考になってしまうのは悪い癖だ。けれどこの状況でネガティブにならない方がおかしい。
そうだ……僕はおかしかったんだ。
この数日間、異常だったんだ。
『金縛りちゃん』じゃない『幽霊』が現れたら、僕はどうなってしまうんだ?
青白い子供の幽霊か。
それとも、恐怖心を増幅させるような言葉をかけてくる女性の幽霊か。
首を締めてくる黒い影の可能性もある。
血だらけの女性の幽霊だって。
黒目しかない子供の幽霊だって。
初めて『金縛り』にかかった時よりも『金縛り』に対する知識が増えてしまったせいで、脳裏に浮かぶ『幽霊』のバリエーションが増えてしまっていた。
悪夢だ。
その恐怖はどんどんと膨れ上がる。
まるで風船のように。
恐怖で膨らむ風船が破裂したら、僕は一体どうなってしまうんだろうか。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
頼む。頼むからあの子を、『金縛りちゃん』をお願いします。
お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。
願いを込めることによって、恐怖心を打ち消そうと考えたがそれは無理だった。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
胸の辺りで止まっていた感覚が動き出したのだ。
『金縛りちゃん』だとこの目で確認しない限り、この恐怖心は消えることなどない。
『金縛りちゃん』なら大歓迎。
別の『幽霊』だったら……。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
恐怖が完全に心を支配した。
そして畳み掛けるかのように恐怖の元凶が顔を出す。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い。
布団からひょっこりと顔を出したのは、『金縛りちゃん』だ。
初めて金縛りにかかったあの夜に、僕が一目惚れをしたあの『金縛りちゃん』だ。
『金縛りちゃん』の大粒のキラキラと輝いた黒瞳と目が合う。
その瞬間、心を支配していた恐怖が一瞬にして消滅。
それだけではない。艶やかなストレートの黒髪、ぷるぷると柔らかそうな透き通った桃色の唇、純白の肌。
その全てに目が釘付けになる。心が鷲掴みにされる。
視界の端に映る『金縛りちゃん』は美人すぎる。
見えている部分だけだがパーツは完璧だ。
もっと見たい。もっと、ちゃんと。
と、ここまでは前回と同じ展開だ。
この後の展開は未知数。
『金縛りちゃん』の狙いはなんだ?
僕はどうなるんだ?
そもそも『金縛りちゃん』は『幽霊』だ。
超絶美少女だけど幽霊は幽霊。
都市伝説とかで有名な口裂け女だって「私綺麗?」と質問しながら近付いてくる。
「きれい」と答えたら、大きく裂けた口を見せて相手を怖がらせるらしい。
逆に「きれいじゃない」と答えたら右手に持ったナイフで襲ってくる。
そしてナイフで滅多刺し。最後に自分と同じように口を裂くとのこと。
それが僕の知っている口裂け女の都市伝説だ。
たくさんある話の中で一番印象が強くて覚えている。
そんな口裂け女と『金縛りちゃん』が同じ類の幽霊だったら?
十分にあり得る。あり得てしまう。
『金縛りちゃん』は超絶美少女。
でも何をしてくるか全くわからない。
目的が不明。
「…………き…………ぃの?」
鼓膜が震えた。
恐怖で震えたのではない。
初めて聞こえてきた『金縛りちゃん』の囁く甘い声が――銀鈴の声が、あまりにも耳心地が良くて震えたのだ。
ずっと聞いていたいほど癒される声。脳はとろけてしまいそうだ。
動画投稿サイトに投稿されているASMRなんて相手にならないほど。
ダミーヘッドマイクから囁かれた声とは比べ物にならないほどの極上な声。
この声を聴きながら眠ったらどれほど癒されるだろうか。
どれほど幸せになれるだろうか。
でも待て。待てよ。
『金縛りちゃん』はなんて言ったんだ?
『き』が聞こえて、最後が疑問形っぽい感じだったよな。
もしかして口裂け女と同じで『私きれい?』とか聞いてきた感じ?
瞳も髪も肌も唇も。
初めて見えた鼻と耳と頬だってきれいだ。
声だって『金縛りちゃん』の何もかもがきれいだ。
完璧だ。パーフェクトだ!
って、ちょっと待てよ。
さっきから『金縛りちゃん』の美貌に見惚れているけど、これがもし、もしも、口裂け女の都市伝説と全く一緒だったら?
金縛りにかかっているせいで「きれい」って答えられないじゃん。
「きれい」って答えないと……答えないと殺されちゃうじゃん。
脳裏に浮かんだのは口裂け女が「きれい」と答えなかった人間を右手に持ったナイフで滅多刺しにしている光景だった。
こ、殺される!
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
早く! 早く答えないと!
声を出そうと試みるも口は微動だにしない。唇は接着剤で付けられたかのようにくっついたままだ。
首を縦に振ろうとしても現在進行形で金縛り中だ。動くはずがない。
それなら手旗信号はどうだろうか。
って動けないんだから無理だろ。
そもそも手旗信号なんて知らないし。
じゃ、じゃあモールス信号で……ってモールス信号もわからないよ。
もしもモールス信号を完全にマスターしていたとしても、幽霊の『金縛りちゃん』に伝わるかどうかも不明だし。
それなら最終手段の超音波で!
ってもういい!!!
そもそも幽霊って言葉を理解できるのか?
元々は人間だったわけだから理解できるか。
でも耳って聞こえるのかな?
ちゃんと音を拾うのかな?
僕の視界は『金縛りちゃん』の小さなお耳に吸い込まれていく。
ああ、『金縛りちゃん』の小さなお耳も可愛いな〜。
きっと耳たぶはぷにぷにで柔らかいんだろうな。
触ってみたい。
って違う! 違う違う違う違う!
耳に見惚れてる場合じゃない!
どうすれば……どうすればいいんだ。
どうすれば「きれい」だって伝えられるんだ。
僕は、僕は……ここで死ぬのか?
ここで……ベットの上で……『金縛りちゃん』に殺されて。
いや、本望だ。
超絶美少女の『金縛りちゃん』に殺されるんなら本望だ。
僕の脳裏では過去の記憶が次々と現れては消えていった。
死際に見ると言われている
ろくな人生を送ってないことに気付く。
走馬灯ならもっと良い記憶を……ってそんな過去を送ってないから無理か。
虐められていた学生時代の記憶。
ウサギだと
辞めてきたバイトでの嫌な記憶。
上司に理不尽に怒鳴られたり、仕事を押し付けられたり、給料を減らされたり、陰口を言われたり、無視されたり。
迷惑な酔っ払いに絡まれた時の記憶。
灰皿を投げつけられたり、水をかけられたり、理不尽に怒鳴られたり、無茶振りを強いられたり、馬鹿にされたり、わざと困るようなことをしてきたり、暴言を吐かれたり、足をかけられたり、肩をぶつけられたり。
本当にろくな人生を送っていない。最悪な人生だ。
涙が頬を伝った。
金縛りの影響で体を動かすことができなくても、涙を流す事は可能だと気付く。
気付いたからと言ってもどうすることもできない。
滝のように流れ続ける涙。
きっと酷い顔をしているのだろう。
『金縛りちゃん』にこんな酷い顔を見られたくない。
顔を隠したいのに、動けない。
涙を塞き止めたいのに止まらない。
まるで美女と野獣だ。
頭痛もしてきた。鈍器で殴られているかと思うくらいの頭痛だ。
高熱を出した時に味わった頭痛とは比べものにならないくらい痛い。
もしかしたら視界の外で『金縛りちゃん』以外の誰かが、僕の頭を本当に鈍器で殴っていくのかもしれない。
呼吸が苦しい。
きっと泣いたせいで鼻が詰まったんだ。
鼻をかみたい。鼻をすすりたい。口呼吸したい。
金縛りの最中にはどれも不可能だ。わかってる。
このままだと滅多刺しにされる前に窒息で死んでしまうな。
齢二十五にして死を悟った。
「…………な………………ぅの?」
まただ。
また『金縛りちゃん』が何かを伝えようとしている。
金縛りにかかっている影響で鼓膜が正常に機能せず、聞き取ることができない。
死の恐怖から鼓動がうるさい。頭痛もうるさい。
『金縛りちゃん』が何を伝えようとしているのか、考える余裕なんてない。
そんな怯える僕に『金縛りちゃん』は覆い被さった。
その瞬間、僕の胸元にマシュマロのような柔らかい何かが――おっぱいが当たった。
白色のワンピースから溢れんばかりのたわわが無防備に乗っている。
死の恐怖を感じているこんな状況でも、“おっぱい”には抗えないのが男の
『金縛りちゃん』が覆い被さったのは、首を絞めるためだろう。
ナイフで滅多刺しなら覆いかぶさる必要はない。
この状況は、過去に試聴したホラー番組の金縛りにかかった再現ドラマと酷似している。
布団から幽霊が現れて首を絞めるってやつだ。
最後に幸せな感触を味わえたのだ。
もういいだろう。
ろくな人生を送ってこなかった僕に、神様が与えてくれた最初で最後のご褒美だ。
「…………フヌーフヌー…………フヌーフヌー」
え? なんだ? フヌー?
「…………フヌーフヌー…………フヌーフヌー」
何これ? どういう状況?
「…………フヌーフヌー…………フヌーフヌー」
く、くすぐったい!
も、もしかしてこの「フヌー」ってやつ、『金縛りちゃん』の寝息?
首にかかるのは『金縛りちゃん』の寝息だ。
い、一旦、一旦落ち着こう。
じょ、状況の整理だ。
僕は金縛りにかかった。念願の金縛りに。
そして、念願の『金縛りちゃん』に再会できた。
目的が不明の『金縛りちゃん』は、口裂け女の都市伝説のように僕を殺すんだと思った。
でも違う。
『金縛りちゃん』は――超絶美少女の『金縛りちゃん』は僕の上で、たわわを押し付けながら寝てる。
大変だ。大変だ。大変だ。
超絶美少女の『金縛りちゃん』が僕の上で寝てる!
僕の上で寝てる!
僕の上で寝てる!
僕の上で!
大事なことだから何回も言った。
視界は暗い。そして黒い。
間接照明に照らされている部屋だから暗いのはわかる。
でも黒いのはなんだ?
『金縛りちゃん』の位置から視界に映る黒いものの正体をすぐに理解する。
一本一本が上質で艶やかなストレートの黒髪。
『金縛りちゃん』の頭が――黒髪が視界を埋め尽くしているのだ、
近い!
近すぎる!
鼻が詰まっていて呼吸が苦しいはずなのに甘い香りが漂ってきている。
こんな間近で女性の髪の匂いを嗅げたのだから。普通なら痴漢で逮捕だ。
って、あれ? 金縛りってこんなに素晴らしいものだったっけ……?
というかいつまでこの状況は――神様が与えてくれた最初で最後のご褒美はいつまで続くんだ?
動きたい。
抱きしめたい。
色んなところ触ってみたい。
欲望剥き出しだけど、触りたいものは触りたい。
そうだろ? 男性諸君。
でも今はこのままでいいか。
『金縛りちゃん』に会うという目的は果たされたんだ。
これ以上求めすぎるとバチが当たりそう。幸せの反動が襲ってきそう。
だから今日はここまででいい。
「…………フヌーフヌー…………フヌーフヌー」
『金縛りちゃん』の寝息。
これを子守唄にしながら僕も眠ろう。
銀鈴の音色は瞬く間に僕を深くて暗い闇の中へと誘った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ピピピピッピピピピッ
目覚まし時計の鳴る音だ。
意識が覚醒した直後、目覚まし時計を止めるのがルーティーンなのだが、今日の僕は違う。
「か、金縛りちゃんは?」
目覚まし時計を止めるよりも、『金縛りちゃん』の
布団の中を覗く。
――いない。
辺りをキョロキョロと見渡す。
――どこにもいない。
タンスの中やトイレ、お風呂なども隠れられる場所を確認しようとしたが、鳴り続ける目覚まし時計に意識が向いてしまう。
それと同時に『いるわけないだろ』と自分に言い聞かせて、冷静さを無理やり取り戻した。
目覚まし時計のボタンを押して音を止めると、静寂が包み込んだ。
静寂は思考を促す要因だ。
昨夜のこと――二度目の金縛りのこと――『金縛りちゃん』のことが脳裏に浮かぶ。
記憶の整理が始まった瞬間だ。
金縛りにかかると『金縛りちゃん』に会える。
『金縛りちゃん』に会うためには、金縛りにかからなきゃいけない。
金縛りにかかる方法は大体分かった。
精神的ストレス。身体的疲労。不摂生な食事。この三つだ。
『金縛りちゃん』が現れる原理は不明だ。
でも金縛りにかかれば『金縛りちゃん』に会えるんだ。
『金縛りちゃん』に会う方法がわかった。
もう一度会いたい。会うしかない。
いや、一度とは言わずに何度も。毎日毎晩会いたい。
「今日も絶対に会ってやる」
僕の声が静寂を打ち消した。
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