はじめてはチョコレートの味
スガワラヒロ
前編-近里彩歌はバレンタインチョコを渡したい
教室の窓側、一番後ろに並べられた机と椅子。自らの定位置と言っても過言ではないその席で、
皆が落ち着かない理由はシンプル。今日が二月の十四日、つまりはバレンタインデーであるからだ。ふだんは肩身の狭い思いをしている文系クラスの男子どももこの日ばかりはそわそわと「何か」を待っているし、そんな彼らを見て女子たちも楽しんでいるふしがある――期待に応える機会を窺っているのか、それとも単に
――まぁどっちにしたって、ウチのクラスでおおっぴらにチョコちらつかせるなんて難しいだろうけど……。
彩歌は舌の上で溶ける菓子の甘みを楽しみながら、自らの行いとはまったく裏腹な独白を内心でこぼす。
周囲を見回してみても、あからさまにチョコレートを持ち寄っているのは彩歌たちのグループをおいてほかにない。鞄や机に隠している奴はそこそこ多いはずだと彩歌の勘は告げているが、それが勘止まりにならざるを得ない程度にはどいつもこいつもお行儀のよいふるまいを見せている。
そして、そんなクラスの中で一番お行儀のよい生徒はといえば――
「あなたたち! 何をやっているの!」
ぴしゃりと響く透き通った声。
彩歌は、その持ち主が誰であるかをよく知っている。
「何って
篠浦
当番制らしい校内パトロールから帰還するが早いか、己の本丸とも呼べる二年C組の教室で巻き起こっていた風紀の乱れを目敏く察知し、ツリ目がちの双眸を鋭く細めて大股で迫り寄ってくる。
「学校に関係のないものを持ち込むなと小中学校で教わらなかったんですか?」
机の前で仁王立ちする篠浦が、彩歌含めて三名からなるグループをギロリと睨み据えた。凜然とした風貌をもつ篠浦だけに、こうして圧の強い眼光とドスの利いた声で臨まれると普通に怖い。
もっとも、生真面目な風紀委員相手にビビるようではギャルなど到底務まらない。怯む彩歌ではなかったし、仲良し軍団を形成するマリとチサも同様だ。
「とりあえず落ち着けって~」
彩歌は立ち上がり、正対する篠浦の両肩をぽんぽんと軽く叩きながら、
「勉強すんのにはアタマ使うんだからさ、甘いもん食べるのはいいことじゃん?」
「居眠り常習犯が頭を使っているとは思えません。――だいたいバレンタインのチョコレートって女性から男性に渡すものでしょう? 不純異性交遊は校則で禁止されているんですよ」
「ちょいちょいちょい篠浦サン。最近は友チョコってのがあるんだぜ」
マリからの援護が入った。
「女どうしで贈り合うなんてきょうび珍しくないんだって。おっくれってるーぅ」
――いや待て煽る方向にいくのはマズい。
彩歌の背筋を冷や汗が伝う。直後、案の定と言うべきだろう、篠浦のこめかみが
春に同じクラスになって以来篠浦をこっそり観察してきた彩歌には、今のマリの一言が篠浦の導火線に火をつけるものであると容易にわかる。真剣な話をしているときに茶化されることを彼女は何より嫌うのだ。
もちろん、マリとチサが風紀委員殿の心の
「まあまあチョコくらいでカリカリしなさんなー、不純イセーうんたらなんて要はヤるとこまで進むなってだけでしょ? ほれ、シノちんも一つどうよ?」
「共犯になるつもりはありませんっ!」
篠浦が起爆した。
「この際だから言いますけど、あなたたち格好からして服装規定に違反しているんですよ! そのありえないスカートの丈も、ぶったるんだソックスも!」
厄介なことになってしまった。こうなった篠浦を説得するのは至難を極める、というか
その証拠に、これだけ大声で騒いでいるのに、女子はおろか男子からの視線さえもすっかり自分たちから逸れている。
「私は再三注意しているのに! あなたたちときたらいつもいつも――」
繰り出される小言がいよいよマシンガンの域に達しかけたとき、助け船が前の扉からやって来た。
担任の
チャイムが鳴る。ホームルームの時間になる。
こうなっては誰よりも規律に厳しい篠浦のこと、おとなしく己の席につくしかない。ぐっと言葉を飲み込んだのが彩歌の目にはありありとわかった。
――命拾いしたわね。
人を殺せそうなくらい研ぎ澄まされた視線を最後に置いて、篠浦は廊下側最前列の机へと戻っていった。
「いやー、さすがシノちんおっもしれーなー」
「ま、山井来ちゃったし? あたしらも一旦おひらきにすっか」
「ははは……うん、そだな~……」
マリとチサに反省の色は見えない。ここで反省する殊勝さがあるならそもそも篠浦の注意を素直に聞き入れているわけだから、当然と言えば当然ではあるのだが。
離れていく二人を見送って、彩歌は座り直すとともに片付けを始めた。散乱した包み紙をまとめて握ってぐしゃりと丸め、まだ封を開けていないチョコレートとともに通学鞄の奥へと突っ込む。
――正直なところを言えば。
彩歌とて他人を笑える身ではないのだ。篠浦の目をごまかそうとチョコレートを隠し持っているという意味では、彩歌とクラスの女子たちとの間にたいした違いなどないのだから。
鞄の底へと伸ばした彩歌の五指が四角いものを触って掴んで、けれども引っ張り出すことはできなくて。
「あんなに怒ってちゃ渡せねーじゃんかぁ……」
篠浦の背中を見やって嘆く彩歌の手は、さっきまで広げていた有象無象の安いチョコとはまるで違う、贈答用のきれいなラッピングを施した箱を撫でている。
――そう。
近里彩歌がバレンタインチョコレートを渡したい相手は、他ならぬ篠浦眞穂その人なのだった。
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