百合短編集

青蒔

金木犀の香り

 ハロウィーンには早すぎる時候。それでも寒気の襲いくる北海道は金木犀が育たない。もしかしたら育つのかもしれないが、これまでの十七年の人生で一度も、あの強烈な香りというのに振り向いた経験はない。

 タイムラインに流れてきた、金木犀の花をあしらったゼリーの写真に画面をスクロールする手を止める。

「金木犀ってどんな香りなんだろ」

 口に出した言葉は誰もいない部屋の中空に消える。

『金木犀ってどんな香りなんだろ』

 同じ言葉をツイートする。

 スマホを置いて、机に置きっぱなしだった数学の問題集に手をつけた。微積分なんてわからない。問題集は遅々として進まない。最初の基礎問題を数問やるだけで疲労困憊だ。

 問題を視界から締め出して、スマホを再び手に取る。ツイッターではさっきの呟きに数少ないフォロワーが返事をしてくれていた。

『一度嗅いでみないと納得できないと思いますよ。甘くて芳しい匂い、なんて言われたいわけじゃないですよね』

 リアルの後輩の言葉だ。あまりに的を射ている。本州出身の彼女は金木犀の香りを知っているようだ。羨ましい。

 流石に金木犀のために本州に行く行動力も金も私にはない。見学旅行は一月末だから金木犀には遅すぎる。大学生になったらバイトをして貯めたお金で金木犀の香りのためだけの旅行をしようと決意する。ずいぶん贅沢だと自分で苦笑した。

 スマホの時刻表示は十時半を示す。あと三十分は頑張ることにして、微積分の復習に取り掛かった。

 *

『あたし、たぶん先輩のこと好きです』

 ラインで繋がってからはじめてのメッセージがそれだった。件の金木犀の香りを知る後輩だった。

 私は混乱した。

 なぜ、私を好きになるのだ?

 今まで告白されたことはなかった。それに自分が人に特別好かれるような性格をしていないのも重々承知している。自分でも自分が好きでないのだから、他人が自分を好きになる思考回路が理解できるはずもないのだ。

『明日、放課後に会えませんか』

『ちなみにこれ、先輩としてとかじゃないですよ』

『返事に困っているならしなくてもいいです』

『付き合って欲しいとかは言いませんから。もちろん付き合ってもらえるなら嬉しいですけど』

 立て続けに、言い訳でもするようにメッセージが来た。ラインが開きっぱなしになっていて、すぐに既読がついてしまう。

『わかった、明日一緒に帰ろう。それでいい?』

 慌てて返事をした。すぐに既読がついて、『はい』とそれだけ帰ってきた。

 その日の会話はそれきりで終わった。

 世間一般で恋と呼ぶのだろうそれに理解を示せた試しがなかった。その矛先に自分が向かうことがこれまでなかったから、さして困ってもいなかった。それに「好きな人はいない」と本当のことを言うだけで、教室でのキャラ付けにちょうど良かったのもある。

 だから、考えたことがなかったのだ。私はどんな人が好きなのか。そもそも人を好きになれるのか。人の好意を受け入れられるのか。

 わからない。だからこわい。下手なことを言って後輩を傷つけてしまうかもしれない。

 *

 翌日。ずっと胃が痛い。よほど緊張しているらしい。手も震えている気がする。かろうじて板書はできている。でも、授業内容は全くと言っていいほど頭に入っていない。明日の授業の不可解さを想像してもっと震えた。

 後輩と会うまでのその日のことはほとんど覚えていない。

『玄関前のホールのベンチで待ってますね』

 ついにきた。ホームルームが終わるとクラスメートとの会話もそこそこに玄関へ向かった。人を待たせるのは自分の好むところではなかった。

「こんにちは。先輩」

「こんにちは。後輩」

 顔を見合わせて笑う。おかしな挨拶だ。少し肩の力が抜けた気がした。

「いきましょうか」

 頷いて返す。

 お互いに靴を履いてから合流して歩き出した。先に声を発したのは私だった。

「昨日のは、その、恋愛の意味でってことであってる?」

「はい」

 後輩は真っ直ぐにこちらの目を見つめてくる。その眼差しがあまりに正直で、目を逸らしてしまいたくなる。私にはもうないものだ。

「付き合って欲しいとは言いません。ただ、今の先輩の気持ちを教えてもらいたいです」

「そっか」

 お互いになにも言わずにしばらく歩いた。

 彼女は純粋で、明るくて、かわいくて、私とは正反対の子だ。私が早くに捨ててしまった弱さを強みとして今も持っている。風で彼女の髪が、マフラーの上ではらりと舞ったのが見えた。甘い匂いがした。

「私は」

 彼女の視線がこちらを向く気配がした。彼女の方を向く勇気はまだない。

「まだ恋っていうのがどんなものか、知らないんだ。きっと綺麗なものなんだろうなって思うんだけど」

 喉がぐっと詰まる。泣き出してしまいそうだ。ゆっくりと息を吸って、言葉を継ぐ。

「君の気持ちには応えられない。私は君のことが好きだけど、君の私への想いとは釣り合いが取れてない。きっと私は、付き合おうって言われたら付き合っちゃうと思う。でもそれはあまりに不誠実だから。ごめんなさい」

 彼女は「先輩らしいや」って笑った。月の下に浮かび上がる黄色い花のような笑みだった。私はいつまでもその笑顔を忘れられないだろう。

「これだけ、私の気持ち、受け取ってくれませんか」

「うん」

 彼女は学校を出た時からずっと持っていた小さな紙袋を渡してきた。私は躊躇いなく受け取る。それが筋だと思ったから。

「中身、聞いてもいい?」

「金木犀の香りです」

 あたしが教えてあげたかったんです。

 後輩は泣きそうな顔で微笑んだ。

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