あしたのはなし

篠岡遼佳

あしたのはなし


 都会の屋上には、凍るほど青く澄んだ空が、今日も広がっている。



 少女がひとり、制服が汚れるのもかまわず、地面にチョークで何かを必死に書き込んでいる。隣には分厚く古びた書物が開かれていた。


 大きな二重円に、複雑な文言、八芒星。

 それは、屋上の幅いっぱいに書かれた招喚陣だ。


「よっし……これでいい」


 立ち上がった少女は背が高い。

 短いスカートを払い、黒のハイソックスも直して、よいしょ、と書物を左手に持つ。目を閉じ、鋭く唱える。


「"世界の狭間より、招喚に応じよ、我が名に於いて、『力』よ、顕現せよ!!"」


 ぐん、と見えない力で、空気が招喚陣の中央に引き寄せられた。少女もたたらを踏む。

 昼でもなお明るい光が、二重円を奔った。まぶしさに思わず目をつむり――。



『――――面倒くさく、だからこそ正当な手順を踏んだな、人間』


 

 男性の深い声音が聞こえた。

 少女はその声に「えっ」、と驚きの声を返した。ぱっと瞳を開く。


「うそ、ほんとに?」

『嘘か誠か、で言えば、誠だ、小娘』


 そこには、足を組んで宙に座る、けだるそうな黒髪に眼鏡をした青年がいた。

 蛍光色のスニーカーに、細身の黒いパンツ。オーバーサイズのマウンテンパーカーも派手な色をしている。中のシャツの柄はなぜか「NYAN」と白抜きだ。

 やはりけだるそうに、彼は立ち上がって、宙空を踏みながら少女の前まで来た。

『――ん? そうか、翼も出しておくか。そのほうがだろう』

 言うと、バサリという重い音と共に、巨大なコウモリの翼が彼の背から現れた。


『貴様が望んだとおり、悪魔だよ』


 深紅よりも珍しい、深いアメジストの目が淡く光を持っている。

 少女はゆっくり本を閉じた。

 指が震えている。


んでおいてビビるな』

「ビビってないです。緊張してるんです」

『そんな本、どこで手にした』

「チェーン店の古本屋さん。一二〇〇〇円」

『……招喚士も引っ越しの時には手放すものなのかね』


 ぐい、と青年は少女の顎を指先で持ち上げた。

 無理矢理目が合う。

『それはいい。ともかく契約をしよう。さあ、魂をよこせ』

「ちょっ……」

 少女は手から逃れようとするが、びくとも動かない。

『おいおい、人間。さすがに悪魔との差くらいはわかるだろう?』

「あの、顔が、近い……」

『わざとだ』

「でも、手順的には……、名前とか、体を差し出すとか……」

『二度言わせるな。これは契約なんだよ。小娘・乙は、私・甲を喚び出せるが、それ以降はすべて甲が主導権を握る。その本にはそう書いてあるだろう』

「た、魂なんて要らないんじゃないの!?」

『阿呆か、小娘。人間の体なんぞ、一瞬で消滅する。そんなもん要るわけなかろう。

 魂は力だ。生命を突き動かすモノだ。希望だの祈りだのと言って可能性を収束させるなよ。魂は目に見えないからこそ宇宙をも越える。こればかりは、悪魔でも作れない』

「わかった……わかったから、ちょっとこの姿勢苦しいからやめて欲しいんですけど……」

『いいとも』


 青年はあっさり言って指を外す。

 少女は二歩ほど下がって、少し咳き込む。


「――こほん。

 じゃあ、その前に『知恵』をちょうだい。悪魔は『知恵』を授けてくれるものでしょう?」

『ああ、そうとも』

 青年はにやにやと笑い、

『何が欲しいんだ。どんな知恵でも授けよう』

「じゃあ」


「誰にも迷惑かけないで死ぬ方法を教えてくれない?」


『――――ふむ』

 青年は顎に指を当て、とんとんと叩きながら続けた。

『もういいのか。割と器量も良いし、招喚書を読める程度だ、莫迦ではなかろうに、これからの人生がいらないと?』

「……――疲れちゃって。

 どうしても休みたいの。

 生活するのが、耐えられない」


 語尾がくしゃりとゆがんだ。

 流れた涙が、風にほどかれていく。


「とうさんもかあさんも、仕事で私にたくさんお金を使ってくれる。にいさんのことだって大好きよ。でも、もう疲れちゃった……。勉強するのも、学校行くのも、平気なふりしてるのとか。わたしはもう……」


 悪魔はひとしきり、泣く彼女を見つめた。

 近づき、頭を撫で、やさしく胸の中へ彼女を迎えた。


『――お前の魂は傷んでいる。完全な魂でなければ、喚ばれた意味がない』 


 紫の瞳が瞬いた。


『だから、私が安らぎを与えよう。いつでも、温かくお前を迎えよう。

 辛いときには、ここに来るが良い、人の子よ。

 今日からしばらく、お前だけの私でいてやろう』

「――――」


 少女は泣き顔を伏すように、その言葉にうなずいた。



 ――都会の屋上には、凍るほど青く澄んだ空が、今日もまだ広がっている。







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あしたのはなし 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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