ミント・チョコレート

阿部 梅吉

ミント・チョコレート

 自然災害としか言いようがない。災害だから仕方ない。そもそもの出会いからして、全く予期せものだったし、こればっかりは誰にもどうしようもない。


止められない、変えられない。

自分の意思でコントロールできない。





  あれは平成最後の蒸し暑い夏の夜だった。

 誰もいない、深夜2時の学校……。





  二年前。僕がまだ大学二年生だった頃。学内のジャズバンドのサークルに入っていた僕は、学校祭前の練習で終電を逃して友達とサークル会館で寝ていた。僕はふと夜中にひとり目が覚めてしまい、ついでになんとなく頭も綺麗に冴えてしまっていて、外にタバコを吸いに行った。日中ずっと練習していた興奮もあり、うまく寝ることができなかった。携帯は2時を示していた。

 丑三つ時、と僕は心の中で呟いた。そんな年齢なんかとっくに過ぎたのに、思い出すのは小学生の頃、母親に言われた言葉。深夜2時から3時は幽霊が出るから起きちゃだめ、と。僕は笑った。我ながら可愛い思い出だ。もう僕は子供ではなくなっていた。



 僕は先月20歳になったばかりだ。タバコは誕生日当日から始めた。まだ銘柄はよくわからないからセブンスターを適当に吸っている。同じサークルの先輩が吸っていたからという単純な理由で始めたタバコだったが、なんとなく今じゃ生活の一部になっているから笑える。煙をじっと見ながら深呼吸すると、だんだんと落ち着いてくるから不思議なものだ。


 しかしその誰にも邪魔されない深夜の落ち着きは、長く続かなかった。

 ガコガコと奇妙な音がした。ポルターガイストだろうか、誰かが何かを蹴るような音が暫く続いた。僕は母親に言われた小言を再度思い出した。まさか。まさか幽霊などいるまい。もうそんなものに怯える年齢でもないのだ。音は壁の裏側から聞こえた。僕は意を決して、というほどでもないが、ひょいと壁の先を覗いてみた。見ると、自動販売機の前にジャージ姿の女の子が一人立っていた。彼女はさ、っとこっちを向いた。

 

 目が合う。一瞬、時の流れが遅くなったような気がした。大きな黒目、小柄な体、無造作な黒髪。彼女は驚いたような顔をして、僕の顔を見るなりまたさ、っと翻してどこかに行こうとした。


「何してたんです?」と僕は聞いた。

「この自動販売機、お金は言ったままじゃないですか」自動販売機の130円の商品が点滅したままだだった。

「ボタン押しても出ないから」と彼女は面白くもなんともない、とでも言うように呟いた。

「何を押したんです」と僕は言った。

「豆乳チョコミント味」

「へえ」と僕は言われた通りの商品を押してみた。そんな商品があることは今初めて知ったが。が、っとオトが鳴り、2秒後に商品が出てきた。

「出てくるじゃないですか」

「嘘」と彼女が言った。僕は彼女に豆乳チョコミント味を差し出した。彼女は両腕を組んだまま、それを受け取った。

「さっきまでは反応しなかった」

「今はあるんですけど」

「本当だから」と彼女は言った。

「蹴っても出なかったし」

「蹴ったんですか」僕はようやく合点がいった。さっきのポルターガイストは彼女の蹴りだったのだ。

「本当だったんだから」

「別に疑ってませんよ」と僕は言った。

「今出たんだからいいじゃないですか」

「よくない。次来た時困る」

「まあそうですけど……」

 彼女は自分の両腕を組んだまま、唇を噛んだ。

「自動販売機は蹴っちゃだめです、しかもこんな夜に」

「中の機械の接触の不具合が原因なら物理的衝動は合理的な解決方法だと思う」

「減らず口ですね、何学部なんです?」

「工学部情報科学」彼女は面白くもなんともないように言った。

「そうですか、今は何しているんです?」

「何って普通に研究しているだけ。あんたこそ何してんの」

「僕は学校祭の準備です」

「何の?」顔も水に彼女はそっけなく言う。

「ジャズバンドのサークルです」

「学祭でなんかやるんだ?」

僕はたまらず煙草に火をつけた。

「なんかっていうか、演奏しますね。1日目も2日目も午後の13時からここの会館で」

「ふうん」彼女は腕を組んだままだった。

「興味なさそうですね」僕は深く煙草を吸った。

「なかないよ、ただ学校祭自体に興味ないの。もう大学も六年目だし」

「え?」僕は耳を疑った。

「六年生?」

「院生だけど」

「あ、そうなん……、ですか」

 失礼だが、彼女の外見はとても年上には見えなかった。華奢な体型に高校生と言っても通用するような顔。

「お前今、咄嗟に敬語にしたよな?」すかさず彼女から突っ込みが入る。

「いや、まあ」

「否定しろよ」

「お姉さん、僕より年上だったんですね」

「まあ、あんたは? いくつなわけ?」

「20歳になったばかりです」

「若っか」と彼女が言った。それはこっちのセリフだが。

「煙草も覚えたてなんだ」と彼女が笑いながら言った。

「まあそうですけど、お姉さんは吸うんですか?」

「まさか。知人が肺がんになって死んだからね。死んでもやらない」

「そうですか」そんな話を聞かされるとなんとなく吸いづらいが、吸ってしまったタバコに罪はない。

「タバコ、よくないですかね」

「良くないと思うよ? そりゃ」

「吸ってみたいとかは思いません?」

「思わないね……」

「名前、なんていうんです?」

「名前?」彼女がきょとんとして聞き返す。

「お姉さんの名前ですよ、そんな日本語初めて聞いたみたいな言い方やめてください」

「別に好きに呼んでくれていいけど」

「また面倒くさい発言やめてください」

「あんたは?」

「西邑(にしむら)です」

「言うじゃん、ニシムラ」彼女はにっと、いたずらが上手くいった子供のように笑う。

「だからお姉さんの名前はなんなんです?」

「好きに呼べって。ミントとかチョコとかさ」

「ミントチョコ先輩って呼びますよ」

「いいよそれで」

 それが彼女との出会いだった。





 彼女は学校にほぼ住んでいると言っても過言ではなった。よくサークルの練習で遅くまで残ることや終電を逃すことがあったが、彼女はたいてい夜中のサークル会館に出没した。聞くと彼女は大学から片道1時間半くらいかかるらしく、面倒で最近は帰ったり帰らなかったりしているそうだ。


「女の子なんですから気を付けた方がいいですよ」と僕はある蒸し暑い夏の夜に彼女にきちんと警告した。


「腐ってても女の子なんですから」

「誰が腐っているんだよ」彼女は僕の腹の真ん中に右ストレートを決めた。本気ではないのだが、少しだけ痛い。

「先輩、まじで学校になんか泊まらない方がいいですよ」

「まあでもやりたいことはあるしね」

「家じゃできないんすか」

「こっちのがいいんだよ」

「研究ですか?」

「そう」

「そういや先輩って何研究しているんですか?」

「七関節アームロボットの作り方」

「なんですかそれ」

「その名の通り関節が七個あるロボットだけど」

「なんかすごいですね」

「すごいよ。……あんた、ロボットは好き?」

「好きでも嫌いでもないです」

「そっか」

「先輩は?」

「好きだよ」

「そうですか」

「うん」

「学祭、見に来てくれます?」

「……一瞬ならね」




 学祭では小さいハコで、アンサンブルをいくつか掛け持っていた。客の様子はすぐに見えた。チョコミント先輩は曲が始まる前に現れて、そのまま終盤までずっとドアの隅で立っていた。


 バンド演奏の後、夜にサークル会館で先輩に会った。

「先輩。来てくれたんですね。ありがたいですけど、棒立ちでノリ悪いじゃないですか。逆に目立ってましたよ」僕が声をかけた。

「知らないよそんなそっちの都合」彼女はなんでもないように言いながら、豆乳チョコミントを飲んだ。

「何よノリッて」

「ノリはノリですよ、ふ、ん、い、き」 

「知らないよ」

「先輩は相変わらずまたチョコミントですか」僕はタバコに火をつけた。

「お前も変わらずタバコ吸ってるじゃん」

「落ち着くんですよ」

「やめなよ、癖になる……」彼女の言葉尻が消えた。

「あの、肺がんになった知人って、」

「え?」と彼女が聞き返した。

「あ、いや」と僕はもう一度タバコを吸った。言葉がそのまま宙に浮かんで、消えた。



 僕はその年の学祭の打ち上げの席で、後輩にサラリと告白された。

「ニシムラさんって見てるようで見てないですよね」

「そうかな、ドラムやってるときは見てるけどね」僕はバンドではドラム担当だった。

「見えてないですよ、意外に」 

「そんな簡単にわからないでしょ、人なんて」

「そうかもしれませんが」と彼女は言った。

「自分が誰かのことを侵食してるとは思いません?」

「思わない」

 そのまま外にタバコを吸いに行き、打ち上げにはバックレた。




 あくる日の夜。サークル会館には誰もいなかった。一人を除いて。夜の22時。

 僕はドラムの席に座って一通りのフレーズを弾いた。誰もいなかった。シンバルの音だけがきいいんと反響した。スネアをオフにして、またタバコに出かけた。

 ジャージ姿の先輩をサークル会館の休憩室で見かける。彼女は机に突っ伏して寝ていた。

「あ、いる」僕は言い、彼女の隣に座った。

「まあね」眠そうに目をこすりながら先輩が言う。

「寝るなら帰ればいいじゃないですか」

「ん……」彼女は一瞬たじろいだ。

「一応最近は家には帰ってるよ」

「直近だと?」

「昨日の夜帰って今日の朝来たの」

「なんだ」僕は少し安心した。少なくとも学校に住んではいないらしい。

「でももう帰りたくない」

「なんでですか」僕はなぜだか、彼女の肩をどつきたい衝動に駆られた。

「ちかん」

「え?」

「だから、痴漢。ムカつくから」

「あ、ああ、痴漢」

「そ」

「いつですか?」

「今朝」

「今朝ですか 電車でですか?」

「まあ……」彼女は目を逸らし口ごもる。

「よくあることなんですか?」

「たまにね……」

「だから帰りたくなかったんですか?」

「それもある。面倒なのもあるし」

「帰らなきゃだめですよ」

「まあそうなんだけど、勇気が、さ、なくて」

「なんなら僕、一緒に帰りますよ。今日は終電まだでしょ?」

「あんたはどこなの? 地元」

「手稲ですけど」

「あたし江別だよ」それは僕たちの大学の隣の市だった。

「いいっすよ別に。てか市内じゃないんですね」

「うん」

「そのアウトドアのリュック、先輩のですよね? 持ちますから行きましょう」僕は立ち上がって振り返らずにサークル会館をあとにした。



 我々は電車の中で何も言わなかった。ただ黙ってぼうっと夜の街を見ていた。彼女は始終目を伏せて口を硬く結んでいた。

タバコが吸いたかった。



「今更なんですけど」

「うん」

「先輩の名前も連絡先も知らないですね」

「うん」彼女は特に何も問題がないとでもいうように返事を舌。

「いや、、教えて下さいよ」

「090〇〇〇〇〇〇〇〇」

「いや、今早口でしかも口頭で電話番号言われてもわからないです」

「あ、そう」

「手、出してくださいよ」

 僕は自分の鞄からサインペンを出す。左手で先輩の右手を触った。その手はすごく小さい。指は細く、爪は小さい。僕の第一関節くらいに彼女の指先が重なる。

「何してんの」

「僕の携帯番号、書いておきますから」

「手に書くなよ」

「だって、携番教えてくれないじゃないですか、先輩は」

「教えるって」

「名前すら教えてくれないのに」

「LINE」と彼女はぶっきらぼうに言った。

「LINE、教えるから」

「あ、ほんとです?」カコカコと彼女は携帯を操作し始める。

「出して」と彼女が言った。

「手をですか?」

「携帯だよ、そういう流れだったろ」

「あ、はい」

 彼女の携帯に僕の携帯をかざす。



 長瀬あきほ、

 と書かれてある。アイコンはどこかのカフェのチョコミントの飲み物だ。


「あきほ先輩」と僕は口に出してみる。初めて知ったフルーツの名前を口にするときのように、何かしら新鮮な気持ちと、少しのこそばゆさ。

「……うん」心なしか先輩も顔を赤くしているような気がする。

「名前、かわいいじゃないですか」

「……あ、うん……。ありがと」

「次、もう江別ですね」

「うん。ありがとね」

「……家までついていきます? もう遅いし……」

「いや、改札まで降りないでそのまま札幌に帰りなよ」

「大丈夫です? もう23時ですよ。家は近いんですか?」

「大丈夫、こっからチャリだし」

「ホントですか?」

「うん」

「電話、俺にならいつでもかけていいですからね」

「うん」

 江別に着いた。

「したら」

「したら」


 僕は反対側のホームの札幌行きの電車に振り返らずに乗った。





 あきほ先輩からの連絡は思ったよりも早く来た。


【風邪引いた寝てる】

 メッセージには読点も句読点も改行もなかった。



        【今どこにいるんです?】

【家】

        【いま一人なんですか?】

【お母さんもお父さんも仕事】

        【食べ物はあります?】

【梅干しある】



……要するにそれ以外ない、と。


         【とりあえず江別行きますよ】

【江別まで?】 

         【一時間くらい待っててください】



 僕は何も考えずに家を出た。




 彼女から自宅の地図が送られてきていた。僕はその指示に従ってひたすら歩いた。

 地図の通りに歩くと、そこそこ綺麗な一軒のマンションに辿り着いた。

         【着いたと思うんですけど、オートロックかかってますよ】

【あー開けるよ。下にいる?】

         【〇〇ハイツですよね?】

【うん、今下降りるわ】


 

 数分後、彼女は下に降りてきた。いつものジャージ姿だが、心なしか肌が青いし髪も広がっている。まあもともと外見には拘らないような性格の人だが、やはりやつれているように見える。

「大丈夫ですか先輩」

「まああんまよくないね、今日は何も食べてないし」

「それは良くないですよ」

「そ?」

「当たり前じゃないですか」

「ま、そうだよね」

「水分はとってます?」

「あんまり」

「良くないっすよ、ポカリでも飲んだほうがいいです、豆乳チョコミントとかなんかじゃなく」

「ウイダーinゼリーとか?」

「そうそう。……だいぶ追い詰められてますね。今家の前のコンビニに言って買ってきますから、ちょっと待っててください」


 僕は彼女を家に残してコンビニに向かい、言われたとおりウイダーinゼリーとポカリとゼリーを買った。

 もう一度、彼女の家のチャイムを押す。



「ニシムラ?」彼女の鼻声がインターホン越しに聞こえる。

「はい」

「ん」

 鍵が開いた。



 僕は恐る恐る扉を開けた。

「せんぱーーーい?」僕は家に向かって声をかけた。誰も見当たらない。

「……」

 僕の声だけがむなしく部屋に響いた。綺麗な部屋だ。意外と片付いている。……というより物が少ない。リビングにはテーブルと椅子があるだけだ。あと奥の部屋には……


 ぺたぺたとフローリングを歩く音が聞こえた。見上げると裸足のまま、先輩が象のようにゆっくりとこちらに向かって来た。彼女はこんな暑い日だっていうのに、アディダスのジャージの上にわざわざアウトドアのパーカを羽織っていた。なぜか足だけは裸足だ。


「ニシムラ、帰ってきたの」

「あきほ先輩!」

「……何買ってきたの」

「言われた通りゼリーですよ。味はわかんなかったから、いろいろ買ってきました」僕はテーブルに買ってきたものを勝手に並べた。インゼリーのマスカット味、グレープ味、オレンジ味。

「あ、ありがとう、これすき」

「ポカリもありますよ」

「ふうん。食べていい?」

「もちろんですけど」

「お金、いくらした?」

「別にいいですって」

 彼女は小さい手でゼリーを掴み、小さい口でそれを吸った。僕は何となく、小学生の頃に友達の家で見たハムスターを思い出した。


「先輩ってネズミみたいですよね」

「はあ?」ガラガラ声で先輩が言う。

「ジャンガリアンハムスターでしたっけ、あれに似てます」

「それって誉め言葉なん? けなしてるん?」

「どちらでもないです」

「おめえ一回寺で修行でもしてきたら?」先輩がジト目で言う。

「しませんよ、てか結構元気あるじゃないですか。そんなこと言えるなんて」

「お前が言わせているんだろ」

「面白いですね先輩」

「おめえだろ」先輩は目も合わせずにそう言った。


 ふと彼女の方を見ると、胸のあたりに突起が見えた。ああ、おそらく下着をつけていないんだろう。だからわざわざこんな暑い日にパーカなんか着こんでいるのだ。

 しかし彼女のその姿を見ても僕は興奮しなかった。注意しようかどうか迷ったが、今は言うべきではないと思った。病人にそんなことを言う場合でもない。


「ポカリも飲んで、寝てくださいね」

「うん。寝る……。ありがとう」やけに素直な気がするのは病気のせいだろう。

「何か家事とか、することあります?」

「ないよ、大丈夫」

「あっちの部屋とか片付いているんです?」僕は奥の部屋を指さした。

「だっ、大丈夫」心なしか彼女の顔が赤くなる。

「信用できないですね」

「大丈夫、だから」彼女が語気を強めた。

「本当です?あ、皿とかちゃんと洗っています?」

 シンクを覗いたら案の定皿が溜まっていた。

「洗いますよ、勝手に」僕は勝手にスポンジを握った。

「うん」先輩の声に元気がない。

「寝ててください」

「うん」

 そう言うと彼女はそのままフローリングの床の上で布団もかけずに寝てしまった。

「あの、先輩、寒くないです?」

「あんまり」そりゃ着込んでいるからね、と思ったが口には出さなかった。

「皿洗いの時って暇じゃない? 何か曲でもかけない?」と先輩が言った。

「気を使わなくていいですから寝ててくださいよ」

「何かおすすめの曲はないの? あたし皿洗う時って、宇多田ヒカルの『光』しか思いつかないんだけど」先輩は僕を無視して続けた。

「この前の学校祭では僕、グレン・ミラーとかやりましたけど」

「だめ、あれは夕方に聴く曲だから」

「なんだ、わかっているじゃないですか」同感だった。

「だから……今は別の……」そこで声が途切れた。水の音だけがこの家に響いた。



 しばらくして、彼女はゆっくりと鼻歌を歌った。

 例によって、宇多田ヒカルの、『Beautiful World』。

 か弱い細い声でサビだけ歌う。 


「最近調子どう?」と僕は彼女に聞く。

「元気にしてない」と彼女。

「それは別に良くないな」と僕。

「うん」

「……寝た方がいいですよ」

「うん」

「布団でも持ってきます?」

「大丈夫」



 数分後に振り返ると、先輩はうつぶせで床の上に寝ていた。

 僕は悪いとは思いながらも奥の部屋に入った。そこはただのどこにでもいる女子大生の部屋だった。白いベッドがあって机があって、教科書で並べられた本棚があった。

 僕はベッドの上からピンクの掛布団を取り、床で寝ている彼女にかけた。

「暑いかな……」

 彼女の顔は見えなかった。もしかしたら、寝ているふりをしているだけなのかもしれない。

 けど今だけは……。


 彼女の歌声が頭の中に響いていた。

 気分のムラだけは仕方ないのだ。





 自然災害としか言いようがない。なんてったって災害なのだから仕方ないのだ。 そもそもの出会いからして、全く予期せものだし、こればっかりは僕にはどうしようもない。僕のせいでも彼女のせいでも、おそらく神様のせいでもない。この自然災害を、僕は、いや誰も、制御できない。

 厄介なことに、これを「恋」と呼ぶにはまだあまりにも未熟すぎる。



 翌週大学に行くと、夕方に彼女から連絡が来ていた。

【この前はありがとう】

絵文字もスタンプもない。

       【体調は良くなりました?】

【もう大丈夫】

 よかった。

【今日夜、時間ある?】


 ん? どういう風邪の吹き回しだ?

       【バンドの練習の後でしたら……】




「で、なんで回転寿司?」


 僕らは大学から一駅離れた場所の回転寿司屋にいた。しかも彼女は今日、いつものジャージではなくスーツでいた。髪だっていつものように広がっていない。


「ま、ちょっとした祝いとお礼」彼女は淡々と言う。

「何かあったんです?」

「私、来年から研究職に決まったから」

「え!! おめでとうございます」僕は素直に喜んだ。店内は子供連れと学生が多く賑わっていたが、このときはさして周りの音が聞こえなかった。

「試験は研究プレゼンだったからね。意外と余裕だったよ」

「すごいじゃないですか」

「ペーパーの英語はだめだったと思うけどなんとかなかったし」

「そうなんですか?」

「うん。英語得意じゃないから頑張んなきゃ。あ、寿司、どんどん頼んでね」

「いや、出しますよ僕も。お祝いですし」と言いつつ僕は一番安いサーモンをとる。

「この前のお礼もあるからいいよ。高いの食べな。蟹とかさ」

「蟹は別に今良いですけど、本当にすごいと思いますよ」

「まあでもこれからだしさ、人生の本番は」

「どこなんですか? 職場の場所」

「S県のR研」

「えっ、それめっちゃすごいじゃないですか」

「これからは一人暮らしだよ。あそこの周り、何もないんだよね」

「そうですよね。先輩、一人暮らしできるんですか?」

「やるしかないでしょ。できるできないとかじゃなく」彼女は僕の顔を見ず、寿司に集中しながら言った。

「まあそうですけど」

 なんだか急に彼女が遠い存在に思えた。


 押し問答の結果、結局僕たちはその場で寿司を割り勘をした。

「コンビニ寄っていい? アイス欲しい」

「僕もタバコが欲しいですね」

「まだ吸っているんだ」

「まだ吸っていますね」

「そんなに美味しい?」

「美味しいですよ、落ち着きますし」

「好きな人に赤ちゃんができたらどうするわけ?」

「やめますね、そのときは」

「ふうん。意外と潔いんだ」

「そうですね。そう言われたらやめるしかないでしょう」

「ふうん。あ、タバコは奢らないから、あたし」

「別にいいですよ」

 僕らは別々に会計した。彼女はコンビニの外でガリガリ君のチョコミント味を食べ、僕はセブンスターを吸った。

「近づかないでよ。副流煙があるんだから」

「はいはい」僕はコンビニの前に置いてある灰皿に向かってゆっくり吐いた。

「私、まだこの世でやりたいことがたくさんあるから早死にしたくないの」

「いいですね。何がやりたいんです?」

「私の脳をシステム化して半永久的に生きるの。素敵でしょ」

「意味わかんないっすね」

「要は私個人をプログラムに組み込むってことよ」

「それはいつまでやるんです?」

「周りの人がみんな笑顔になるまで」

「それっていつまでも終わらなくないですか?」

「たぶんね」

「でも、応援しますよ。まじめに」

「うん」

「そういう夢があるってのはいいっすね」

「でしょう」

「何のために研究しているとか、あるんですか? 理由とか」


「別にまあ、研究自体が好きだから、ってのもあるけど、」

のために研究しているんですか?」

「たぶんね。ところで、このアイス、食べない? 食べかけだけど……」

「じゃあ一口」

 彼女の小さい右手首をつかんで離さないまま、溶けかけのアイスに口をつける。

まったく、この人はこれだから……。


「あ、一口大きいってば」至近距離で、声が聞こえる。やけに響く。

  すうっとする味だ。ちょっとビターで。


「悪く無いですね」

「うん」

 溶けたアイスの水滴が地面に落ちた。下を見ると彼女の小さい顔がすぐそばにあった。腕をちょっと動かせばすぐに触れられる距離に、彼女の、顔が、


「帰りましょうか」と僕は言った。

「うん。今日はありがとう」

「就職、おめでとうございます」



 そこから半年間、僕らはたまにサークル会館で会う以外にはお互い研究と学業との平凡な日々が続いた。



 年が明けてから、彼女から連絡があった。

【家が決まった。引っ越し手伝え】

命令型だった。




 「新しい家はどんな感じなんです?」

 彼女の家に僕はいた。予想してたとおり彼女にはまったく引っ越しの才能はないらしく、でたらめに物を詰めては箱にゆるゆるの梱包をしていた。おかげで僕はそれらを一回箱から取り出し、また詰めなおさねばならなかった。

「家賃6万。高いね」

「それ以外では?」

「家電がついてる」

「よかったじゃないですか」

「お風呂もあるよ」

「ワンルームですか」

「そうだね」

「新しい生活が始まりますね」

「うん……」

 会話が止まった。僕たちはしばらく引っ越し作業に集中した。


「離れるね」と彼女は言った。

「そうですね。そっちに遊びに行ってもいいですよね?」

「うん。来てよ」

「行きますよ」と僕は言った。

「きっと関東には北海道にはないおしゃれなチョコミントの飲み物とか売っているんでしょうね」

「うん。たぶんね。いいでしょ」

「いいですね。でもセブンスターはどこでも買えますから」

「言えてる」彼女が笑った。



 僕はタバコを今のところやめるつもりはない。彼女はやめた方がいいと言うが、明確に僕にやめろとは言わない。彼女にそう言われたら、やめることを考えていいかもしれない。

 ところで離れた後、僕はどんな文章を彼女に送信すればいいのだろう。何も考えなくてもいいのかもしれない。ただ単純に会いたいと言えばいいのかもしれない。もし彼女が関東に行って素敵な男でも見つけたら、そのとき僕はどうすればいいのだろう?


 わからないことがたくさんある。きっとこれはまだ恋じゃない。それでも僕は、来年ちゃんと彼女が一人暮らしをしているのか、見届けたい気持ちがある。そうだ、これは兄弟愛に近いのかもしれない。

 

「曲をかけていいかな」と僕は物を段ボールに詰めながら言った。

「いいよ」

 例によって、『Beautiful World』。



「次に会うときは、もう夜じゃないですね」

「せめてグレン・ミラーの合う時間帯にまではね」彼女が笑う。

「元気にしてくださいよ」

「お互いに」


 帰り道、だれもいない道を、たばこを齧りながら帰った。黄昏時だった。自分の影が長い。

 この時間帯は調子が狂う。

 何も死ぬわけじゃないんだ。でもちょっとだけ、やっぱりセンチメンタルになっているような自分がいて。

 気分のムラは仕方ないのだが……。


  感情に言葉なんかつけなくていい。ただ凍らせて保存すればいいのだ。そのまま。そっくりそのまま。

 何もわからなくてもいい。これからどうなるか、どう変わっていくのかなんて誰にもわからない。

 ただ、今、目の前にいる人がとても気になる。今は、ただ、それだけ。



《了》

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