のじゃ人無宿
祭谷 一斗
第1話 町中食堂のキツネ定食(1)
ええ、あの二人のことは良く覚えていますよ。
もう30年は昔のことですが。
ちょうど38年前? そんなにですか。
親子という風ではなかったですね。
どちらかと言えば、兄妹のようだったと思います。
十代後半の男の子と、3歳くらいの娘さんでした。
いや、男の子と言うよりは、男の人と言った方がいいでしょうか。
中肉中背よりは小柄。あどけなさが残る顔立ちでも、薄い無精髭が子供でないと主張していました。
よく覚えていますよ、その二人のことは。
なにしろ、どん底の時のことでしたから。
大げさかも知れませんが、私にとってはね。
ええ確かに、店をたたんだ事は一度もありません。
ですが、それに近い時はありました。
お客さんはいる。けれども十分ではない。
だいたい、そんな時のことでしたね。
当時、常連さんはいたんです。
父の代からの常連がね。
父が亡くなり、そう経っていませんでした。
娘の私が一人、亡き父の後を継ぐ。
なかなか、泣かせるでしょう。
じゃあ俺たちが盛り立てなきゃと、昔からの方々は思ってくれる訳です。
そのこと自体は、大変ありがたいことです。
確かに、常連さんはいました。
でもお客さんは正直だった。
店への義理立てに乏しいお客さん。
いわゆる一見さんです。
この類のお客さんが、当時どんどん減ってましたね。
常連さんはいました。それは確かです。
けれども。
ウチみたいな安い定食屋、常連だけじゃとてもやって行けないんです。
考えてもみて下さい。
一食、そうですね、600円。これで、原価が30%としましょうか。
残り420円。ここから家賃に電気代と諸々を引く訳です。
週に一度、来てくれるお客さんがいるとします。
これはほとんど、常連と言っていい数字です。
そのお客さんが、店にとってどれだけ収入になるか。
ざっと、月に1700円ほどです。
では店の維持に、月20万円かかるとします。
20万円を1700で割ると、およそ120。
週に一度来てくれる人が120人必要になります。
そしてこれは、あくまで維持に必要な人数です。
人を雇い、まともに給料を出すなら?
時折、古いドアや椅子を改装するなら?
100人どころじゃない。常連さんが数百人と必要になります。
うちみたいな町中の定食屋では、およそ非現実的な数字です。
結局は、常連さん以外も必要なんです。気まぐれに来る人が。
いくら義理があっても、毎日同じ店で食べてはくれない。
人は定食だけで生きちゃいませんから。
月に一度。あるいは二、三ヶ月に一度。
半年。あるいは年に一度。思い出したかのように、ふらっと来る。
そんな大勢がいないと、定食屋は成り立たないものなんです。
外食は立地が8割、と言われています。
立地でほぼ決まる。これは事実です。
なぜなら、ふらっと入るお客さんに恵まれるから。
今日は親子丼にしようか。豚汁に野菜炒め。軽くうどん。
たまたま通りがかる人の中で、さらにたまたま、入ってくれる人がいる。
立地がよければーーつまり、人通りが多ければーーたまたま店に入る人も増える。
仮に1%の人が入るならどうでしょう。100人が通っても1人ですが、1000人が通れば10人になる。
単純な話です。単純過ぎて、感傷の入る余地はない。
少なくとも、私はそう考えるようになりましたね。
ええ、立地は良かったです。父の店の立地は。
でなければそもそも、常連さんに恵まれませんから。
立地は良い。常連さんにも恵まれている。
けれども。消去法で、味しかありません。
と言って決して味が落ちたとか、そういう訳じゃない。
味のせいではないはず。なら何のせいで。
毎日、そう迷っていました。
どん底と言うより、アリ地獄の心地だったかも知れません。
自分で言うのもなんですが、メニューはおいしくなってたと思います。
さっと一新はしていません、でも少しづつ良い素材にしていましたから。
ひとつだけ良いものに変えると目立つ。なので、醤油から七味から少しづつ、です。
結果として、味のバランスを壊してはいなかったと思います。
でも現実として、お客さんは減り続けていました。
常連さんにそれとなく聞いてみても、みんな分からない。
遠慮じゃなかった、と今では思います。
事実として、おいしくなってはいた。それでも。
立地は良い。サービスもまずまず。
味だって、決して落ちている訳じゃない。
むしろ、おいしくなってはいるはず。
その一方で、お客さんは減り続けてる。
悩みましたね。
悩んで、まあ必死ですから、思う訳です。
もっとおいしくすればいい。
そうすれば、お客さんは戻るはず。
まあ、見えなくなっていたんでしょう。
おいしくしたら、お客さんが減った。
客観的に見て、それは事実でした。
その上で、「もっとおいしくしなければ」と頑張ってしまったら。
当然ながら、「もっと」お客さんは減る訳です。
そこの所を、掴みかねていたように思います。
そう言うどん底の時期。
やって来たのが、あの二人組でした。
先の見えないどん底。
そんなときに来た、後から思えばの恩人。
こうしてる今も、なかなか忘れられない訳です。
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