第1部 第23話 日常と非日常の間

 沙希が通う渡久山高校は市の中央部、市役所のある交差点を少し北、山側に行ったところにある。

 市役所が建っている交差点は十字路になっているのだが、東西方向の道路沿いには桜が、南北方向に延びる道路沿いにはイチョウが植えられている。

 なんでも、戦時中に空襲で焼け野原になった後、街を復興するときに、復興と平和のシンボルとして桜を、火災に強い木としてイチョウが植えられたということだ。春の桜並木と秋のイチョウ並木は渡久山市中央部の名物となっていた。


 沙希が渡久山高校吹奏楽部に入部してから、1か月半ほどが過ぎた。桜の季節がすっかり終わり、葉桜となり、イチョウの葉も色濃くなっていた。

 沙希は毎日自転車で通学しているが、桜並木を自転車で走ってきた後、市役所の交差点を曲がると、木々から流れてくる香りが変わって、学校が近づいてきたことを実感する。いや、最近ようやくそのことに気づけるようになった。

 30分程度の自転車通学ではあるが、入学してしばらくは、時間にどれくらい余裕を持って自宅を出ればいいのかがわからず、意味もなく早く着いてしまったり、逆にギリギリになって、朝から顔を真っ赤にして自転車で爆走したりと、周りを見たり、木々の香りを気にしているような余裕などなかったのだ。

 

 県内有数の進学校で、部活へ入部する、しないも自由な渡久山高校は、部活へ加入しない生徒の方が多く、結局、今年度吹奏楽部に入部したのは沙希一人だ。

 だが、部員が5人しかいない部活であっても、部室の掃除や楽譜の購入の手続き、備品の管理など、楽器を演奏する以外の活動はそれなりにある。沙希は楽譜の整理を担当しているが、なにせ毎日、時間ギリギリまで合奏しているため、楽器庫は常に楽譜や備品が散乱していた。


 毎週水曜日は部活の休養日となっているため、楽器を出しての練習はできないが、部室の掃除等は許されているため、沙希は楽譜の整理を、他の部員達も手続き書類を書いたり、備品を整理したりする…

 という口実のもと、音楽室に集ってそれらの必要時間の数倍も、他愛もない雑談をするのが常だった。


「沙希ちゃん、もしかして、こないだの定期試験、相当まずかったんじゃないの?」

 奏は、沙希の背後から抱き着くと、眼鏡の奥の瞳をいじわるそうに輝かせて言った。

「うっ…なぜそれを…私、テストの話、カナ先輩にしましたっけ?」

「当ててあげようか。数Ⅰが壊滅だったんじゃない?」

 口元を緩め、いっそうニヤニヤしながら奏は沙希のほっぺたをツンツンとつつき出した。


ホレそれは違いますね。」

 奏にほっぺたをつつかれながらも、予想外にきっぱりと言い返す沙希。

「数Ⅰ『が』壊滅だったんじゃありません。数Ⅰ『も』壊滅だったんです。なんなら、ほぼ全て壊滅でした。でもまあ、数Ⅰが一番壊滅だったんで、あながち間違いでもありませんけど。」

「あらあら。沙希ちゃん、ひょっとしてこれは来年も一年生かしら。渡久山高校吹奏楽部、来年は全員一年生になるかも?」

 おそらく部が設立されて以来の珍事を想像して笑う奏。


「でも、なんで数Ⅰが壊滅だったってわかったんですか?私、数学めちゃめちゃ嫌いなので、先輩にその話なんてしたことないと思うんですけど。」

「だって沙希ちゃん、こないだ同級生の子と音楽室の前で数学のテストの話をしてた時、因数分解の襷掛けたすきがけのことを、『けやきがけ』って言ってたんだもん。相手の子、意味わかんなくてポカンとしてたわよ。まあ、読み方すらわかってないようじゃ、使い方はなおのことわかってないだろうなあ~。って思ってたの。」

「ええっ!アレ、たすきって読むんですか…」

「うう~。相変わらず沙希ちゃんかわいい~。癒される~。」

 全くもって素でボケる沙希を、相好を崩し切って後ろから抱き着き、子犬をあやすかの如く撫でまわす奏。

「うな~。ふゆふゆ。」

 今日もいい香りのする奏に撫でられてしばらく目を細めていた沙希だったが、視線の先にある時計を見ると、ハッと我に返った。


「あ、もうこんな時間。すみません。今日、この後用事があるので…」

「あら、そうなの?」

 使わなかったクリアファイルを詰めようと沙希がバッグを開けたとき、ちらりと、ワインレッドに近い、シックな色のリボンがあしらわれた髪留めが入っているのが、みうの目に留まる。

 みうは、沙希に気づかれないよう、隣にいた千晶の脇腹を肘で小突いた。


「では、お先に失礼します!」

 足早に音楽準備室を去った沙希だったが、沙希が部屋から出るや否や、みうはニンマリとした。


「ちー、見たな?」

「見た。」

「部活のない日にちょっとした背伸びアイテムがカバンに入っている。そして、慌てて我らから逃亡。これらの状況を総合すると、出てくる結論は」

「一つしかないな。」

「尾けるか?」

「無論。これは我が吹奏楽部の未来のための、正義の尾行である。」

「デアル!」

 二人は互いに、ピースサインを作った右手で敬礼した。


「奏、睦ー。」

「ウチたち

「オレたち

「「早退します」」

 上司に結婚を報告するかのようなノリで報告すると、みうは散らばっていたメトロノームやチューナーを、『片づけた』のではなく、『腕でなぎ払って棚の端に全て追いやって』から鞄を手にした。


(この二人が部活以外でこんなに楽しそうな表情をするといったら、誰かの色恋沙汰ね。というより、間違いなく沙希ちゃんのストーキングね…。でも、沙希ちゃんの表情、デートか何かが楽しみ、って顔じゃなくて焦ってる顔だった。ここは敢えて二人を泳がすか…)

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